老人の生き方

22.04.28

先だって生涯現役とか老人の生きがいなどの本を読んだので、あれからしばし老人の生き方を考えた。とはいえまだ本を読んだりデータをあたったりした程度なので、今後いろいろ考えて書くかもしれない。

ケネディ大統領 「誰もが黒人になることはないが誰でも老人になる」と語ったのは、1960年代初頭ケネディ大統領だった。それだけでなく「だから老人になったときのことを考えろ」と続いたように覚えている。
当時はまだ人種差別が堂々と行われていたアメリカだったが、人種差別だけでなく老人差別もいけないと言ったのだ。

「誰でも老人になる」という言い回しは本当らしく聞こえるし、老人になった時に備えろという趣旨も分かる。
しかし現実には誰でも老人になるわけではない。2022年の日本では、老人を自称できる65歳以上の前期高齢者になれるのは、男86.7%、女93.6%である(注1)どこに出しても恥ずかしくないオーセンテックほんもののな老人である75歳以上の後期高齢者になれるのは男71.9%、女86.5%しかいない。

注:アメリカの生存率/生存曲線を調べたが、white、blackとかHispanicなどと細分化されていて、全体がどうかという数字が見つからなかった。
アメリカの平均寿命は日本より短いから、老人になる割合も低いことは間違いない。

中学は全員卒業できる……というか卒業証書がもらえるが、高校になると様々な事情で退学する人がいて、卒業率は95.3%だ(注2)前期高齢者になるのは高校に入学して無事卒業することより難しい。まして後期高齢者になれるのは、大学の卒業率(注3)より低い。
ともかく自分は老人になるまで生きると思い込んではいけない。一寸先は闇なのである。


私は学校で老人になったらどういう生活をしたらよいか、なんて習ったことがない。
しかし私が小学校に入った1956年、あるいは中学校を卒業した1965年までは、ほとんどの同級生の家庭は夫婦と子供がいたし、祖父母が同居している家も多かった。
私が小学校低学年のとき祖母は伯父宅(親父の生家)に同居していたが、月に一度くらい伯父宅に親が顔見せにいくので、そのとき一緒に行って祖母に会っていた。だから老人は身体的にどんな状態になるのか、言葉使いや話し方、価値観などは見知っていた。

友人の中には、爺さん・婆さんが「ややこかえり」とか「にどやしゃご」になったのもいた。「ややこかえり」とは漢字は分からないが赤ちゃんに戻ったという意味で、「にどやしゃご」とはたぶん「二度ややこ」で「赤ちゃんに二度なった」という意味だろう。要するにボケである。
当時の平均寿命は男65歳、女70歳(注4)という時代だから、ボケ老人といっても年齢は60歳とか65歳だった。今ならバリバリ働いている年代だ。

また同級生の中には爺さん・婆さんが脳溢血で10年以上寝たきりという人もいた。そんな家に遊びに行くと、静かにしてねと友人のお母さんに言われた。友人は生れた時から家の中では話す声も小さく、ドタバタできずに育ったのだろう。寝たきりの人もかわいそうだが、家の人たちもかわいそうだ。もちろん寝たきり老人の介護をしていた奥さんは大変だったろう。
ともかく寿命も短かったし、健康寿命も短かった。

だから我々が子供の時、年寄りという存在は身近なものであった。それで年寄りになるとどんな風になるのかもよく分かっていた。
今の老人とは違い、70過ぎると農夫症といって地面をなめるように背骨が曲がっている人が多かった。また多くの人が50代半ばで総入れ歯になった。四十肩とは40歳になると肩関節が痛み、腕が上がらないとか背中に回せなくなることだ。ところが寿命も延び、肉体の老化も遅くなったので、五十肩になり六十肩になってきたようです。


長屋の隣は大工だった。その親父は長屋では年長者で、地域の話し合いなどではでかい顔をしていた。 大工 昔は年上というだけで偉かったのだ。
当時の会社員の定年は54歳とか55歳だった。自営業の大工に定年はないが、隣の息子が一人前の大工になり隣の親父が60歳になったとき、大工を止めて隠居するといった。
賃貸の長屋だったが、大家と話して自分で3畳ほどの部屋を建て増ししてそこで暮らした。64歳になったとき病気で亡くなった。

勤め人でも自営業でも、60前に仕事をやめて70前に亡くなるのが運命だった。
そんな周りの人を見ていたから、自分も50代半ばで会社勤めを終えて、還暦を過ぎたらこの世におさらばするものと思っていた。


1960年頃、伯父一家が東京に出ていき、祖母が東京に行くのを拒んだのでオヤジが引き取り、 お線香 我が家は建て増しせず、6畳と4畳半しかない家になんと7人が住んだ。
祖母はそれから数年して76歳で亡くなった。お経をあげに来た坊さんがこれほど長生きした人は珍しいと語った。
1960年の平均寿命は女70歳だから、平均寿命より6年も長生きした。今なら女の平均寿命が88歳だから、94歳まで生きたことになる。今でもボケずに94歳まで生きたら大往生といえるだろう。

ともかく私が子供時代、いや高校を出た頃までは高齢化社会など想像もつかないものであり、定年退職後に10年以上も生きるなんて思いもよらなかった。
だから定年後に何をするか考えることもなく、もちろん経済的な心配もせずに、数年間 孫守りとか家庭菜園をいじっていればお迎えが来るだろうと思っていた。


学校で葛飾北斎が88歳まで生きたとか、伊能忠敬ただたかが老齢になってから暦や天体観測を学んだと知って、まさか!と思った(注5)
88歳まで絵を描いたのもすごいが、それ以前に88歳まで生きる人はごくわずかだ。また定年後大学に行くなんて1960年頃は考えられなかった。

定年後大学に行くには、いくつもの障害が思いつく。大学に入ったとしても卒業するまで生きられるのか? ボケないのか? 卒業できたとしても大学で学んだことを生かす時間もないし、機会もないだろう。故に大学に行く費用も勉強そのものも無駄としか思えなかった。


私が40歳になった1990年になると平均寿命が男76歳、女82歳と現在より短いが、当時は定年がまだ57歳前後で、その代わり希望すれば60歳まで嘱託で雇用するというのが一般的だった。定年で辞めれば19年、嘱託で働いても16年は引退後の人生があるわけだ。そうなると退職後孫守りだけではすまなくなる。老後をどう生きるか中高年は考えなければならなくなっていた。
もちろん嘱託になると賃金がダウンするどころか、パートアルバイトと同等の金額だった。新たに引退後の経済問題が起きてきた。

当時働いていた会社の管理職の人が定年退職してから大学に行くという。私は驚いた。何を勉強するのかと聞くと、平安時代の文学という話だった。大学など無縁だった私は、経済的な余裕のある人の優雅なお遊びなのだろうと思った。


1990年頃ビッグコミックに連載された「定年諸君!(注6)」というマンガがあった。連載であったが毎回でなくときどき読んだ覚えがある。一話完結だからそれでも支障はない。
銀行支店長まで勤めた主人公が定年退職し、現役時代は付き合いがなかった近隣の人たちと交流するようになり地域に根を下ろすというお話である。
今から30年前となると、家電品も趣味も今とは大きく違い、主人公が退職して最初にしたことは、暗室を作り趣味の写真の現像や焼き増しをすることだった。

注:一般市販のデジカメは1990年に登場した。広まったのはWindows95が現れて、データの扱いとかプリントが自在にできるようになってからだ。
なお、Windows95は1995年11月発売で、広まったのは1996年以降である。

しかしマンガを見ても40歳の私は定年後なんて全く想像もつかず、自分が定年になるなんて思いもしなかった。
そんなわけで現役時代に定年後を考えたことは全くなかった。


私が定年後を考えたのは恥ずかしながら定年になる直前だ。私のときは定年が60歳になっていた。
さて定年で最大の問題は、会社を辞めて月給がなくなるとどうして生活していくかということである。その会社は定年退職者が残ることを希望して、かつ引き取る部署があれば、嘱託で再雇用してくれた。同年配者を聞き歩くと、半分は嘱託で働くという。
嘱託で残れるとは思っていなかったが、定年間近に嘱託で働かないかと声がかかり、ありがたく嘱託で雇ってもらうことになった。

嘱託をしている間に老後の暮らしを考えたかといえば全く考えていない。今考えると少なくても経済的なこととか何をするかとか、真面目に考えていればよかったと思う。でも日々仕事をしていると、仕事が楽しく、仕事を辞めた後なんて考えたくはない。


さて2年と少し嘱託をして完全に引退した。もう満員電車に揺られることもなく、空港で飛行機を降りたら到着ロビーからリムジンバスまで1キロ以上全力疾走することもない。なにもしなければアッという間にぼけそうだ。


老後いかに生きるべきかを説く本を読むと、最上位は人のために生きることと主張するものが多い。具体的にはボランティア活動とか趣味や習い事での後進の指導だそうである。次善は己の健康維持とか勉学に励むことを挙げている。
そういうのを読むと、私は読み続けることができず、こりゃいかんと本を閉じてしまう。
私は人のために生きようなんてしたらジンマシンになってしまう。

私はボランティアもしてないし、後進の指導なんて面倒なことはしたくない。また生きがいを持っているという意識もないし、ライフワークなんて認識しているものもない。本に書いてある真逆で人間として最底辺らしい。
だが人の価値観を型にはめてしまうこともないだろう。ボランティアが自分のために生きるより価値があるとも思えない。

私は定年後することを何も考えていなかったのは事実だが、したいと思っていたことはたくさんある。
具体的にはどんなものかといえば、会社員時代に疑問に感じていたISO第三者認証制度の存在意義を調べようとして嘱託をしながら大学院に行った。

子供の時からカナヅチで死ぬまでに泳げるようになりたいとスイミングスクールに入った。

今はクロールも平泳ぎも連続500mくらいは十分泳げるから、もうこれ以上上達を望まないが、体力維持のために日々泳いでいる。
平泳ぎ 実は若い時……といっても65歳くらいのときは連続で2,000m、一日累計3,500から4,000mは泳いでいたが、今は連続1,000m、一日累計2,000mが体力的に限界だ。歳をとるとはそういうものだ。
また以前2キロ泳いでいた記憶で今も泳ぐと……たぶん半月もすれば、肩を壊し整形外科に通うようになる。まさに年寄りの冷や水、
実はそんなことを2度もした_| ̄|○

古事記や邪馬台国のことを知りたいから勉強会や講演会に行った。
勉強したいとかでもなく、暇つぶしでもなく、とにかく知りたい、やってみたい、そういうことは切りも限りもない。死ぬまでになんて思いはないが、好奇心とか、チャレンジ心から、やってみたい・できるようになりたい、そんなことが出発である。間違っても世のため人のためなんて考えたことはない。


話を戻せば、世のため人のためなんて考えている人、実践している人は聖人君子だと思う。しかしその価値観に同意はしない。高い理想を掲げて実践するのは尊敬するが、そこまでしなければならないのかと思う。
それに「老人は……あるべし」というなら、それよりに先に「現役世代は人のために生きよ」と言わねばならないだろう。
私は現役時代、一生懸命生きてきた自負はあるし、今は自分の望むままに生きていきたいと思う。もちろん「矩をこえず」であるのは当然だ。


では果たして身近にいる老人の生き方を見て何を思うか、そんなことを書く。
老人といっても一人一人異なるユニークな存在であり、一般論では語れない。

一番付き合いにくいなと思うのは、上から目線で待ちの姿勢の人だ。そういうのは高齢になっても人を使う管理職だった人が多い。管理職といっても、自ら企画し自ら動く人なら尊敬する。しかしなぜか管理職の多くは、企画を持ってこい、ワシのお眼鏡にかなえばハンコを押してやるぞという人が多い。
そういう人は引退した今も、趣味やその他の場であっても人の企画をほめない。ケチをつけ欠点を見つけることに生きがいを持つようだ。
ほめたアイデアがこけたとき、ほめたことを批判されるのを恐れるのかもしれない。ほめなければ企画がこけても、だからあのとき俺はうまくいかないと……と言えるからだろう。

やはり人はいかなる時も、素直に考えて素直に発言する姿勢を持たないと周りから尊敬もされず、言うことも聞いてもらえない。
引退して職責とは無縁になったのだ。良いアイデアと思ったなら銭金を出せというわけじゃない、それは素晴らしいアイデアだと発言することが好かれる第一歩だろう。

それから嫌われるのは、都合の良いことだけ覚えていて都合の悪いことは忘れる人だ。もちろん本当に忘れているならぼけ老人だが、忘れたふりをする人だ。
世の中のものごとの9割はやってみなくちゃ分からないもので、カットアンドトライが必要だろう。もし初めから手順がはっきりしているなら、それは単なるルーチンワークだ。
だから良いと思っても、結果うまくいかないこともある。それを「自分は反対だった」とか「俺は懸念していた」ということはない。
責任逃れのために「俺は反対だった」と言うのは信頼を失う。「あのときは良いと思ったのだがダメだったか」と素直に言ったほうが、次回もその人がコメントしたことは参考にされるだろうけど、「俺じゃない」と言えば、次回は何を言っても無視されるだろう。

生涯現役とは、今が現役ということだ。別に同じ仕事を継続しているとか、今も働いているとか、世のため人のための仕事をしているとかではない。
仕事であろうと趣味であろうと、今全力を投じて何かをしていることじゃないかと思う。
現役時代の仕事を引きずったり、責任回避を優先し、未知なことに二の足を踏む人は、心も老人になったのだ。


うそ800 本日考えていること

私は「老人の生き方」というものがあるとは思わない。生き方が年齢によって変わるはずがない。現役時代でも年金生活でも人は積極的に生きていかねばならないということだと思う。




注1
平成21年簡易生命表 寿命中位数等生命表上の生存状況

注2
文部科学省の2019年「学校基本調査」による。

注3
河合塾 学士課程での卒業率
性別の数字はないが、2019年全体で82%である。一番卒業率が高いのは生活科学系91%、スポーツ健康系・農学系・教育89%で低いのは薬学系71%・国際75%である。

注4
内閣府 資料

注5
伊能忠敬は息子が成人した45歳の時、領主に隠居を願い出たが忠勝が有能であったので隠居が認められず、家業を息子に任せて独学した。49歳の時に隠居を認められ、50歳のとき江戸に出て31歳の高橋至時の弟子となり天体観測と測量を学んだという。
50歳は今では若いが、江戸時代末期の平均寿命は40半ばだった。だから平均寿命を過ぎてから学問の道に入ったということになる。現代の平均寿命は男81歳、女87歳だから、それから大学に入りそして偉業を達成したということになる。

注6
「定年諸君!(1〜3巻)」原作 あべ善太・作画 篠原とおる、小学館、1990




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