「戦後教育で失われたもの」  森口 朗 goodbetterbest
出版社ISBN初版定価(入手時)巻数
新潮新書 4-10-610129-72005/8/20680全1巻
 拝啓 森口 朗 先生
 「日本人よ」のウェブサイトを紡いでいる佐為でございます。
残暑厳しい今日この頃ですが、先生はいかがお過ごしでしょうか? 私はあいも変わらず残業と休日出勤の連続で連日連夜エアコンの効いたビルの中におり、おかげさまで残暑を感じるヒマがありません。

 さて、先生が書かれた「戦後教育で失われたもの」を拝読いたしました。
8月20日に発行とお聞きしておりましたが、アマゾンから送られて来たのは9月に入ってからでした。
拝読しまして感じたことを正直申し上げますと、まったく初めて知ったということはあまりありませんでした。取り上げられている事例は私が過去にいろいろな本や伝聞で聞いていたことが多かったと申し上げます。もちろんそれはこの本の価値を否定するものでは決してありません。先生はそのような事例を基に現在の学校教育に関する問題に関して包括的に、かつ平明に語っておられ、この本はすばらしいテキストであると確信します。本の内容や個々の論点について、私の乏しい知識や経験で論じることは、先生に対して大変失礼でありますので差し控えます。

 この本を読んで感じたことをいくつか申し上げたいと思います。
まず先生は私より10歳以上お若いのでありますが、先生の感覚と私の感覚、使う言葉が近いのに驚きます。
たとえば先生は「ピンク」という表現をされています。いまどきの人は「ピンク」という言葉からは、かわいいとかエッチなことを連想するでしょう。ピンク映画という表現は日活ロマンポルノあたりからかと思います。私が子供の頃や社会人になった頃まではそういったものをブルーフィルムといいました。
そういったものにではなく今現在、一般的に「サヨク」と表現される概念に対して、私の子供のときはピンクといいました。共産主義(レッド)ではないがそれにうっすらと染まっているという意味でした。私が子供のときですから新聞などから得た知識ではないと思います。父親などがそういう表現をしていたのでしょうか。
私が「左翼」ではない「サヨク」という言葉を知ったのは、実は98年の小林よしのり氏の「戦争論」がはじめてでした。このようにピンクという表現一つとっても先生と私の使う言葉が非常に近いと感じました。ただ現在私はピンクという表現は使いません。なぜなら今では通用しないからです。

S新潮新書 ・・・・・・
森口 朗
MORIGUCHI Akira

戦後教育で
失われたもの
ニート、フリーター、引きこもり、
わが子に「理解」を示す親・・・・

こんな日本に
誰がした!?
 新潮新著 新刊
 教育勅語についての考えも同じです。
先生は教育勅語の趣旨を評価されていらっしゃいますが、運用については非常に懐疑的というか批判的です。私もこれに同感です。
今現在、インターネットの世界でも正論派、愛国者の多くの方々は教育勅語を尊び、懐かしく回顧しています。教育勅語など学校でも親からも聞いたことがあるはずがないような年代の方でさえ、ホームページに貼り付けている方もいます。そして復活させようとしている方もいます。私は何ごとかあると親が教育勅語を暗誦し、それを根拠に子供を諭すような家庭で育ちました。
でも今の時代に教育勅語を持ち出すことは一般の人々の共感を得ることはできず、時代錯誤の印象を与えるだけであると主張しております。

 価値観の話もあります。
「学校の勉強ができなくてもスポーツで頑張ればいい」という論理がありました。私が育った頃は、実はこんな論理はありえない時代でした。なにせ、ほとんどの人が中学校を出ると働く時代でしたので、勉強ができることは学校の中でさえステータスではありませんでした。それよりもなわとびで二重飛びが何百回できるとか走るのが速いということに価値があり、その能力によってクラスの中の序列が決まりました。子供たちにとって、客観的に勝敗が見える個人の能力を示す指標だったからです。
だからこそ体も小さくけんかも弱くいじめられっ子だった私は、「スポーツができなくても学校の勉強で頑張ればいい」という戦略をとったのです。といっても進学できる境遇でもなく、就職の際に有利になると思ったわけでもなく、なにかひとつは人に勝ちたいと思ったにすぎません。
テストの点数が価値の尺度となったのは私の時代より下がって高校に行く者が増えてからではないのでしょうか?そんなことを思いますと、価値観なんて流動的なもので半世紀で裏返ってしまうのですね。

 先生はさかんに誇りという言葉を使います。
「誇り」とは「己を知り他を知って他を尊敬すること」であろうと思います。ところが多くの人々、特に市民団体系の方々は「己を誇り他を貶めること」と理解されるようです。おかしなことです。私は人間であれば自分がどのような境遇であろうと、誇りを持つことができるし持たなければ人間ではないと思うのです。
実は私のウェブサイトのタイトルが「日本人よ、誇りを持て」なのですが、いろいろと考えて名付けたわけではありません。4年前、小泉首相が靖国参拝云々がマスメディアで議論となったとき、各政党、新聞社にメールを送りました。インターネットのたくさんの掲示板に思いを書き込みました。それを散逸させたくないと思ったのが開設のきっかけです。そしてプロバイダのサーバーにアップするときになって、散文ではありますが私の願いを名付けたのです。
私は、人は他人に迷惑をかけない限り個性があってよく、頑固であることは悪いことではないと思います。そして老人であればなおのこと、頑固であることが許される、あるいは頑固であるべきではないかと思います。
子供たちに好かれたい、若い人を理解したい、若い者に尊敬されたい、そのようなおもねる気持ち、気弱い老人こそが若い人からバカにされるのです。私は、若い人に好かれなくてけっこう、若い人の考えることはワカラン、若い者に尊敬されることもないと考えておりますし、そういう人生を全うしたいと思います。

先生のご本がベストセラーとなり、日本の多くの人々に「日本の教育ってなんか変だなあ〜」と感じていただけることをご祈念いたします。
敬具


平成17年9月11日
任田 佐為





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