このところSDGsに凝っており(?)いろいろと勉強している。未だ学びの途上であるが、今までに読んだ本などから考えたことを書く。10日もしたら「その2」を書く(予定は未定である)。
なにしろSDGsに関する本はスルメのようで、噛めば噛むほどというか、読むたびに違う顔を見せていろいろな解釈ができる。一読だけでは足りなそう。
おっと、それから図書館からまた「予約した本が整いました」なんてメールが来ているから引き取りに行かねば……
最近は持続可能よりSDGsが流行だ。持続可能とSDGsが同じかというと日本語で「持続可能」とは「保ち続けることができる・中断しないでいられる」という意味であり、原語でも「Sustainability」でこれも「長時間継続できる」という意味で同じだ。それはSDGsつまりSustainable Development Goals(持続可能な開発目標)という意味とは全然異なる。
だが、ブルントラントの報告書「我ら共有の未来」において「sustainability」とは、「将来世代のニーズを損なうことなく現在の世代のニーズを満たす経済」と定義されている。つまりこの定義の「sustainability」と「Sustainable Development Goals」が同じか違うかということになる。
上記を読めば持続可能性とSDGsの関係は、「目的」とそのための「活動目標」ということになる。
なおGOALとObjectiveとTargetは何が違うかとなるが、GOAL≒Objectiveであり、TargetはGOAL/Objectiveを達成するために小分けした目標という位置づけとみなして良い。
注:Objectiveは3年後の目標、Targetは年度目標なんてアホを語っていたISO認証機関があったような気がする。気のせいかな?
「Goals」と複数形なのは、SDGsバッジが17色に塗り分けられているように、ゴールが17項目あるからだ。
ゴールがたくさんあればボールが入れやすいかもしれないが、すべてのゴールにけりこむのは大変だ。
持続可能とは昔から言われてきた、どうして突然SDGsが現れたのか、いま世界中で騒がれている地球温暖化とSDGsはどういう関係になるのか、わけわからんことはたくさんある。
そういえば10年ほど前からESGなんて略語がもてはやされてきたが、ESGとSDGsって同じなの・違うの?
前述のようにSDGsは「持続可能な開発目標」のことであり、環境や人権など持続可能な社会への17の目標だ。一方でESGとは「Environment(環境)」「Social(社会)」「Governance(企業統治)」のことで、「持続可能な開発目標」の項目や考え方が整理される前に企業による社会的責任は環境から始まったわけだけど、それが多様に広がり社会的責任(Corporate Social Responsibility)と言われるようになり、現在ではISO規格にもなった
これは企業の責任は、社会に良い製品やサービスを提供するだけでなく、多様な責任を果たしていかなければならないという手引きである。
ではSDGsとESGの違いとなると、ESGは企業や投資家が行うべき目標であり、SDGsは企業の範囲でなく国連や政府そして一般市民すべての目指す目標を示したといえる。
もちろんそこで提示されているものが、適正であるのか過不足ないのかは別問題である。
ともかくここ10年はSDGs花盛り、政治家も経営者も下っ端もみなSDGsバッチを胸につけている。ブルーリボンや赤い羽根はダサくて、SDGsバッチは今もっともホットなレイティストファッションらしい。とはいえ流行は必ず去る。そう遠くない将来にね、
そもそもSDGsとは、西欧が生み出したスタイルといか価値観を普遍化(押し付ける)することなのだそうだ
ISO14001にしてもESGにしてもSDGsにしても、正直言ってその発想についていけないところがある。しかしそう考えるのが間違っているのだ。それが良い悪いでなく、私が白人至上主義といってはまずければ人間中心主義でもよいが、神の下に人間がいる、神からこの世界が人間に与えられたので支配するという考えであり実践である。その発想をまず理解しなければならない。
この価値観を理解できない・ついていけないなら、自分の価値観・体系を作り上げ売り込み広めなければならず、それができなければキリスト教的人間中心主義の軍門に下るしかない。
いろいろな本を読むとSDGsを理解するには、「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ
すぐにプリントして読んだ。私は法律を読むのに慣れているというか、そんなことが仕事だった。これは37ページしかないからすぐに読める。
読むとすぐに感じたのは、発想がキリスト教的であり、人間中心といえば聞こえが良いが自己中心であり、自由も平等も人権も白人・西洋人にとってなのである。正直私には納得できない。ただルールが文書化され明示されている点では公明正大かもしれない。
とはいえスポーツでもビジネスでも、自分たち(白人・西欧人)が負けそうになるとすぐにルールを都合よく変えてしまうという自分中心、わがままな連中であり行動であるということが鼻につく。いや鼻につくではなく我々は常に足をすくわれないように注意しなければならない。ISO規格でも国際法でも西欧中心であることにはみんな嫌気がさしているだろう。
ロシアとか中国の考えや行動は納得いかないことが多いが、彼らが西欧中心主義に抵抗して、新しい価値観。行動基準を確立しようとしていると考えると、その意志に共感するところがある。
ただ今までの西欧中心主義をリセットして新しい枠組みを作るに際して、ロシアや中国中心になっても困る。なによりも中国やロシアの価値観よりは西欧中心主義の方が民主的で普遍性があると私は見ている。
もちろん私は日本人だから、日本中心の枠組みを作りたいがそれがかなわないことは間違いない。ならば最小悪の選択は西欧一択かなという諦めである。
要するに私から見れば「我々の……2030アジェンダ」は好き勝手なことを言いやがってと思えてならない。それはSDGsだけでなくグレタ・トゥーンベリを始めドイツ首相メルケルやIOC会長バッハの行動や発言にも感じる。俺が俺がと自分の主張を押し出すスタイルには付き合いきれない。肉食と納豆を食べている人種の違いだろうか?
フランスのマクロン大統領がCOVID19ワクチンの供給が遅れていることを「アングロサクソンがワクチンと原材料の輸出を遮っている
SDGsには17のテーマがある。SDGsバッジをつけている人は多いが、17項目を知っている人は1割もいないことは間違いない。いや覚えていなくてもよいが、17の中身を調べた人も半分もいないだろう。
1 | 貧困をなくそう | |
2 | 飢餓をゼロに | |
3 | すべての人に健康と福祉を | SDGs ![]() |
4 | 質の高い教育をみんなに | |
5 | ジェンダー平等を実現しよう | |
6 | 安全な水とトイレを世界中に | |
7 | エネルギーをみんなにそしてクリーンに | |
8 | 働きがいも経済成長も | |
9 | 産業と技術革新の基盤を作ろう | |
10 | 人や国の不平等をなくそう | |
11 | 住み続けられるまちづくりを | |
12 | 作る責任使う責任 | |
13 | 気候変動に具体的な対策を | |
14 | 海の豊かさを守ろう | |
15 | 陸の豊かさも守ろう | |
16 | 平和と公正をすべての人に | |
17 | パートナーシップで目標を達成しよう | 国連開発計画より |
私はこの17の項目がどういう考えで分けられたのか納得いかない。論理的とか科学的な根拠は全くなさそうだ。たくさんある問題点、課題をグループにまとめてそれぞれにタイトル付けましたとしか思えない。
企業において環境管理をしてきた人なら、典型7公害なんて言葉を知っていると思う。はるか昔の公害対策基本法のときから今の環境基本法においても、公害として(1)大気汚染、(2)水質汚濁、(3)土壌汚染、(4)騒音、(5)振動、(6)地盤沈下、(7)悪臭をあげている。
まあこれが最善の分け方というわけでもない。実際に今では法律が変わり騒音と振動はひとつのカテゴリーになったが、ともかく7つの区分は一つの考え方ではある。
SDGsの17項目をみると、水については6と14,大気汚染、騒音、振動と廃棄物は11、土壌汚染は12?、地盤沈下は見当たらないと……
大気汚染といっても硫化水素とフロンは影響の種類は違うだろうし、ましてCO2も違う。日本における環境管理の考え方からは17の分け方は全く理解できない。まして貧困とジェンダーと気候変動が同格に並ぶということに、違和感を持たない人はいないのではないだろうか?
「SDGs−危機の時代の羅針盤」を読むとほとんど政治的な外交交渉の妥協の産物であり科学的根拠や理屈があるものではないようだ
気候変動が特段重大に位置づけられていないのも気にしてはいけないのだ。気にしたら負けだ。
SDGs作業部会のメンバーの意見・利害を調整し取りまとめること、それはまさに政治である。
政治的決定は構成員の不満を最小にする効果はあるが、論理的に正しいわけではない。
政治的に決められたSDGsの17目標が理論的に正しい区分であるわけはなく、また持続可能を実現するための目標であると証明されたわけでもない。
さらに報告書の決定は作業部会の合意形成前に議論を打ち切るなど強権的であり、およそ論理的な思索の結果でもない。そしてそれに不満を持つ国々も、特定の項目に己の主張を通そうとすると、別の項目で不利な変更があるかもしれないと懸念して妥協したという
まさに日本国憲法において、第1章に不満があってもその改正を言い出すと対立政党から第2章の改正を提案されるのを懸念して、頑固に改憲反対を唱えている政党のような塩梅だ。
つまりSDGsとはそういうものだ。
私はかねてより
(1)SDGsを実現すれば持続可能と証明されているのか
(2)成長の限界という考えはどこにあるのか
ということが疑問であった。
しかしSDGsが決められた流れを考えると、SDGsのゴールは正しいのかとか、17のゴールは必要十分なのか、と考えること自体無意味なのだ。
そしてまたSDGsとはそんなに価値あるもの、論理的なものではないのである。それは世界の国々がみな負担が少なくて少しでも多くの配当を得ようとして、押し合いへし合いした妥協の産物に過ぎないのだ。
そして金融機関はこれをネタに儲けるにはどうすればよいのか、NPOたちはこれをネタにお金を引き出して楽しく活動していこう、企業はこれを足掛かりにビジネスを拡大しようと考え、目端が利く子供は現状を批判して有名になり、一般人はSDGsは素晴らしいと洗脳されひたすらお金を搾り取られるという、過去からよくある国連詐欺である。
ともかくいきさつは理解したが納得はできない。
SDGsなるもので持続可能社会が実現するはずがない、あるべき社会を実現すれば持続可能が達せられ、それは人々が妥協できるものだというものを明示してもらわないと納得できません。
SDGsが妥協の産物であるとしても、それを行えば良くなるという保証が欲しい。気にしたら負けと言われても、負けても知りたい真実を
でなければ、SDGsなど犬に喰われて死ぬがいい
本日の裏話
SDGsなんてことに特段知識があるわけではない。SDGsとはなんぞやと勉強しようと
予約しますか | |
10冊申し込んだのだが、貸し出し中を除きとりあえず揃ったという8冊を借りてきて読んだ。
十人十色、十冊十色である。誤字脱字は結構あったが、それぞれの本に書いてあることに重大な齟齬もなく、SDGsとはこういうものなのだと思うしかない。俗にいう理解はしたが納得はしないというアレ、
ただ群盲象を評すではないが、スタンスによって見る目も使い方も違うものだなあと感じた。
SDGsの交渉の日本代表だったという南 博
まあ皆が皆同じ見解であれば、それこそ信頼できないわけで、いろいろあってよいのだろう。
ところで全く知らないことについて学ぼうとするとき、その分野の本を10冊くらい読むというのはセオリーだが最初に読む本の影響が極めて大きい。何を最初に読むか、あるいは1冊だけ読むというなら「SDGs−危機の時代の羅針盤」が一押しである。
もし1冊も読みたくないというなら、ネットから「2030アジェンダ」をダウンロードして読むことをお勧めする。なにしろ無料だ。
注1 |
ISO26000:2010(JISZ26000)してとISO規格なった。 ![]() | 注2 |
「SDGsを考える」、高井亨編、ナカニシヤ出版、2020、風変わりな序章 「今、世界中でSDGsへの取り組みが加速している。(中略)その正義から「これからも取り残されるもの」の存在を忘れてはならないのである。我々の正義の下には、我々とは異なるものたちの屍が累々と横たわっているのだ」 ![]() |
注3 | ||
注4 |
仏大統領「アングロサクソンが遮り」 ワクチン輸出で(日本経済新聞 2021.05.08) 新型コロナウイルスワクチンの普及が遅れていることについて、フランスのマクロン大統領は米国を念頭に「アングロサクソンがワクチンと原材料の輸出を遮っている」と述べた。バイデン米大統領はワクチンの特許権の一時放棄を支持すると表明しているが、欧州連合(EU)内では生産国による輸出を急ぐべきだとの見方が広がっている。 ![]() | |
注5 |
「SDGs−危機の時代の羅針盤」p.46 ![]() | |
注6 |
「SDGs−危機の時代の羅針盤」pp56-58 ![]() | |
注7 |
「SDGs−危機の時代の羅針盤」、南 博 他、岩波新書、2020 ![]() | |
注8 |
「SDGsの本質」、御友重希、中央経済社、2020 ![]() | |
注9 |
「SDGsを考える」、高井 亨編、ナカニシヤ出版、2020 ![]() |