組織の役割、責任及び権限

20.11.19

ISOMS規格は共通テキスト準拠になったわけだが、規格ごとに加除修正が認められているので、まったく同じではなく、要求事項の数が違うとか要求の記述も異なっている。
そんな2015年版を読んでいると、とんでもないことを書いていると怒りを感じることがある。
ということで本日はISO14001の5.3をネタに記述の見直しを考える。

5.3 組織の役割、責任及び権限
トップマネジメントは、関連する役割に対して、責任及び権限が割り当てられ、組織内に伝達されることを確実にしなければならない。 トップマネジメントは、次の事項に対して、責任及び権限を割り当てなければならない。

  1. 環境マネジメントシステムが、この規格の要求事項に適合することを確実にする。
  2. 環境パフォーマンスを含む環境マネジメントシステムのパフォーマンスをトップマネジメントに報告する。

センテンスごとに論評するまでもないので、気が付いたものを思いつくままに書き綴る。

まず不思議というか変だというか、ISOMS規格は組織論とか経営論との関係をどう考えているのだろうか。管理とか組織というのは、古代から考えられてきたし、近代ではフェイヨルやテーラーなどから始まり、現在に至るまで様々な組織や管理体制が論じられ試行され工夫されてきた。
組織そしてシステムの先駆者である軍隊をはじめとして、組織の具備する条件などISOMS規格以前に確立している。だからこの規格で役割・責任・権限と書き出す必要性はあるのかと思う。
まさかたかがISOMS規格が、経営の教科書を兼ねているなんて僭越なことを考えてはいないだろう。

どこかで基本的なことを記述しなければならないと言われるとそうかもしれないが、それならば要求事項ではなく、システムの要件として、序文なり定義の項においてちょちょっと書けばいいように思う。ISO14001ではシステムの定義はないが、マネジメントシステムの定義のところにでも「システムは組織(構成)・機能・手順からなる」とでも書いておけば、この項番の最初の文はいらないだろう。
というか、責任及び権限(一般的には職務分掌という)を定めていない組織とか、あるいはそれを組織内に周知してない組織が存在するのか?

ISO9000ではシステムを「3.5.1 相互に関連する又は相互に作用する要素の集まり」と定義している。それは間違いではないだろうが、そのとき必然的に相互に作用するための要件があるわけで、それはもちろん組織・機能・手順であり、更に機能は役割、責任・権限に分けられるということに過ぎないんじゃないかな?
それとも「相互に関連する又は相互に作用する」なにものかが、「役割、責任・権限」が定まっていないということがあろうのだろうか?
私が「組織・機能・手順」に拘るのは理由がある。アメリカ軍のシステムの定義だそうだ。

定義に要求事項のようなことを書くべきではないという理屈もあるかもしれない。でも過去にはそんなものはしゃあしゃあとあった。

例えばISO14001:1996の定義には下記のようなものがあった。

3.7環境目的
環境方針から生じる全般的な環境の到達点で、組織が自ら達成するように設定し、可能な場合には定量化されるもの。

これの後半は、定義ではなく要求事項に持っていくべきではなかろうか?
まあともかく人間によって構成されるシステムであるなら、指揮命令というのが存在するのは必然であり、わざわざ要求事項として役割・責任・権限と書くのはどうなのかという感じがする。


次の事例である。
ISO14001ではどの要求事項でも、「環境側面に関する」とか「環境パフォーマンスを」…など「環境」を付けているが、
考え中
実際の管理というものは環境だけでなく安全も品質もコンプライアンスなどをひっくるめて行っているわけで、文章が実態と離れている。これはEMS規格は環境マネジメントシステム限定であるということなのだろうが、管理者とすればバーチャルとしか思えない。
ISO14001の審査においてなら、「環境をしっかりやっている」ことを示せば良いと言ってしまえばそれまでではあるが、規格の文章は現実離れしている。そんなものは上位のマネジメントシステムの定めにおいて決めているはずだ。もちろんすべての規則の原則として、下位のルールで間に合うものは下位にふるだろうが、環境におけるすべての役割・責任・権限を下位の規定(つまり環境マネジメントシステム)で決めるはずがない。

序文では「環境マネジメントを組織の事業プロセス、戦略的な方向性及び意思決定に統合し」とあるが、これも腰が引けている。
そもそも「環境マネジメントシステムはマネジメントシステムの一部である(3.1.1注記3)」と言っているのだから、環境においての役割・責任・権限などを語るのは整合性がない。
言いたいことは、組織の(環境の付かない)マネジメントシステムに盛り込めと書けばよく、現実離れしたバーチャルにならないように記述すべきだ。

第2段落のa)もそれと同じくおかしい。
環境マネジメントシステムなんて強調しなくても、「マネジメントシステムはこの規格の要求事項に適合することを確実にする」で良いのではないか?
b)も同じである。報連相は環境に限定されて行われるわけではない。だから「環境を含めてパフォーマンスをトップマネジメントに報告する」が実態であり正解ではないのか。
いやいや、「パフォーマンスをトップマネジメントに報告する」で必要十分だろう。

更にもう一点、「7.4.1コミュケーション」とb)項はどういう関係にあるのか?
7.4.2 a)の「環境マネジメントシステムに関連する情報について、組織の種々の階層及び機能間で内部コミュニケーションを行う」と5.3b) の「環境を含む環境マネジメントシステムのパフォーマンスをトップマネジメントに報告する」はまったく別のことを語っているとは思えない。
どうも重複が整理されてないように思える。


以下言いたいことを書く。
EMSもQMSもマネジメントシステムの規格であると自称あるいは宣言するなら、現実の組織のマネジメントシステムに、規格要求を組み込むような書き方にしないと、組織側はうまく対応できないのではないかと思う。それは必然的に現実離れを引き起こす。
そりゃ初めから「会社ありき・現実ありき」というスタンスで自信をもって、現状が規格を満たしていると説明する気概のある会社なら問題ないが、コンサルの多数が審査で不適合が出ないように指導したり、審査員に反論しない企業では、つまるところ真のマネジメントシステムと審査に見せるマネジメントシステムの二重の体制(ダブルスタンダード)という結果になるだろう。
その結果は、ISO規格は手間暇ばかりかかって役に立たないということになる。

共通テキストという発想は、企業にとっては全然役に立たない標準化なのだ。それならせめて会社にメリットがあるように、規格の記述を、文書管理なら環境文書の管理ではなく、企業のマネジメントシステムの文書管理はこの要件を満たすことという文章にできないものだろうか?
もちろんすべての項番において「企業のマネジメントシステムの文書管理はこの要件を満たすこと」という書き方にする。
「マネジメントシステム」であり「○○(ex.環境)マネジメントシステム」でないことに注意してほしい。

言いたいことは、「環境マネジメントシステムはこうあるべき」というスタンスが間違いだということだ。「マネジメントシステムはこうあるべき」というスタンスであらねばならない。


個別にまずい点を語ってもしょうもない話だ。
そもそも規格のあるべき姿を考えて、規格の構成も文章もみな見直す必要がある。
基本的に、序文を書き直すべきだろう。
以下該当する序文の現状と改定案を羅列する。

上記は、大きな箇所だけあげた。その他にも微調整がいくつか必要である。
ともかく上記を見直せば今よりましになり、環境マネジメントシステム規格ではなく、包括的なマネジメントシステムに、期待する環境マネジメントを組み込む規格になるだろう。
さすればISO認証しようとする企業は、迷いなく現実の会社の手順(規則・規定)を見直せば良いと本質を理解でき、会社の仕組みも裏表なく強化・改善が進むはずだ。

いや、そもそも認証とは何ぞやという問いは未だ答えがない。ISOMS規格はスタンダードではなくガイドラインだと割り切って組織が参考にすれば良いものではなかったのか?

前述したが、そうなっては「環境マネジメントシステムの認証」ができなくなるから困ると語る人がいるだろう。認証機関も認定機関も商売あがったり?
いやいや、そもそも包括的なマネジメントシステムが存在するのは間違いない事実だが、環境マネジメントシステムなるものは、私は存在していないと考えている。
驚くことはない。ISO14001規格自身がそう語っている。環境マネジメントシステムとは「マネジメントシステムの一部で、環境側面をマネジメントし、順守義務を満たし、リスク及び機会に取り組むために用いられるもの(定義3.1.2)」である。
「用いられるもの」とあるとなにか「形あるもの」と考えてしまうが、原語は「part」であり、システムでないのはもちろん、独立したなにかではなく包括的なマネジメントシステムの一部という意味でしかない。

だから「環境マネジメントシステムの認証」というのは、「マネジメントシステムの環境に関する部分の認証」というのと同義である。ならば規格文言を変えようと、ISO14001のタイトルを「環境マネジメントシステム−要求事項及び利用の手引」から「マネジメントシステムにおける環境に関する要求事項」となったとしても、何も変わらない。
ならば私が語ることはすべて考え方で、現状を変えることはないとおっしゃる人もいるかもしれない。

だがちょっと待ってくれ。現実と異なるバーチャルなことを規格で定め、読む人・審査する人がそれを現実に合わせて読み替えるというバカバカしいことをしているのが現状である。
ならば、規格は現実に合わせてあるがままの姿を語り、読む人・審査する人はそのまんま利用するほうがまっとうではないのか?
なにしろ規格を現実に合わせて読むことのできない人が多く、バカバカしいバーチャルな環境マネジメントシステムが多いのだから。

……まあ、今となっては既に時遅く、ISO規格を見直すより第三者認証制度が消滅するほうが早い。


うそ800 本日の心情
四半世紀考えてきたことであるが、ISO規格を作った人は、会社の規則を作ったり、現実の管理者を務めた人も多いと思う。そういう経験を規格の文章になぜ反映しなかったのか、それが不思議だ。
あるいは規格策定者は現場を知らなかったのかもね、

環境マネジメントシステムを論じる前に、マネジメントシステムとはこうあるべきとしっかりと定めることが必要十分であり、環境マネジメントシステムなんて言葉は、そもそも不要だったという気がする。もちろん品質マネジメントシステムもその他のあまたのマネジメントシステムもしかりである。

「役割、責任及び権限」と関係ないぞとおっしゃるか?
細けえこと気にすんな、




外資社員様からお便りを頂きました(2020.11.19)
おばQさま
いつも興味深いお話を有難うございます。
ISO14000のいう「持続可能性」は、あまりにも深淵で理解が難しいので、遠ざけておりましたが、こうして初歩に戻ってお話いただける参考になります。

素人なりの質問ですが、ご教示いただけると嬉しいです。
三本柱のお話は深淵なのですが、簡単に言えば、「会社は社会に迷惑をかけず、環境負荷をなるべく減らして、バランスよく利益追求してね」ということですよね。
社内の迷惑というと、何等かの基準があると思います。
環境に限らず、それには社会倫理という面もあるように思います。
その点でいえば、契約書の中に「暴排条例」が当たり前になったのもうなづけます。
倫理という面でいえば、遊戯産業とか防衛産業なども注意が必要に思えます。
任天堂はゲームを作るのに「暴力とエロは禁止」という明確な社是と会社としての倫理をもっています。
防衛産業で兵器を作る場合でも、国際条約等でも禁止される大量破壊兵器等は問題ですが、兵士を守るプロテクターとか、インテリジェンスの部分での情報処理などは、人を守る、武力闘争の回避に役立つようにも思えます。
そういう考えかたは、社会に迷惑をかけない、持続可能性というものに関連するのでしょうか?

このような職業倫理は現代だけの問題でなく、古代中国の韓非子にも出ております。
「葬儀屋は人が死なないと商売にならない。車(馬車)職人は、人が裕福になって車を買えないと商売にならない。
葬儀屋は人が死ねば良いと思い、車職人は人が金持ちになれば良いと思う。葬儀屋はろくでなし、車職人は立派なのか、そうでは無い。」
葬儀屋は未だに無くならないので持続可能な仕事なのでしょう、単に「人が死ぬ」という狭い面に着目すると継続不可能に思えますが社会は「人が生まれ続け、人が死に続け、生まれる人が死ぬ人より多い限り継続できる」と大きな眼でみれば持続可能なのだと判ります。
ゴミも同じで、発生だけに注目すると持続できないようですが、ゴミが資源に変える、リサイクル工場だけでなく、もっと大きな時間のサイクルで考えると、成り立つようにも思えてきます。
結局、サイクルの周期を長くとると、何でもありになるから、そのあたりは制限があるのでしょうか?
一つの企業やグループで、資源を消費するのと、リサイクルするのと、両方をバランスするのは困難です。
結局、だれかが消費する一方で、無関係の誰か(自然を含む)がリサイクルするから、本当にバランス出来るかの判定は難しそうです。
長々と書きましたが、結論は「バランスする」ことの判定は、とても難しそうで、ましてやISO認証の中では不可能なのではという疑問でした。

外資社員様 毎度お便りありがとうございます。
持続可能性というと、現状がずっと続くということとか、地球温暖化というと地球がだんだんと暖かくなるということとお思いでしょうが(大多数の人がそう思っていると思います)、実はすべて定義があり、それは私たちが言葉から思い浮かべることとはいささか異なります。

  • 持続可能性
    「将来世代のニーズに応える能力を損ねることなく現在世代のニーズを満たす発展(開発という訳もある)」

    出典:ブルントラント報告書「我々共通の未来」1987、

    環境において使われる持続可能性というのは「現状がずっと続くこと」ではなく、「世の中がどんどん発展していくことができる状態が続くこと」です。

  • 地球温暖化
    (説明のために取り上げただけでここでは議論対象外です)
    「人の活動に伴って発生する温室効果ガスが大気中の温室効果ガスの濃度を増加させることにより、地球全体として、地表、大気及び海水の温度が追加的に上昇する現象」(地球温暖化対策の推進に関する法律)
    あるいは
    「人間活動が大気中の温室効果ガスの濃度を著しく増加させてきていること、その増加が自然の温室効果を増大させていること並びにこのことが、地表及び地球の大気を全体として追加的に温暖化すること」(気候変動に関する国際連合枠組条約)

    つまり地球温暖化とは自然現象で気温が上昇するのは対象外、人為的なことでも、例えばエネルギーを大量に使うことにより排熱で気温が上昇するのも対象外です。
    再生可能エネルギーといえば太陽光と風力が主ですが、いずれも電気エネルギーに変換し、電気を使用すると最終的に排熱になりますが、そのために気温が上がっても地球温暖化とは言わないヤクソクなのです。エネルギー保存の法則からいって、元々の自然エネルギーも排熱になりますが、太陽光発電で捕まえるものは地球外へ放射されるものもあるので、自然エネルギー活用により排熱は若干増加すると思われます。
    対象となるのはCO2とかメタンとか温暖化ガスと言われるものが、本来なら地球から宇宙へ放出される赤外線(要するに熱です)を反射して地表に戻すことにより気温が上昇することだけを地球温暖化といいます。

マスゴミはあまりこの定義を正しく使っていません。いや学者でさえ怪しいです。一応私は企業で環境担当していた立場なので上記定義で論じています。

上記でご理解いただけたと思いますが、環境問題において持続可能性については個々のビジネスなどの持続可能性とは関係ありません。
それから持続可能性でいう「将来」というのも摩訶不思議でして、私は地球温暖化などの講演会で「将来とは何年ですか」とたびたび質問しました。
某大学教授は「将来とは永遠のことだ、長短はない」と見得を切りました。
某大学講師は「将来とは長短に分けて考える必要がある。短期とは政治が届く範囲、せいぜい100年だろう。それ以上は我々の手におえない」と語り、また引退した元大学教授は「1000年経てば地球は間違いなく氷河期になる。地球温暖化とか持続可能性なんてその時は意味を持たない」とのたまわく。
人間は神様ではありませんから、未来は見えませんが、私個人としては後のふたつが正しいような気がします。
そんなことを考えると、たかがISO規格風情が持続可能性とかうそぶくのは嘘そのものと思いませんか?
旗幟鮮明にしますが、私は持続可能性なんて存在しないと考えています。よってISO規格が持続可能性を実現するなんて片腹痛い。

ご質問の、葬儀社とか車(馬車)職人の持続可能性はどうでしょう?
私の家内の実家がある集落ではお坊さんを頼みますが、土葬で火葬場も葬儀社も関わりません。ですから人間社会においてそもそも葬儀社の必要性はないようです。義母は今92歳で矍鑠としていますが、義弟は義母のときは火葬にして…と言ってますので葬儀社の未来は明かるようです。
車のほうは、どうでしょう? 私は都会に来て18年になりますが、その間に運転したのは嫁に行った娘が夫の大きな車で来て私の住むマンションの駐車場に入れられず、代わりに車庫入れした一度だけです。
もう運転しないと思い、今月免許を返納し運転経歴書をいただきました。若い人の車離れも進んでいるそうで、車メーカーは今大変です。国内販売台数は1990年頃をピークに減るばかり。特に乗用車の減少は大きくピーク時の35%くらいです。よって先行きは真っ暗です。若者向けの2輪車はもう言葉もありません
フォードは20年も前に、車を売らず車を貸すビジネスに転換するといいましたが、夢かなわず今は金融機関(自動車ローン)として飯を食っています。トヨタも住宅産業とか、ホンダは飛行機とロボットですか?ニッサン、ミツビシは見通し暗いと思っていたら、マツダも電気自動車対応が遅れて…
「どこでもドア」を開発したところが次世代の覇者になるでしょう。


外資社員様からお便りを頂きました(2020.11.20)
おばQさま
真面目にご回答頂き有難うございます。 とても参考になります。
疑問の根本は、まさに持続可能性の時間軸と空間的規模なのです。
ある世代で管理できることは、まさに100年単位、企業ならばせいぜい10年と考えています。
そうでないと転職もできませんから(笑)
10年目標で考えて効果の管理ってISO認証の中でできるのかが、そもそも疑問です。
ニュースで、氷山が崩れたり、台風が多いのは地球温暖化だとか騒ぎますが、10年規模で言わないと揺らぎか不明ですよね。
空間的規模では、地球環境となれば全世界でやるしかありませんし、コップなんとやらも国際的にやっているからそういうことなのでしょうね。
核や大量破壊兵器の管理は、一国でも破れば意味がないからこれも国際的な取り組みの意味はあります。
それに対して、企業ができることというのは、非常に難しいですね。
もちろん、大量破壊兵器に関しての企業の輸出入管理は可能ですが、環境については、自社の影響が世界的に影響するかが不明です。効果が見えにくいから目標もとても立てにくい気がします。
そういえば化石燃料利用を目の敵にしていた地球温暖化ガァーという人々、コロナで航空会社が壊滅状態、航空便も20%以上減便ガソリン利用も減って大幅値下がり、代替燃料も継続困難な状態、ならば大喜びすれば良いのに、寡聞にして聞きません。
ニュースが報じないのか、それとも金が回らないとやはり困ると考えているのか?

>車屋
韓非子でいう「車」とは、上級身分や金持ちが見栄や身分の顕示で乗る乗り物という事だと思います。説明不足ですみません。
仰る通り、社会インフラとして自動運転の車がシェアされる未来は可能性大です。そうなると公共交通ですから「車」ではありません。
そういう時代でも「自家用車(形態は電気とかドローンかも)」がある事はステイタスなのです。
だから葬儀屋がなくならないように、車屋もなくならないと思います。

外資社員様 毎度ありがとうございます。
我々というか人間が考えられる将来とは、おっしゃるように100年程度、企業ならば10年程度と思います。
クリントン時代アメリカ政府の赤字が消えたなんて聞いて、ホントウ!?と思ったら、10年もしないでリーマンショックになり、またダウ平均が3万ドルを超えたとか。刹那的に一喜一憂しているだけのようです。
そして企業や個人のできることもないというか、どうしようもないと思います。せいぜいが良い政治家を選ぶことくらいですかね。
トランプさんも口は過激ですが、やったことは前政権が決めたことをやっただけのようです。メキシコとの壁だってオバマ時代に決めたはず。もっとも良い人を撰べば良い政治ができるのかも分かりません。
悶々


うそ800の目次にもどる
ISO14001:2015年版規格解説へ