うそ800始末22.あれはなんだったのだろう

20.05.14
うそ800始末とは

世の中の制度しくみとか生活スタイルあるいは考え方なんて、過去よりたやすく変化してきた。価値観、行動様式、ファッション、家具や家電品なんて数年たてば大きく変わる。
私が東京に出てきた2002年では、JRのプリペイドカード(スイカ)、都営バス、地下鉄、すべてに専用のカードがあり、都内を移動するのに三種のカードを使っていた。
今じゃ洗浄付き洋式便器が当たり前だろうが、家庭での普及率が50%を超えたのは、2001年(注1)、たった20年前のこと。21世紀になっても出張の際は事前にホテルに電話してウオッシュレットですかと聞いたものだ。もちろん洗浄付きでなければ別のビジネスホテルにした。一度ウオッシュレットではないけどシャワートイレですと言われたことがある。その時ウオッシュレットは商品名だと知った。
車を持たないのは一人前じゃないなんて1980年頃いわれたけど、今は車どころか免許を持たない若い人が多い(注2)
かようにほんの少し時が経てば、今が昔から続いたように記憶してしまい、あれはなんだったのだろうと言われるのは普通のこと。

私がISO9001認証に関わったのは1992年、もう四半世紀以上前のこと。
初めて認証をゲットしたとき、関係者が10人くらい集まって健保会館で飲んだ。
缶ビール缶ビール
設計、製造、計測器、設備、品質管理、総務、品質保証が私などであった。
今なら「ISO認証くらいで打ち上げか!」なんて笑われそうだが、当時は近隣でも取引先でも初めてのことで、右も左もわからない。そもそもISO規格の対訳本が売られていることを知らず、自分が規格全文(といっても10数ページ)を訳したし、無事認証したときはやったぞという達成感は大きかった。
そのとき課長がこぼした「そのうちISO認証なんて、あれはなんだったのだろうと言われるようになるね」という一言が忘れられない。

というのは規格要求というのは原文を読めば当たり前のことにすぎず、記録の保管にしても、文書の発行管理にしてもなんら新規性もなく感心するものでもなかった。むしろそれを素晴らしいとか、厳しいとか、あるべき姿とか、世間が持ち上げていることに驚いた。
なんであんなものが素晴らしいのか、認証する価値があるのか、それが不思議極まりなかった。
だから「あれはなんだったのだろう」というのはISO規格が下らないとか、消え去ってしまうという意味ではなく、ISO認証が消え去ってしまうだろう、少なくても認証しても評価されることはなくなるだろうという意味であった。飲んでいた私たちはみな同感だった。

しかしISO認証はしたたかであった。女性のスカートの丈の長さように、数年では廃れなかった。
我々がISO認証したのは欧州統合への対応だったから、当初私は欧州に輸出している企業の認証が一巡すれば、もうそれ以上認証する企業はないだろうと思っていた。
ところが1994年頃には消極的認証と積極的認証という言葉を聞くようになる。規制や顧客要求によってISO認証するのは消極的認証であり正しいことではなく、会社を良くしようという目的で認証する積極的認証が正しいあり方だというだ。そしてそう言いだした大学教授だか認証機関のえらいさんは、ISO認証は積極的認証でなければならないという。
品質保証屋として何度も顧客要求に対応してきた私としては、品質保証規格で会社を良くするという発想が理解できなかった。もちろん今もだが…
そしてISO9001は品質保証協定の内容を標準化しようとしたものである。どうしてISO9001で会社が良くなるのか?

1995年頃になると、ISO9001認証はそのタイトルである品質保証としてより、会社の箔付けとしての役割がメインとなった。
だがそうなると、ISO9001を認証するために会社を良くするのか、会社が良いからISO9001を認証するのか、果たしてその因果関係はどうなのであろうか?
ところで良い会社の指標と基準は何だろう?
ともかくISO9001認証はその会社にとってメリットがあったのだろう。あるいはメリットがあると認識(誤解)させる何かがあったに違いない。その何かはなんだろう?

まず旗幟鮮明にしておくが、私はISO9001:1987を否定するものではない。それは私がそれまでに関わった顧客との品質保証協定とほとんどオーバーラップしていて、規格要求については違和感がなかった。むしろ今まで顧客と取り交わしていたものより、要求事項の守備範囲が狭いと疑問に思っていた。
品質保証業務の先輩は、ISO9001は全項目について一様に要求を羅列したのではなく、審査を簡略化するために要求事項を抜き取ったのではないかという見解だった。
あるいは序文にあった「この規格要求は技術的な要求事項にとって代わるものではなく、これを補うものである(注3)という文章があるように、IATF16949のようなISO9001単体ではなく、契約の際はそれに技術について付加する前提だったのかもしれない。1987年版ではうるさいほどテーラリングを求めていたから。
ISO9001:1987は工場管理の基本を押さえているとは思う。その要求事項を社内のルールに落とし込むことは間違いではない。いやいや、まっとうな会社なら、はるか以前からそういうことは社内のルールとしていたはずだ。少なくても私の知っている会社ではそうだ。

だけどさ、ISO9001規格とISO9001の認証とはまったく別物である。大金を払って認証を受けるという意味が分からない。
商取引において個々に品質保証協定を取り交わし二者監査をするより、統一された品質保証規格で第三者認証をするという仕組みは、前記した技術的事項の漏れを除けばアリとは思う。
イギリスのようにBS5570の認証が官公庁の入札資格に関わるならともかく、当時はISO9001など経団連も通産省もあまり重要視していなかったと思う。

ともかくそういう発想というか宣伝広告、雰囲気作りによってISO9001の認証は1995年まではボチボチだったものが1996年から増加傾向に移り数年間のウハウハ時代が続く。
だが認証件数は増加したが、その増加傾向、つまり増分の差分は減る一方であった。
増分の差分がマイナスということは、いつか増分がマイナスしていきゼロ(変曲点)になり、やがて増分がマイナスしていきゼロ(頂点)になり、以降はドンドン減るばかりということだ。

認証件数加速度

注:ここでいう加速度推移とは、毎年のJAB認証件数の増加数の差分をとったもの。

なお2001年ITバブル崩壊、2002年イラク戦争、SARS流行、そしてその反発として2003年がある。ISO14001はその影響がほとんどないがこれは9001と違い行政機関、教育機関、サービス業など多岐にわたっているためかと考える。
しかし2006年から青息吐息となり今に至る。まだ認証件数は最盛期の半分以上なのだから過去の蓄積がいかに大きいかということだ。
なお2011年は増加しているのではなく、減少傾向が穏やかになったということで、認証件数の減少は続いている。

1996年にはISO14001が発行された。
みんなISO14001をほめたたえたけれど、それって立法や行政にケンカを売ったのと同じだよね。日本の公害防止は法規制だけでは足りなかったのですか?
法規制の上乗せかというようなことを説明会で聞いたら、日本は環境法規制がしっかりしているが、そうでない国もあるからなのだという。
そうなんだろうか?
ならば国によって法規制が違うことを考慮し、既に法規制があるところは関係する要求事項を除外するとかしたら良かったのではないのか?
実際の審査では法律なんて知らない審査員が、遵守状況を見ず(見ることができず)に規格文言と会社規則の文言を比較して、規格の語句の有無を見るなんて無駄、アホなことをするばかり。マネジメントシステムの審査とは、誤字脱字を探すことではないと思うのだが、
そんなことしないで審査時間を短くしてもらったほうがはるかに生産的だ。

重油 書類や現場を見て審査員が法を守っていないとイチャモンを付けると、私は必死に適法であると説明した。しかし法律に詳しい()ISO審査員たちは決して納得せず、私は何度も市役所や消防署に問い合わせに行った。
そんなこと何度もあったが、相談した結果、すべてはみな合法であった。工場に戻ってそれを説明しても、法律の専門家()なるISO審査員たちは不満な顔をするだけだった。
そもそも消防署が適法を確認したものにイチャモンをつける審査員とは何者なのか?

20世紀末、ISOを揶揄して「ISO認証して良くなったのは文書管理だけ」と言われた。
その後ISO14001が表れてからは、「ISO認証して良くなったのは環境意識」とか「ごみの分別」とかが加わった。
ISO認証がもたらしたのはそんなものが現実だ。
おっと、大事なことだが客先の品質監査がなくなったというのは、私の周りではなかった。そして言われたのは「ISO認証は信頼できませんからね」。もちろん私の勤めていた会社も調達先に品質監査を行った。その理由はもちろんISO認証が信用できないから。

先ほど私は、ISOMS規格はISO認証とは別物であるといった。
じゃあ、ISO認証はだめだけど、ISOMS規格はすぐれもの、立派なものだ、活用すべきだとなるのかというと、それも大いに疑わしい。

2000年になるとISO9001はわけのわからないものになり、21世紀になるとISO14001も本来の意図である汚染の予防と遵法に見合っているのか、わからないものになってしまった。露骨に言えば役立たずだ。
当初はISO認証の意義は理解できないが、ISO規格は価値があると考えていた私も、ISO9001は2000年以降、ISO14001は2015年改定以降、ISOMS規格は存在意義がないと考えるようになった。

時代とともに変わるのは流行や価値観だけではない。技術水準が変わり、実用されている機械・器具・技術が代替わりしていく。だからISO規格もそれに合わせて変化していかなければならないのだが、それについても多々問題がある。
それについて語る。

ISOMS規格に限らずISO規格は制定後5年ごとに、その規格を「改定」するか「廃止」するかそのままで良いと「確認」しなければならない。JIS規格も同じだ。
ISOMS規格は、その期間内に改定されたことは一度もない。
ISOのウェブサイトには「原則は原則であり、状況によりその限りではない」とある。でもISO9001が過去4回、ISO14001が2回改定されているが、6回中6回が5年以上ということは例外とは言えないだろう。全部が例外なら原則の例はあるのか?

そもそも時代が変わればスタンダードも変わるし、不要になる規格もでるのは当然だ。本質的にいかなる工業規格も寿命がある。
フロッピーディスクはまだ使われているかもしれないが、もはや搭載するパソコンは生産されておらず、店頭販売もない。今更JIX6225とかISO9529-2なんて活用している人はいないだろう。
CDだってしかり、VHSも同じ。ISO規格だって同じだ。「ねじ」とか「はめあい」は過去10年以上変わってないぞというかもしれない。確かに枯れた規格はとんでもない革新がなければ変更はないかもしれない。でも「確認」はされている。ISOMS規格は確認もされていない。

ついでにいえば会社の規定・規則もその会社で見直し期間を決めていて、そのときまでに改定するか廃止するかそのままで良いと確認しなければならない。

ちょっと気が付いたのだが…
「御社のこの規定は定期更新されていませんね。これは不適合です」なんて言われたことはないだろうか?
「ISOMS規格も定められた期限までに行われていませんので、弊社はそれを見習っております」という切り替えしはいかがなものだろう。
ISOMS規格の字面通りではないが、その運用に従っているならどうだ?という論理は否定できない。ISO認証制度がISOに異議申し立てしなければ我々は審査員の判断に従う理由はなさそうだ。
昔の人は言った「隗より始めよ」
おっと、あなたはクリスチャンでしたか?、ご安心ください「己に咎なき者のみ石を投げよ(注4)ってのもご用意しております。

1990年頃から、従来は法規制だったものが自主規制になるとか、国が検定していたものがメーカーが試験することになるものが増えてきた。電取法が電安法になったのもその一例だ。
ISO9001が登場したとき、貿易を円滑にするためのデファクトスタンダードである、デジュリスタンダードではないと言われた。
しかし現実のISOMS規格は、デジュリスタンダードといっていいのではないか? だってWTOのTBT協定(注5)というものがあって、国際規格があるものは国内で類似の国家規格(例:JIS)を作っちゃいけないというルールがある。もはや国家権力なんていうものでなく国際権力、デファクトスタンダードを名乗るのは不似合いでしょう。

まして今やISO9001の認証件数の34%は中国、ISO14001の認証件数の45%は中国である(注6)。もはやISOMS規格はグローバルスタンダードではなく、チャイニーズスタンダードにすぎない。

ISO14001全世界と中国

注:2018年はISOサーベイ2018のデータを、2017年まではISOサーベイ2017のデータを使用した。

要するに中国を除いてISO14001人称は減少しているようだ。
いやいや、中国も減少しているが他の国々よりそのスピードが遅いというべきか。

さらに言えば、もう充分陳腐化した…いや十分規格の意図が普及したならば、規格を廃止すべきではないか。
手っ取り早いのはISO14001だろう。
明日からISO14001は「Environmental management systems-Requirement with guidance for use」ではありません。「Environmental management systems-Guidelines」です。
冗談ではなく、それで問題があろうか?
環境管理はしっかりしなければならない。その基本的な仕様を示します。詳細はそれぞれの組織が考えることですで、間に合わないものだろうか?

しかしそう思うと、もっと改善できるのではないかと考えが広がります。
品質や環境は企業の社会的責任の一端です。社会的責任についてもISO規格は存在し、それは認証規格ではなく手引き(Guidance)です。
しかしISO14001が認証規格である必要がなければ、CSR規格に含めてもよいじゃないか!?
実を言ってISO26000の「6.5環境」の項目は16ページなんと12,000字費やしている。ISO14001の文字数は9,128文字しかない。
ISO26000の環境の項目を少し補強すれば間に合い、わざわざ別に独立したISO14001が必要ないという状況にある。


あれはなんだったのだろうとISO認証を振り返ると、混乱をもたらしただけで、有益な効果はなにもなかったのではないだろうか。今ISO認証がなくなって困る人や会社があるのかと思うと、認証機関とISOコンサルくらいかな?


うそ800 本日の蛇足
いよいよ「うそ800」もおしまいかって?
著名人の引退時期は何歳なんだろう。
クリント・イーストウッドが俳優を引退したのは88歳、刑事コロンボのピーター・フォーク引退は76歳、十津川警部の高橋英樹は76歳で現役、マッカーサーが連合国軍最高司令官を更迭されたのは71歳、小泉純一郎が政界引退は66歳、
あっ小泉純一郎を超えてしまった 😄 今年はマッカーサー超えか!



なんでわざわざ出典を注釈に書いているのかと疑問に思われる方へ、
三橋貴明という方をご存じかと思います。彼の考えに全く同意というわけではありませんが、彼はなにごとでも主張するにあたり、その根拠・出典を明記しています。 世の中にはだれが語ったか、どのメディアが報道したかを明確にせず、あたかも権威ある機関や人が語ったようにして主張したり反論する人やマスコミが多い。そんなことするなよ!しっかりした根拠を示すから、それをあなたなりに解釈して反論してほしいということだと思います。
実にすがすがしい。ということでそれを見習っているつもりなのです。


注1
注2
注3
この文章は規格改定されてもなくなることなく、9015年版のISO9001にもある。
注4
ヨハネによる福音書 8章7節
最近の訳では「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」となっている。ちょっと趣がないというかカッコ悪い。
「マタイによる福音書」にも同様なものがあります。7章3節
「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」
いずこの世でも自らを省みずって人が多すぎだ。
おっと佐々淳行さんの「己を顧みず」とか田母神閣下の「自らの身は顧みず」は真逆ですから誤解ないように!

注5
注6


うそ800の目次にもどる
うそ800始末にもどる