我が身をつねって人の痛さを知れ

21.01.11

本日のテーマは、監査などにおける態度というか振舞いについてである。スタンスとはちょっと違うと思う。スタンスとは a position in which you stand とあり、何かに対してとる立ち位置だから、意見とか姿勢ではあるが態度は含まないような気がする。
監査や審査のスタイルは人それぞれであるが、私は上から目線とか棚卸するような態度は好きではない。もちろん私自身できるだけ友好的に、もめないようにと努めてきたし、そういう監査ができたと確信している。

具体例を挙げる。
上から目線 不適合があったとき、不適合である証拠と根拠を示して、相手を納得させれば仕事は済むわけだ。なにも相手を責めることもないし、嫌みを言うこともない。
あるいはISO審査で、目標が未達とか、業務にミスがあったとする。犯罪とか規格要求事項に不適合でなくても、そういうことは自慢できることではない。もちろん堂々と示してその対応を説明すれば完璧に合格である。

勘違いする人がいるが、別に目標未達でも不適合ではないし、業務にミスがあればダメということもない。そもそも目標がすべて達成して当たり前ならそれはもはやチャレンジする目標ではない。
土光敏夫という偉人は「実現可能な計画は単なる予定である」と語った(「土光敏夫信念の言葉」)。

それに人間はミスをするものであり、それを前提に世の中は作られている。もしISO規格がノーミスを要求しているなら、是正処置という項番が存在するはずがない。蛇足だが「人間が予防処置をできるはずがない」と語ったISOTC委員もいた。孔子も「過ちて改めざる、これを過ちという」と語った。神ならぬ人の能力は限定的なのだ。
もしミスが発生したことを不適合とするなら、もはやそれはISOMSの世界ではない。

ミスすることは悪だという人がいるかもしれない。しかし生れてからこの方、まったくノーミスだったという人はいないだろう。そして同じミスを繰り返すのが普通の人間だ。
不適合を見逃してはいけないが、不適合をネチネチと責めるのはいかん。
ましては自分自身ミスまみれの人生を送ってきた審査員が、他人のあらを責めるのはアンフェアである。
イエス・キリストではないが「咎なき者より石を投げろ(ヨハネによる福音書 8章7節)」と言いたくなる。

しかし審査員がミスを見つけると、鬼の首を取ったように「これはまずい」「こんなこともできないのか」「管理が悪い」「仕組みが悪い」と言われたことが私は何度もあるし、審査に陪席していてそういう言い方をするのを幾度も見た。
そういう経験をした人は多いのではないか? そのとき審査を受けた人はどんな感情を持ったのだろう。審査した人はどんなことを思ったのだろう?

私はデール・カーネギーの「人を動かす」と「道は開ける」が大好きで、高校生の時に買ってから繰り返し読んでいる。 道は開ける 全編通して50回は読んだと思う。なにしろ半世紀も読んでいるのだから。あまりに繰り返し読んで本がボロボロになり、数年前に新しく買いなおした。
カーネギーの語ることは、私が子供のときに教えられた正直とか自制とか思いやりという日本人の生き方と少しも変わらない。時代・宗教・人種・言葉などが違って人間のあるべき姿は変わらない。
カーネギーはキリスト教徒だから、聖書の言葉を多々引用しているが、その内容は私のような仏教徒にも全く違和感がない。人とのコミュニケーションの基本は、相手の気持ちを理解する、相手に寄り添うということだ。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。出典は孔子だそうだ。聖書に全く同じ言い回しはないが、似たような言葉はあるらしい。
これは「罪は悪いが罪を犯した人は悪くない」という意味ではなく「罪を犯した心は悪いが人そのものは悪くない」ということだそうだ。罪が悪いことなのは当然であり、罪を犯した人の心は悪いのである。ただその人間を否定しちゃいけないということだろう。そこんところをはっきりさせておかないと、被害者はもちろん第三者も悶々としてしまうだろう。

人間生きていくには、そういう考え方というか立ち位置でなければならないだろう。そして頭の中で考えるだけではなく、実際の行為において実践できなければならない。
人のミスを見つけて、傷口に塩を刷り込むような審査員/監査員は自分で仕事をしたことがないのか? その仕事では絶対にミスしたことがないのか? 単なるサディストなのか?
別に悪いことを見逃せと言うのではない。審査/監査というお仕事で見つけた間違いは、間違いと提示しなければならないし、悪いことと断定しなければならないのは当たり前だ。しかし人間性を否定したり、誹謗中傷するような非情な取り扱いはすべきではない。


監査でも審査でも、する方とされる方は対等である。まずこれを認識というか体で理解していなければならない。ISO9001が現れたとき、審査員は顧客の代理人を自称した。買う人に代わって調べてやるという選民思想でもあったのだろうか? 本当にそうなら監査する方がされる方より強い立場であるのも必然かもしれない。なにしろ古代より売り手より買い手が強いのは一般的だ。
まして審査員が不適合を見逃せば、真の顧客から責任を追及されるわけで、一生懸命ミスを見つけようという考えであっただろう。
とはいえミスを見つけることに必死になることと、ミスを厳しく責めることは無関係だ。

しかし21世紀になると、審査員/認証機関の依頼者は審査を受ける企業であると明記された。(ISO17021-1:2015 3.5)
となると間違っても審査員・認証機関が審査を受ける企業より上ではない。審査員はリラックスして審査できるようになったはずだ。


スタンフォード監獄実験という有名な話がある。1971年にアメリカのスタンフォード大学で、心理学の実験として大学生を看守役と受刑者役に分けて演じさせたら、 囚人 それぞれが役に応じた態度・行動をとるようになったという話である。のちに実験での作為が多々見つかり、現在では信頼性がないとされているようだ。

審査員をやっていると上から目線になるという論理はこのスタンフォード監獄実験からは演繹されない。なぜなら看守と受刑者の関係と審査員/監査員と受査側の関係は全く異なるのだ。
審査とは要求事項に適合しているか否かの検証を依頼されただけであり、反社会的行為をした受刑者を、矯正するとか、罰を与えるという刑務官の仕事とは大きく違う。
審査員/監査員のお仕事は、規格適合あるいは不適合の証拠や証言を収集することである。

なお、裁判において被告人は嘘をつくことは許容されているというか、嘘をつくことは当然とみなされていて偽証罪にはならない。検察は被告人が何を語ろうと綻びのない証拠を提示するのが当然であり、そして裁判官は、嘘をつかれても真実を見極められなければ仕事が務まらない。もし検事や判事が、被告人が嘘をついたのは許せないと語るなら、己がバカだと言っているわけで無様だ。
ISO審査においてこの裁判の考えが適用されるかどうかわからないが、嘘をつかれてルール違反だとか違法だとか無粋なことを言ってはいけない。審査で嘘をつかれても真実を見つけることができなければ、そもそも審査員/監査員としての能力がないのだ。

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審査で会社が虚偽の説明をしたからだなんて語る認定機関とか認証機関があるらしいが、それって「私たちは馬鹿です、仕事を頼まないで」と語っていることだと認識しているのでしょうか?
まっ、理解していればそんなアホなこと語らないとは思いますが。


前振りばかりダラダラと書いてきたが、私の言いたいことを述べる。
自分で公害防止であろうと、廃棄物処理であろうと、環境報告書編集でもよい、あるいは環境と全く無縁の経理でも販売でも実務を5年もしていれば、客先や下請けや仕事での交渉先とのやり取りで苦労した経験は多々あるだろう。日々の業務でも目標の達成も納期を守ることも完ぺきにいかないこともあるだろう。報告漏れ、連絡忘れ、相談の不徹底など、仕事のイロハも徹底することも難しい。
そういう経験をへて、審査員/監査員になったあなたが、自分の経験をどのように生かすのか、生かせないのかということが審査員/監査員として務まるか否かの要点だと私は考えている。

私は現場からスタートしてなんとか管理職になり、ミスをして管理職を解任され閑職に流され、たまたまISO9001に巡り合い、敗者復活戦で這い上がってきた。
だから今あげたような経験は十二分にしてきた。
外注で問題が起きて生産が進まない、お前が行ってこいなんて言われたのは数知れない。なんで俺が? と思ったことは毎度のことであった。

ともかく身一つで外注に馳せ参じ、問題の原因を見つけ、対策を考えて、やらせる、そしてトラブルを解決して出荷に間に合わせるということをしてきたわけです。
そのとき、ミスをした人を責めたり、部品・材料が入らないと愚痴るとか、言ったとおりに仕事をしないと怒鳴ったりすれば仕事が進むと思いますか?
まさかね
そういうときは、山本五十六さんを呼ぶしかありません。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」ですよ。
別にパートの人をほめるとか、責任をクリアにしないとか、饅頭を配るとかじゃないんです。悪いことは悪い、ダメなことはダメ、そういうことははっきりさせます。でも人を責めない、あなたのミスですよというのは良い、こうしなければだめですよというのも良い、しかしあなたが悪いと言ってはいけない。
とにかく問題の原因、悪いところを示し、仕事の手順を説明し、手本を見せる、やらせてみる。それを徹底するしかありません。

私はいろいろな職務をしましたが、引退したときのお仕事は環境に関する内部監査と二者監査でした。その目的は企業の遵法と汚染の予防を確実にするということです。
「遵法と汚染の予防」とくればISO14001の意図そのものですね。じゃあISO14001を認証していれば十分かといえば、十分どころか大いに不十分だから私のお仕事が存在したし、そのおかげで私が家族を養うことができたわけです。
ISO審査が不十分でダメダメだったことに感謝しなければなりませんね。

それまでの私の人生は惨めなこと多かったですから、監査でミスを見つけても違反を見つけても、おれもそんなことしていたなあ〜、と思うだけです。そして相手に大変だろうなあ〜と同情しかありません。当然、間違っているぞ! 何でこんなことをしたんだ(怒)なんて思ったことはありません。
もちろん原因究明をしたのか、是正処置をしたのか、それは妥当なものなのか、そういうことは徹底して確認しました。でも神に誓って対面で監査を受けている人よりも上位だとか、責任を追及しようなんて考えたことは一度もありません。

でも審査や監査は楽でいいですね。だって外注指導と違い、良くすることまではしなくて良いのですから。悪いことは悪い、ダメなことはダメと言えばおしまいです。まして審査員/監査員の多くは、ISO17021-1で定める「証拠と根拠」さえ明示しない人も多い。こりゃ楽でたまらんわ 💗

せめて審査員/監査員が心してほしいのは、我が身をつねって人の痛さを知って仕事をしてほしい。いやつねると痛いですからつねらなくてもよいです。自分が過去に嫌だったことを思い出して、そんなこと他人にしてはいけないと振り返りましょう。個人の人格を責めることは悪です。しちゃいけません。
常にそう考えて審査/監査をするならば、嫌われない審査員/監査員になるでしょう。

私の知る限り、審査や監査で不適合を指摘されたから不満だという人に会ったことはない。良いことをほめてもらえず文句を言う人を見たこともない。
私が苦情を聞かされるのは、不適合でないのに不適合と言われた人、規格要求にないことを「御社のために」なんて恩着せがましく言われた人、審査員の自慢話を聞かされた人、そんな人たちが審査員に不満を持っているのだ。
っ、アドバイスや指導は付加価値ですって

まともな審査もできない人に言われてもねえ〜(鼻ホジ)

見方を変えましょう。
俺は他人の気持ちなど知ったことじゃない。相手を思いやるなんて無用なことだ、そうお考えの方もいるだろう。
ならば、相手が間違えたなら治してあげようと思うこともないし、相手を向上させようと指導することもない。相手に気を使うことなく、そっけなく対応すればよいのです。
もちろん不適合は不適合と証拠・根拠を明示するのはお仕事である。余計なことを言わず、指導することもない。相手を罵ることもなく褒めることもない。

でも相手を突き放した審査とは結局のところ、相手を思いやって審査をすることと同じことではないでしょうか?
そういうスタンスで審査や監査は、それはそれで理想の監査ではなかろうか?
変に「あなたのことを思って」とか「指導してやる」などと思いあがっているから、相手の心情を傷つけたり、審査/監査にあるまじき発言をしてトラブルを起こしてしまうのです。

おっと、この文を読むと「貴様こそ人をあげつらい、傷口に塩を擦り込んでいるではないか」と思う人が大勢いるのではなかろうか?
いやいや、私は人をつねって、つねった人の気持ちを知ろうとしているのである。それは我が身をつねって人の痛さを知ることと同じではないか。


うそ800 本日の感謝
私がいろいろな仕事を経験できたこと、そして失敗を重ねたことをありがたく思います。
そしてこの駄文を書くことで、新約聖書や故事成語、その他の本を読みなおすことができたことをうれしく思います(陛下のお言葉のようだな)。




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