「死んだ人は無敵だ」とは名作「めぞん一刻
五代は住んでいるアパート「めぞん一刻」の管理人である響子が好きだ。しかし響子は今も死んだ夫を思い続けている。響子の亡くなった夫 惣一郎は本当に素敵な人だったのか、それとも響子が美化しているのか? 五代が知ることができないのはもちろん、響子さえわからないだろう。
五代は惣一郎とは競う以前に、同じ土俵に上がることさえできない。まさに死んだ人は無敵だ。
日本では死んだ人を悪く言ってはいけない、どんな悪人でも死ねば仏と考える。とはいえ政治家でも評論家でも敵対し激しく論戦していた相手が亡くなると、生き残ったほうが亡くなった人を人格者だとかなんとか、たいそう持ち上げるのを聞くといささか嘘っぽく聞こえる。
中国人は憎む人の像を作り唾を吐きかけるという。土下座する東条英機の像を作り、大勢の人が唾を吐きかける写真を見たことがある。いろいろな文化があるものだ。
でも東条英機なら意地でも土下座をしないだろう。
東条英機が悪いと言われても、どうでもいいと思うかもしれない。だが日本人が悪いと言われたら穏やかではないだろう? 半島にある国がそんなことをやってるね、
死んだ人がみな善人になると同じく、思い出は美化され、昔は良かったとなるのが多い。
だが天の邪鬼な私は、そうだろうか?、いやそうではない!、昔は今より悪かったのではないかと問い返すのが生きがいである。中国人や韓国人と同じかといわれると、事実に基づくか思い込みかが違うといいたい。
では本日は、昔はよかったのかということを考えよう。最後のオチは少し違うけど、
昔は美化されるといっても、子供の時は幸せだった、親は優しかった、近所は善人ばかりだったということばかりではない。
昔に比べて夏が暑くなったという人は多い。地球温暖化が叫ばれるようになったのは20世紀末だったと思う。いつしか昔の夏は涼しかった。今は暑くてたまらん、猛暑日が増えたと思う人が増えている。
それって本当だろうか?
地球温暖化でいう気温上昇は、今世紀末には今より2℃くらい上がるといっているのであって、30年前より何℃も上がったとか、今世紀末には灼熱地獄になると言っているのではない。もっとも山本先生は温暖化地獄になると言っている。いや彼の場合はどうせ大したことは言ってない。
気象庁の「日本の気候の変化
人間が0.5℃の違いを体感できるのか、まして50年前と今の気温を比較できるのかと考えれば、それはおかしいと思うのが普通だろう。そもそも寒暖計で0.5℃の違いは測れない。
家庭用の温度計の許容差はアルコールでも電気式でも、プラスマイナス1℃である
もし時計店で並んでいる時計の時刻が違ったらおかしいと思うだろうが、温度計の場合、個々の違いが1度くらいなら気にもしないようだ。それは1分の違いでビジネスチャンスを逃がしたり、終電に乗り遅れることはあるが、気温が1℃違っても耐えられない違いでもなく、服を変えることもない、日常生活に影響が小さいからだろう。
寒暖計に比べれば体温計は精度が良く±0.1℃くらいだが
短い時間で測定できる体温計もある。そういう「予測式温度計」は、測定開始からの温度変化から真の体温を推定するので、測定値を表示する時間が短いほど精度が落ち±0.4℃程度ばらつくという
また新型コロナウイルス流行で大活躍の「赤外線体温計」は便利だが、体に接触して測定するタイプより精度が落ちる
要するに温度を正しく測るということは極めて難しいことであり、寒暖計にしても体温計にしてもそんなに精度良くないし、人体が感じる温度は更に怪しい。
あなたが昔より暑くなったなあと思っているなら、それは100%の片思い
私も人のことを批判できない。最近は地球温暖化って本当かとか、持続不可能ってあり得るのかという文章ばかり書いている。私は研究者じゃないからもっぱら自分の体験と体感をもとに考えているが、その結果、自分の記憶も体感もあてにはならない、いやまったく間違っているということが多いことに気づかされる。
まさに死んだ人は美化されると同じく、過ぎた過去は美化され、過去のイベントは素晴らしいと記憶が改ざんされると改めて認識する。
私の書いたものを読み返すと、昔は雪が多かった、小学校に通うとき30センチも積もった道を靴下も足袋も履かずに長靴でなくゲタで通ったなんて書いている。
それは本当だったのだろうか?
まず我が家は貧乏だったというのは事実だ。だが当時は我が家だけが貧乏だったのではない。隣近所も同級生もみな貧乏だった。だから下駄で通うのも靴下を履かないのも自分だけではなかった。みんな、寒い思いをしていたし、しもやけになった。私だけが辛かったわけではない。
では私が子供の頃寒かったのだろうか? 雪は今より降り積もったのだろうか?
気象庁のウェブサイトには、全国の観測点の過去からの気温・風速・湿度などの記録が載っている。
私は郡山市出身であるが、生まれたときは郡山市民ではなかった。引っ越したわけではない。郡山市は過去から近隣町村を吸収合併して雪だるまのように大きくなった。というわけで、私はなにもせずに町民から市民に昇格した。
元々私が生まれたところには今もアメダスの観測施設がないので、郡山市のデータを使おうと思ったら、なんと郡山市さえ1976年からのデータしかない。それって私が結婚したより後のこと。当時は観測点が少なかったのと、郡山市も都市とはいえなかったのだろう。
ということで福島県の県都である福島市のデータを使う。ここは1889年(明治22年)からのデータがある。
さてどんな風になったか?
注1:日最高気温とは毎日の最高気温の年間平均
日最低気温、日平均気温も同じ。
注2:最高気温とは毎日の最高気温の中の最高気温
最低気温も同じ
注3:2021.05.04追加
私が生まれてからの期間では、ゴアのように都合の良いところを切り取ったと疑われるかと思い、記録のある明治の御代からのグラフに修正した。
しかし私が生まれてからの期間は、記録のある明治22年から現在までの半分より長いことに驚く。私がいかに年を取ったかということだ。
2030年には私の年齢は明治維新からの半分になる。きっと古老と呼ばれるだろう。
私が生まれたのは1949年、小学校入学が1956年である。
小学校入学の年の気温は最高36.5℃、平均17.3℃、最低-9.1℃であった。2020年はそれぞれ38.2℃、19℃、-6.5℃である。65年で最高気温が1.7℃、最低気温が2.6℃上がったことになる。ものすごく気温が上昇したように見えるが、グラフを見ると最低気温の緑の点線は一目瞭然で上がっているが、最高気温の青い点線は山谷があり近似線は横ばいだ。
積雪を見ると……1960年以前はデータがない! まあ1960年以降を見れば年代による変化はなさそうだから、記録のない時代もあまり変わらないだろう。
注1:積雪合計とは年間の積雪の合計
注2:雪日数とは雪が降った日数
注3:日合計と1時間ごとの積雪量の一日の累計を表す。気温が高く降った雪が溶けている場合は、積雪はこの数字より小さくなる。
まずひと冬に降る雪の積雪合計(青実線)が100センチであろうが200センチであろうが、またひと冬に何日雪が降ろう(茶色点線)と、それは統計上のことで、汽車が止まるわけでもなく休校など日々の暮らしに影響はない。暮らしに影響するのは、その日に降った雪が何センチ積もったかである。
一応総積雪合計を降雪があった日で割ると…………なんと!一日あたり1センチ8ミリになる。そんなものだったのかと驚くというかがっかりした。
では各年で最大に雪が積もったときは何センチだったのかとみると、なんと61年間で一日の最大積雪(茶の実線)は50センチが1回、42センチが1回、30センチ以上積もったのはわずか13年(20%)しかない。思っていたほど雪は降ってないし積もっていない。これには驚いた。
↑ | ||
長靴の丈 | ||
↓ |
当時の道路は雪かきされてないが、通勤通学の人が同じところを歩くから子供が通学する頃には踏み締められていて、積雪が30センチあろうとせいぜい雪の厚さは数センチになっているだろう。
下駄の歯丈に規格はないが普通2.5センチくらいだから、下駄が雪に埋まったはずがない。私の下駄が雪にめり込んだ記憶は、踏みしめられたところでなくふざけて新雪のところを歩いたときなのだろうか? そして長靴を買ってもらってからは、寸法的に長靴の上から雪が入るはずはない。
書いていて思い出したのだが、雪道を歩いていて下駄の歯に雪がくっついてだんだん大きくなり最後には歩けなくなる。そのため下駄の雪を落とすために長さ30センチくらいに竹を切り割ったものを持って歩き、ときどき雪をそぎ落した思い出がある。自分ではやりにくいので、一緒に歩いている人がお互いに他の人の下駄から雪を削り落とした。
たしかに雪道は特に下駄のときは寒く辛い思いをしたが、思い出のようなとんでもなくひどい目にあったはずない。
それにグラフを見ると私の小学校時代に、ひと冬に雪が降った(舞った)のは平均60日、積もったのは10日くらいだったろう。深刻ではなかったのだ。
もちろん冬が快適だったわけではまったくない。小学時代、同級生はみなしもやけになった。足だけでなく手も耳も真っ赤になりひどいときは耳がボロボロ崩れた。もちろん治癒するわけはなく、そうなった奴は大人になってからも耳の形がおかしかった。でも当時は諦めるよりしょうがなかった。風を通さない手袋も帽子もなく、なによりも家から学校まで片道1時間も歩けば芯まで冷え切った。
つらい思いをしたのは子供たちだけではない。当時は洗濯機もないし各家に水道はなく長屋の水場で炊事洗濯をした。母は水仕事であかぎれがひどく、冬の間はセメダインのようなものを毎晩塗っていた。あれはなんだったんだろう?
親父は私たち兄弟と一緒に通勤していたがしもやけにならなかった。大人になるとしもやけにならなくなるのだろうか? 自分がならないから子供たちの靴下とか手袋などに気を遣わなかったのだろう。いや貧乏なのが第一原因だろうけど、
寒いとか暑いというのは気温だけではない。おっと湿度とか風速も関係するというのではない。着るものや家の建付けの影響が大きい。もちろん室内の暖房の有無がある。
着るものは、冬物、夏物の衣替えをするのは当たり前だろう。しかし冬物と言っても2020年の冬物と1960年の冬物は違う。
小学校のとき通学は学生服だ。今の小学生は学生服など着ないようだが、昔田舎では皆学生服を着た。漫画で小学生が自由な服装で学校に行くのを見て、不思議に思った。都会では昔から制服がなかったのだろうか?
田舎はなぜ制服だったのか分からない。想像だが、みんな貧乏だから制服があれば差がつかないし、なにを着るか考える必要がないからではなかろうか?
ともかく下着、長そでシャツ、学生服、制帽着用が基本である。履物は金があればズック靴、なければ下駄だ。学校の上履きはスリッパで体操のときはズック靴があればそれ、なければ裸足。はだしのゲンなんて自慢するんじゃない。俺たちははだしがデフォルトだった。冬になると雪合戦をしたが、たいていは教室の机を片付けてマット運動をした。体育館? それおいしいの? 昔は小中学校に体育館も講堂も、もちろんプールもない。
冬はセーターとももひきが追加になった。寒くても雪が降ってもそれだけ。というかそれ以外に着るものを持っていない。コートとかジャンパーなんてありません。
衣替えになると上着を脱いで半袖の開襟シャツを着た。帽子には白いカバーを付けた。白いカバーをつけると太陽光を反射して涼しいのだろうか? なぜ付けるのかこれもわからない。
小学校を卒業するまで背が伸びるにつれ学生服は何度か買い替えたが、着るもののパターンは変わらなかった。
家の暖房は炭のこたつだけで、部屋を暖めるものはない。だから家の中では学生服の上に綿入れ半纏を着てこたつに入るのが基本である。要するにあるものをみな着ていた。
吹雪くと窓ガラスと木枠の間から雪が部屋に入ってきて風流なことこの上ない。
辛いとか暖房が欲しいという気はなかった。どこの家も似たようなもので、部屋を暖房している家を知らなかった。
農家なら囲炉裏があって暖かかっただろう。
中学に入ると学生服が詰襟になったが、それ以外は変わらなかった。ただそのころ我が家は石油ストーブを買ったので室内の環境が大幅改善された。兄弟がだんだん大きくなって勉強するようになったからだろう。とはいえ我が家が電気こたつになったのは1970年頃、冷蔵庫や洗濯機を買ったのもその頃だ。
学校は小学校も中学も高校もダルマストーブで石炭を燃やした。本当を言えばストーブ1個で教室が温まるわけがない。石炭もバケツ何杯と決まっていた。でも子供が50人もいて大騒ぎしていれば寒さは飛んで行った。
高校のとき割り当てられた石炭では寒さを耐えられず、不良っぽい奴が生徒数より多かった椅子を壊して燃やした。その気持ちはよくわかる。
家が寒いからと商店とか行ってもお店を暖房していない。病院に行っても診察室は暖房していたが、待合室は寒かった。本屋も暖房していない。なぜかと聞くと「本が傷む」と言う。今の時代冷暖房しない本屋はないから、あれは嘘だったのだ。
唯一暖房していたのは床屋だけだった。
私が冬にコートを着たのは就職したときです。親父が就職祝いに立派なコートを買ってくれた。立派というのは化繊とかでなく100%ウールでした。それは大事に着ました。それから7年後 結婚したとき、家内がコートを買ってくれたので、退役しました。
夏はどうしたかって?
うちわという素晴らしいものがありました。自分がパタパタしていると親父が俺をあおげというので、こちらは汗をかいて団扇を振った。
学校では下敷きというものがありまして、それでパタパタあおぎました。仰げば尊し下敷きの恩〜♪ と歌われたことからもわかります……職員室には扇風機があったようです。
寒いのは厚着したり腹に新聞紙とか少年ジャンプを入れたりしてごまかせるけど、暑いといっても裸になる以上は手がない。だから辛かった。
子供なりにエアコンのある建物に入るようになった。とはいえ1970年以前は市役所も図書館もエアコンなどない。お店では喫茶店くらいだ。高校のときはできたばかりの郡山駅前の丸光デパートに入って涼を取った。今はどこに行ってもエアコンがあるから快適だ。
はたと気が付いたのだが、昔はエアコンもなく暑さを実感していた。今はエアコンの中にいて、暑さを感じるのはコンビニにいくときくらいじゃないのか? 今の人は昔の暑さと今の暑さを比較することそのものができないのではないか?
温暖化しているなんて語る資格がないぞ!
もう1点確認しておきましょう。
都市温暖化(ヒートアイランド)ということはないのだろうか?
注:フィルサイズを小さくするために、画像を小さくして更に画質を落としています。
詳細を見たい方はここをクリックしてください。
これはアメダスが設置されている、福島市松木町 福島地方気象台(北緯37度45.5分・東経140度28.2分)を中心とした国土地理院の航空写真だ
周辺の建築物を見るとそう大きな違いはないように見える。とはいえ住宅といえど昔は木造で小さいものが現代では規模が大きくなっている。
範囲を広げた航空写真(横16km縦22km)では、市街地の広さが歴然と違う。1960年当時の福島市の人口は21万人であり、2001年に30万人をピークに減少して2021年28万である。
福島地方気象台は昔も今も市街地の中心にあり、1960年はそこから1.5キロも離れると農地が急速に増えている。2020年は北南西は4キロ、東は山のある1.6キロ先まで市街地である。
過去60年間、電力使用量の増大、自動車の増加、建築物の増加と農地の減少があったことを考えると、都市温暖化(ヒートアイランド)の効果は若干あったと思える。
注:福島市の新旧の航空写真を提示したのは、前段で福島市の気温推移を示したのでそれに合わせた。
そろそろ集約しよう。
時が経つと人の記憶は薄れエラーも重なる。叔母さんちに遊びに行ったときグラジオラスが咲いていた思い出があっても、実際は叔母さんちに行ったのと友達の家でグラジオラスが咲いていたのが合わさってたなんてこともあります。
思い出は尊い宝物ですが、それが真実だったのかどうかはわかりません。
では今は昔より暑くなったというのは本当でしょうか?
暑いとは温度計で測って暑かったのか、それとも何かの際にきわめて暑い思いをしたのか、気温はどうでもよくて感覚として暑かったのか、人によりさまざまでしょう。
冬寒い思いをしたといっても通学のときだったのか、家庭の暖房がプアだったのか、何か強烈な印象が大人になっても残っているのか、これもいろいろあるでしょう。
ひとつ言えることは、今は昔より気温が暑くなったというのはどういう意味なのか、自分は何を根拠にしてそう思うのか、考えることは必要です。お住まいによって古いデータが取れるところなら、具体的数字を見て暑かったとか、大して変わらないという事実確認ができるでしょう。
地球温暖化とかいうのは100年で2℃とか4℃の話だ。アメダスでどんな温度計を使っているか知らないが、私が担当していた計測器管理室にあったアスマン通風乾湿計の校正をJQA
温暖化のデータを取っている世界中の温度計はどんな基準で管理しているのか?
どんな温度計でも劣化するだろう。維持管理、校正はしっかりやっているのか?
一般的に寸法公差より測定装置の精度は一桁上が必要になる。昔機械加工をしていた者として、
1世紀に1℃の変化を見るなら温度計は0.1℃レベルまで測らなければならない気がするが、そんなものがあるものだろうか? アメリカや日本ならともかく、途上国や過酷な環境であれば維持できないような気がする。
それにさ、平均値は測定値の精度より細かく求めても意味がない。アスマンなら0.2℃だからそれ以下を求めても意味がない。この辺はどういう処理をしているのだろう?
まさか地球温暖化を研究している人たちがJISZ9041を知らないとは思わないが……
いや単なる疑問だ。きっと地球温暖化とか考えている人たちは小数点以下三桁くらい測れるすごい温度計をもっているのだろう。
話はガラッと変わって、
気温ばかりではありません。人の印象とか仕事の成果なども同じです。思い出、印象と現実は違うということはありそうです。
現実はどうだったのかを振り返り、今を考える必要がありますね。
本日の反省
50代後半のとき産業能率大学の通信教育を受けた。スクーリングで毎月一度は週末に学校のある等々力に通った。自由が丘駅から歩くのだがとても遠く感じた。改めて地図を見ると、たったの1.3キロだ。歩いて15分。どうして遠く感じたのか、慣れない道だからそう感じたのだろうか?
記憶とか印象というものは事実とは相当違う。なにごとも客観的に見なければならないと思う。
注1 | 注2 | |
注3 |
ガラス製温度計 JISB7414:2018 低い正確さ用:±1.5℃、高い正確さ用:±1℃ 熱電対 JISC1602:2015 0〜100℃用 クラス1:±1℃、クラス2:±1.5℃ | |
注4 |
ガラス製体温計 JIST4206:2018 ±0.1℃ 電子体温計 JIST1140:2014 30〜43℃ ±0.1℃ | |
注5 | ||
注6 | ||
注7 |
1981年の芋欽トリオのハイスクールララバイの歌詞である。覚えているなら還暦以上か? | |
注8 | ||
注9 |
JQAは、1990年当時は機械電子検査検定協会(JMI)と称していた。業務は校正と試験検査だった。我々のような校正するにも標準機もないところはJMIに校正を依頼していた。また振動試験機やULを受験したいが検査機器がないなんて会社はJMIに依頼した。今でもJQAの売り上げの30%は校正関係である。 ISO認証を1990年に始めて1993年日本品質保証機構と改称した。 |