今回はコミュニケーションについて書く。
LMJという監査の神様が「Rightness means nothing ,only difference.」つまり「(監査とは)正しいかではなく、違いである」と語ったそうだ。その真偽は知らんが、監査とは基準と現実を比較し違いを見ること。
まあ世の中には「良くするために監査をする」という発想もあるそうだ(棒)。それって本来の監査ではなく、改善とか診断というのではないかと思う。まあ日本国憲法は思想の自由を保障してるから、私に迷惑がかからならどうでもいい。
ともかく監査とは基準と現実を比較することで、現実を見るとは文字通り「物を見る」と「行為や動きを見る」こと。いずれにおいてもコミュケーションが重要です。情報収集するには、自分の考えを相手に伝えなくちゃなりませんし、相手の考えを把握しなくちゃなりません。そのためには相手と共通の言語で意思疎通しなければなりません。
史上最初に制定された審査員の要件を定めたISO規格では次のように定めていた。
最近はどうか知らないが、1990年代初期の審査契約書には使用言語という項目があり、最初のときは「English」と記載した。その後、外資系認証機関でも日本法人に依頼した時は「日本語」と記載した覚えがある。
そんなわけで、この文章の「言語」を、私は30年間ずっと日本語とか英語のようなものと理解していました。しかし後にそうではないと思うようになりました。
ちなみに英英辞典を見ましょう。
言語を「特定の国や地域で用いられる……」と解するなら、東北地方の会社ではズーズー弁が使われているわけで、そこで審査するなら、審査員はズーズー弁を聞き取れそして話せること、さもなければズーズー弁と標準語の通訳を連れて行かなければならないのだ。
いやNHKアナウンサーが使う日本標準語としても、ISO規格用語は含まれない。だから当然のこととして審査員がISO規格用語を話しそれを受査側が理解できないなら、審査員は受査側が理解できる言葉や言い回しをするか、ISO用語をその会社の言葉に翻訳できる人を用意しなければならないということになる。
ISO10011-2に記載されていても、なぜ審査を受ける側はそれを審査側に要求する権利があるのかと問われても、答えることができる。
1990年代初期の審査基準はISO審査規格は「ISO10011-1 品質システム監査の指針」であった。そしてそこで「規定されたとおりに有効、かつ統一的に行うために、監査員資格を与える最低限の基準を定めたものがISO10011-2である」と記述されている。
枝番("-"でつながった部分)のついたものは別個の規格でなく、第二部とか第三部と呼ばれ一体のものとみなされる。
演繹すれば、コミュニケーションが不十分によることの問題は、すべて審査側の責任である。しかし現実の第三者審査においては、コミュニケーションが不十分によることの問題は受査側の責任だと断定しても通用するかもしれない。いや通用させていた。
事項は、是正処置の過程において原因はコミュニケーションが不十分であったと判明するし、その結果として摘出されたことは不適合でないとされるだろう。そして是正処置として監査の際はわかりやすい言葉で話すこと、質疑の際に理解の確認をすることになるだろう。
ISO規格要求事項には、ISOの言葉を使えとか正式な用語でなければダメとは書いてない。それどころか下記の文言がある。
ここまでで分かったことは、審査でも監査でもコミュニケーションが重要であり、円滑で間違いのないコミュニケーションを行うために、共通の言語で話をしなければならない。そして共通の言語がないなら、通訳を確保しなければならないことになる。
さて、この文は私の遍歴を書くところである。
ISO審査で審査員はどのような言語……どのような言い回し、どのような言葉を使っただろうか?
最初に私が相まみえた審査員はイギリス人だった。今も当時も私は英語が話せない。イギリスに駐在していた社員が通訳した。ただ固有名詞とかあまりなじみのない言葉は通訳も分からなかった。
「記録を修正するときはスノウペイクを使ってはいけない」と翻訳する。
スノウペイクとはなんだと問い返すにも通訳も頼りにならないので、我々が手足を使って問うと修正液のことだった。
まあ、そんなことというかそれも重大であるが、そういう通訳も分からない言葉もあったが、ともかく重大な齟齬は発生しなかった。
1996年まではQMSしかISO第三者認証はなく、我々が審査登録を依頼した認証機関は4社(外資系3社・民族系1社)あったが、審査員が規格の言葉そのまま使って問題になったということはなかった。もちろん素人だった我々が知らない言葉はたくさんあったが、分からなければ審査員が教えてくれた。
「確実にするとはensureの訳ですから、証拠を確認する/できることです。結果として対象となる状況とか該当する記録ということになります」
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「読みやすくってlegibleの訳ですから判別しやすいということで、コピーを繰り返したりしてはいけないってことです。 よく間違える人がいますが、分かりにくい文章ではありませんからね、」 | この手順書の文章は分かりにくいから不適合と語った審査員がいた。 |
今思うと、あれは我々に指導や教育をしたわけじゃない。我々が理解できるように話してくれたわけだ。とはいえそれは感謝するまでもない、ルールに基づき審査員として当然のことだったのだ。
となると、1997年以降のEMS審査員(複数)は、「環境側面も理解していないのか(怒)」とか、「目的と目標の違いも理解できてない」という発言はまってくおかしいことになる。彼らは審査員の義務を理解せず、当然審査員としての行動をしなかったのだ。
「環境側面も理解していないのか」という代わりに「環境側面とは難しくありません。環境側面とは法規制があるものとか、事故が起きると大変なものだからしっかり管理しなければならないもののことですよ」と平たく言えばよい…いや言わねばならないのです。
えっ! あなたは審査員なのに、環境側面の意味を知らなかったの!
言語は音によるものだけでなく、ボディランゲージもある。ボディランゲージとは肉体の動作による非言語的コミュニケーションとされている。
それには手足の動きだけでなく、目は口程に物を言うと言われるように目もあるし、音や言葉が聞こえたときの反応もボディランゲージである。
審査の前には必ずオープニングミーティングがある。なぜかご存じでしょうか?
その理由は明快だ。ISO17021、それが制定される前はガイド62とかガイド66に、審査前にオープニングミーティングをすることと定めてあるからだ。
えっ、ご存じありませんでしたか?
そして規格では、オープニングミーティングにおいて、何を語るのかも決めている。その中に、受査側が審査で納得できないことがあれば異議申し立てできることを説明しなければならないとされている。
オープニングミーティングはどの認証機関でも必ず行うが、そこでこの異議申し立てを説明しなかった認証機関もあった。
私が引退した2012年までは、某認証機関は確固たる信念があったのだろうか、一度として異議申し立てできることを説明しなかった。今はどうだろうか?
一度その認証機関の取締役にあったとき、なぜその説明をしないのかと嫌味というか質問したことがある。
するとその取締役は少しも慌てず「パワーポイントに異議申し立てできると書いてあるはずだ」とのたまわく。
その後審査に立ち会う機会があったとき、パワーポイントをじっくりと眺めた。確かに画面下部に小さな文字で書いてあった。だけど審査員は画面の上部の大きな文字の方は説明したが、くだんの個所は言及しなかった。そしてパワーポイントのコピーも置いていかなかった。あれで説明したとかISO17021を満たしているというのは、詭弁というかうそ800だろう。
審査員の態度も重要だ。
上着のポケットに手を入れてパワーポイントを説明する方も多い。ポケットに手を入れて話すとはどんな意味を持つのか?
ものの本によると、「今していることは、俺が全力を尽くさなくてもできる片手間仕事だ」というメッセージなのだそうだ。大学の先生が片手をポケットに入れて黒板に書いたり講義するとか、部長が部下と話すとき片手をポケットに入れるというのはそういうことなのだ。
対する学生や部下は、ポケットに手を入れずに「私は全精力を傾注してあなたの話を聞いてます」とアッピールする。お疲れ様です。
椅子に座って足を組みのもいけません。こりゃボディランゲージ以前に不躾でしょう。これをする審査員多いですね。ズボンのすそが上がって、たるんでいる靴下を見てもときめきませんよ。
審査員に声をかけるときの呼び方も面白い。
私が引退してからのことですからそんなに古い話ではありません。知り合いの会社で審査リーダーが、ISO雑誌にたびたびお顔が載っている方の審査を受けたそうです。雑誌にたいそうなことをお書きになっていましたから、きっと素晴らしい審査をするだろうと期待したそうです。
審査中に、別の審査員がリーダーを「○○さん」と呼んだのですが、気が付かないようで反応しません。耳が遠いのかもしれません。
呼びかけた審査員が改めて「○○先生」と呼ぶとサッと振り向きました。
それからその会社では「○○先生」がISO雑誌に毎月お書きになっているカラムを、誰も読まないそうです。そんな偉い先生のお話は高尚すぎて下賤の者には不似合いらしい。
コミュニケーションとは違いますが……
これもISO雑誌の座談会などでたびたびお名前を見かける、有名な審査員の話です。
その審査員が知り合いの会社に審査に来ると、いつも「これは不適合ですから是正してください」と言うそうです。
その会社では「今まで来ていた○○審査員に言われてそうしているのだ。なぜ不適合なのか?」といつも言い返すそうです。
聞くとその○○審査員は有名審査員の師匠にあたるそうで、師匠が指導したものを不適合にできず困っているそうです。
それはご愁傷様です。
私が品質保証に携わる前は、下請け会社に行って指導することが主でした。
仕事には意味のないものはありません。下請に行くということは、一刻も早く生産を立ち上げ、品質問題など起こさず、F1よりも速く物を作れるようにすることであり、それができないと指導に行った人の存在意義がありません。技術も指導力もなくしっかりやれというだけじゃ、失業間違いありません。
目的を達するためには、相手に合わせて理解してもらえるようにこちらの意図を伝えることです。そして相手ができるようにしなければなりません。
織田信長のように「できないなら止めてしまえ」というのは論外ですし、徳川家康のように「できるまで待つ」わけにもいきません。秀吉のように、とにかく考えて工夫し槍の勝負に勝たねばなりません。
そのためには相手に理解できるように言葉を選び、話し方を考えました。相手におもねるというよりも、相手が理解してくれないと前進以前とっかかりがありません。
それから理解してもらえるにはなによりも利益誘導です。利益誘導なんて言っても、これをしたら何をあげるとか、時給をあげるなんてことじゃありません。そもそもよそから来た私がそんなことができるわけありません。
私にできることは、相手が何を望んでいるのかを把握し、私がそのための方法を示すことです。
ある作業になかなか上達しない人がいるとします。私も本人も、もっと簡単に早くできるようにしたい・なりたいとおもっているわけです。ただお互いに目的は違います。私は出荷が間に合うようにと思っているし、本人は残業したくないと思っている。
そこで私が「今日出荷の500台作るには、こういう風にすれば早く仕事ができる」といっても反発されるだけです。「こういう風にすれば早くできて、残業しなくて済みますよ」と言えばよいのです。もちろんそれだけでは何も変わりませんが、少なくてもモチベーションは向上します。
早く・安く・良い製品を作りたいのは私の勝手です。私の価値観でなく本人の価値観でメリットになることを探して説明すれば納得してもらえ、お互いwin-winになります。
そのとき絶対にうそをついちゃいけません。因幡の白兎は渡り終える前に「お前たちは騙されたのさ」と言ったから罰が当たりました。そうではなく、渡り終えてから「やあ、君たちのほうが私たちウサギより〇匹多いよ、負けちゃったね」といえばwin-winだったはずです。
監査はクローズドクエスチョンではなくオープンクエスチョンで質問するようにと言われます。そもそもクローズドクエスチョンをするのは、俺の知りたいことだけ答えればいいという考えなのでしょう。それって傲慢ですよね!
オープンクエスチョンではありませんが、仕事だって「あれをやれ!」というよりも、「こういう理由だからこうしたい、それで君はこれをしてほしい」と言えば、仕事の意味を納得してもらえるし、その重要性を理解すれば手抜きをしない。更には仕事の目的を理解すればそれを達する別な方法を提案してくれるかもしれない。
これってISO規格にある「認識」そのものじゃありませんか?
それにオープンクエスチョンは一回の質問で複数の回答が得られるという、省力、省エネの賢い方法なのです。
「排水のBODはいくつですか?」と聞くのもありますが「排水はどんなものを測定してるんですか?」と聞けば、普通の人は「あれとこれ」じゃなくて測定データをゴソッと出してきますよ。
あなたはそれを眺めればオシマイ。
誘導尋問もいけません。誘導尋問というとなんだか秘密警察がするようなことに思えます。でもそんな悪い意味はないのです。単にleading questionの翻訳、単純に相手に言わせたいことを引き出す質問のこと。
あなたは彼女に彼を好きだと言わせたい。
でも真っ正面から聞いてもあなたの期待通りの回答はしてくれない。
「彼のこと好きなの?」
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「そんなことないよ!」
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もし彼女に好きだと言わせたいならちょっと工夫をしましょう。
「この前、彼とマックにいたね」
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「アハハハ、たまたまあそこで会ったのよ」
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「そう? でも先週も映画館で二人を見たよ」
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「私は姪をアニメに連れて行ったの。彼は友達と一緒よ、ポップコーン売り場でたまたま会っただけ」
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「もうそれって運命よ、あなた彼のこと好きだからよ」
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「そっかな〜💗」
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その結果、あなたが「あの子は彼が好きだと言っていた」と言っても嘘ではない。
いやいや、あなたはキューピッドになったかもしれない。
おっと、監査ではそんな誘導尋問をしてはいけない。してもよいけどあとで相手が否定すればあなたが悪者になってしまう。
というか、そもそも監査は証拠主義でなければならず、証言は証拠より価値が低い。
そういえば、ISO審査員には証言主義が多いですね。証拠裁判主義ってことをならってないのかしら(習ってないだろうって意味だよ)
ともかく監査は勝者を決める果し合いじゃない。単なる現実と基準の比較検討である。それは監査側と被監査側の利害が相反するわけじゃあない。お互いの目的は同じだし利害も一致するはず。
ならば友好関係を作るべきです。
いかにコミュニケーションが重要かってこと、そしてコミュニケーションを良くするにはちょっとしたコツがあり、セオリー通りに話し、態度を示せばそれは可能です。
本日の結論
アインシュタインは「6歳児に説明できなければ理解したとはいえない」と語った。
元同僚のドクターは「英語と数式を使わずに説明できなくちゃ一人前ではない」と言った。
本日より「規格の用語を使わずに審査できなくちゃ一人前の審査員ではない」ということにしよう。