どこにでもある人生 2002.06.18
私もこの世に生を受けてはや50数年、私が生まれた頃なら既に老人です。
 あっ、今でもやはり老人ですか?(^^)

『オーデナリピープル』という映画がありましたが、私の人生もはっきりいって何の変哲もない人生です。
特段、抜きんでるところもなく、大きな病気もせず、そこらにある高校を出て、会社に入り、余計なことを考えず仕事に励み、犯罪などに関わったこともなく、政治運動をしたこともなく、普通に結婚し、普通に子供が生まれ、つつがなく つましく暮らしてまいりました。
お天道様のご加護があれば、これからもお迎えが来るまで達者でやって生きたいと考えております。

でも、それなりにいろいろありました。
いくら平々凡々とした人生でも山も谷もあり、経済的に大変なときもありました。
 あっ、経済的といえば、いつも大変だったようです(^^)

昔はこんなものよ 今の感覚では早婚でした。
若いもの同士の結婚ですと、妥協するというのが難しい。言い換えると結婚によってお互いが成長します。
晩婚でしたら、結婚によってお互い大きな変化・成長はないんじゃなかろうか?

両親を結構早く送りました。
最近 私の同年輩の方の親が病になったとか、お亡くなりになったとか聞きますと、『えっ?まだ親がいたんだ!』と驚いてしまいます。


まあ私の人生で人様に申し上げるようなことはありませんが、いろいろと感じることもあります。
その中からふたつみっつ、

私は結婚するまで住んでいたところは引揚者住宅の長屋でしたが、だんだんと豊かになり、そこの住人が同じ敷地に建て替えをして住み続けておったようなところです。
住民の年齢は結構ばらついておりました。
となり組というのがありますが、私のところは10数軒ありました。
一軒あたり5人家族とすると、そこの人口は約70人、くしくも日本の平均寿命と同じでした。
ということはどういうことかといいますと、毎年、近所のどこかで一人の方がお亡くなりになるということです。
実際、毎年くらいお葬式がありました。
お葬式ができると、隣近所の人が借り出され、お知らせの段取りから、お坊さんのお迎え、食事の手配、お葬式の運営、帳場、後片付けなどなどを分担しました。
私は高校を出るとすぐ、オヤジの代わりとして参加しましたので、帳場以外はすべて担当しひととおりのことはできるようになりました。
帳場だけはお習字がうまくなくちゃできません。
それと金勘定が速くないとだめです。
隣組の人たちはけっこう仲良く、子供が入学したり卒業したりするとお祝いをしてくれたりしたものです。
お金じゃありません。入学おめでとうと言いに来てくれたというだけです。
新築した方が『入学記念の写真はうちの玄関で撮れ』なんて言ってきたことがあります。
 理解できない方がいるかも知れませんが、後々残る写真は良く撮れということなんです。
みんなあばら家に住んでましたからね、
わずらわしいと感じるかもしれませんが、子供心にうれしかったものです。

町内会の行事なんてありますと、参加するのは当然でありまして顔を出さないとえらい目にあってしまいます。
普段顔をあわせない子供の頃の仲間と会うのもまたいいものです。

昔はこんなものよ その後、結婚してアパートに住みますと、近所付き合いというのがないんですね、
いえ、都会じゃありません。地方都市ですよ、
隣の人の顔も名前も知らない、ましてどんな仕事をしているのかなんて分かりません。
歯医者に行って、世間話をしていたらその歯医者がつい目と鼻の先、数軒となりに住んでいたということもありました。

その後一戸建てに住むようになりました。見渡せば団地の住民はみな同じ年代です。
年寄りはいないし、新婚さんもいない。
どこの家庭にも中学生・小学生がいて年よりもあかちゃんもいない!
ですからお葬式はめったになし!
私が100戸以上ある新興住宅地に住んでいた10数年の間に、お葬式は2・3回だったと記憶しています。

これじゃ近所付き合いもないし、若いもんがお葬式をどう切り盛りするのか学ぶこともできません。
よく家で死を迎えようとかいいますが、その前提条件がもうありませんよ。
単に家でなくなったとしても葬式は葬祭会館じゃ希望と違いますでしょう?
人間は社会的動物といいますが、もっとも身近な社会である隣組がありません。
子供の頃、味噌を借りてこいといわれて隣近所に行きました。
そんな気軽に行ったりきたりする近隣関係はないし、もはやコミュニティといえるものがないんです。
家内の実家は私より更に田舎です。
家内の家に泊まった時、外で狐の鳴き声がしました。イノシシがよる畑を荒らしました。
当時、家内の実家には鍵がありませんでした。
ドロボウが入るはずがない、と信じていたのです。
そして実際に当時は泥棒はいませんでした。
今は違います。義理の弟はしっかり戸締りをしております。
外国人のヒットアンドラン犯罪だって多いんです。困ったことです。
そんな昔じゃありません。
たかだか30年前ですよ。


昔は子供は学校を出ると働くものと相場が決まっていました。
『そうか、○○さんちの誰それも高校を出て仕事についたか、○○さんも安心だな』なんて会話がありました。

今は学校を出ても働くとは限らないようです。
希望する仕事がないとか言って家でごろごろしている若い者もいます。

昔はこんなものよ わたしのような古い人間は子供は遊ぶ、成年は働く、年寄りは孫の守りをするという『ちびまるこ』の世界観が染み付いているようです。

人間は型にはめられた人生を送るべきじゃありません。
それは確信しています。
しかし、それならば確固たる個人を確立すべきでしょうね、
親のすねをかじりながら自分の好きな生き方を考えるというのはいささか賛成しがたいですね。

真に自分の人生を歩むなら、すべてを自分が決定し、誰にも頼らず生きて行ってほしいもの。

そう言えば、権利!権利と叫ぶ方々は義務!義務!とは叫ばないようですが、いかがなものでしょうか?





本日の老人のくりごとは


時代は変わります、
昔は良かったなんていっちゃいけません。
でも、守るべきもの、残すべきものは残そうじゃありませんか

個人主義でいくのなら個人主義を貫きましょうや、





どこにでもある人生 PART2 2002.06.23
わしの若いときは・・・ 歳をとると昔のことを話したくなるんでしょうな・・
人の老化は生まれてからの年月ではなくて、昔話の頻度によって図れるようです。
最近、おもしろい『単位の本』がありましたが、それに引っ掛けると

人の老化の単位は『Wasi』であらわす。
1Wasi=一日一回、わしの若いときはということを表す。
てのはどうでしょうか?

そうしますと、私は毎日5回くらい言っておりますので、「5Wasi」ということになります。
多分10Wasiくらいになると完全な年寄りということになるのでは?

馬鹿なことを言ってちゃいけません。
今日は結婚式の話をしたいと思います。
  ボケているので最後までたどり着くのか心もとないのですが・・・・

私の記憶では子供の頃、結婚式といえば自宅でしたような気がします。
田舎で結婚式場なんてのができたのは昭和50年頃じゃないでしょうか?
 それまでは一般庶民は自宅で、お金のある人は旅館でというのが通例でした。

子供にとっては結婚式なんて、親が珍しくネクタイをして、パーマ屋でおめかしをしていくだけであまり縁のある代物じゃありません。
夕方、親がおいしくもない引き物を持ってくるだけのことです。
  尾頭付きの鯛が何で貴重なのか分かりませんでした。
    今でもですけど・・・・

当時はこんなのありません 私が始めて出席したのは姉の結婚式でした。
お婿さんの自宅で結婚式も披露宴もしました。
結婚式といっても神主もいなければ、巫女さんもなし、
親類のおじいさんがなんだとかかんだとブツブツ言って三々九度の杯を新郎新婦だけでなく、親兄弟を全部まわして固めの杯をしておしまい。
その後、そのまま真夜中まで飲み食いというコースでした。

相手の家は百姓屋で部屋のふすまを全部はずして近所から借り集めた座布団とお膳をびっしりと並べるわけです。
お膳もきれいに並ぶわけじゃなく、10個くらいまっすぐに並んでいると柱にぶつかり、そこから横に曲がり、たたきにぶつかるとまた曲がってと、まったく笑い話のような風景です。
  もう足の踏み場もない。
私は高校を出てまもなくの頃で、年配の人からめったやたらと酒を注がれる、とにかく飲んで食って飲みまくるわけですよ。
『ハイ、時間です。次の披露宴の準備になりますので・・』なんていわれることはありません。
逃げ場はなく、もうただ飲みまくるしかない!
まあ、とんでもないもんだという感じをしましたね、


その後たくさんの結婚式に参列しました。
私をかわいがってくれた兄貴のような先輩の披露宴は、会社の近所にあったよく出前を取っていた食堂の2階でした。
いまじゃそんなところで結婚式をする人はいないでしょうね?
でも当時我々は結構いいところでやるもんだと思いました。

そのほかに公民館とかも多かったですね。
板張りに座布団をしいて、新郎のオヤジさんがアルマイトのやかんにかんをした酒を入れて来客に注いで回ってました。
良かったですね、雰囲気が、

私は農協の集会所で結婚式と披露宴をしました。
あれから30年、今でもその建物が残っていますが、とても小さく粗末な建物で、よくここで結婚式をしたんだと感心してしまうようなところです。
当時、自分の収入から考えて身分相応な場所として選びました。
ひとつ自慢させてもらいますが、私が親にお世話になったのは高校出るまでの養育と教育だけです。
結婚、結婚式、新婚旅行すべてそれに親が結婚式に乗ってきた来たタクシー代も私が出しました。

最近はかっこいいですね

その後、後輩や部下の結婚式となりますと、いわゆる結婚式場というところで催すようになりました。
新郎新婦がゴンドラに乗ったり、人力車で入ってきたり、まあ遊園地のようであります。
それと笑っちゃうのは子供のときからの出来事をプロジェクタなんかでやりますよね、
『お父さんお母さん、お世話になりました。』って
   う〜ん、あれってコメントしようありませんな、
   わたくし恥ずかしいです(^^)

しかし、最近は結婚式にはトント縁がありません。
自分の兄弟、義理の兄弟、いとこみんな結婚しちゃいました。
同級生も右に同じ、

私の子供、甥、姪が結婚する時期が来るまであと数年はめったに結婚式参加はなさそうです。


どんな時代でも、結婚は新しい誕生のようなもの、思い出に残り幸せにあふれていることを祈ります。

なんと今日はまともに収まってしまいました。
やはり老化現象は否めませんね。






どこにでもある人生 PART3 2002.06.26
犯罪は今と昔どちらが多かったのでしょうか?
少年犯罪はどうだったのでしょうか?

そりゃ統計を見ればすぐ分かるでしょうが、案外犯罪の統計も当てになりません。

時代や土地によって、どこまでが許容範囲かどこからを犯罪として扱うか、地域社会で矯正しようとするか異なるからです。

私が子供の頃、小学生高学年のころですね、まず、食うものがなかったですね。
腕白も優等生も腹が減っていたので畑の作物を盗むというのは日常生活みたいなもんでした。
もちろん高い作物があるわけじゃなし、せいぜいがジャガイモを掘って焚き火して食ったという程度です。
ジャガイモの焼き芋というのを食ったことありますか?
サツマイモじゃないし、電子レンジがあるわけじゃないですから生煮えで食えたもんじゃありません。でも当時はとにかく手当たりしだいかっぱらっては食ってましたね。
腹が減ってましたから。
こずかいなんかありません 夏はきゅうりとかトマトですね、 今じゃきゅうりトマトを食べたいという子供はいないでしょうが、私たちにとっておいしいおやつでした。
手に塩を持って、きゅうりを盗って塩を付けて食べるというのが夏休みの日課でした。

そのほか、柿ドロボウもよくやりました。
マンガサザエさんでかつおが柿ドロボウをすることがありますが、今の子供は意味が理解できないでしょうね、
今じゃ柿を取ろうとする人は誰もおらずどこの家の柿木も秋になり、冬になっても柿の実がついていてカラスが突くくらいです。
干し柿も盗みました。当時は干し柿をむいた皮も食べるために干しているんです。この皮も盗みましたね。
甘いものを食べたいという欲求がありました。チョコレートなんか年に何回食べるかという時代です。
まあ、盗むといっても畑の作物がほとんどで人の家の中まで入って物を取るというのはめったにありませんでした。
といっても私の幼なじみは病膏肓にいってとうとう本格的泥棒になり長い間刑務所に入っていました。
   今どうしているんでしょう?

農家も盗られては大変だからそういう子供を見つければ捕まえて学校の先生に突き出すというのが多かったですね。
学校の先生もまたか!とう感じでチョビットおどして返すというのが普通でした。
警察沙汰までなったのはほとんどないですね。
まあ、盗むほうも、盗まれるほうも貧乏だったので金額のたかが知れてました。

もちろん『私は清く正しかった』なんては申しません。必死こいてかっぱらっては食べてました。

今の時代、万引きは多いですね。
昔に比べてどうかと聞かれても、これは分かりません。
まず、昔はスーパーがありません。
ですから店で客が品物を手にしてレジに持っていくという形態がありません。
食品であろうと、おもちゃであろうと店の人が客に品物を渡すという形がほとんどでした。
だから今ほど万引きは多いはずはありません。
でもこれはクレジットカードがない時代にカード犯罪がないというのと同じ理屈で犯罪が少なかったというのとは違います。

みんな貧乏だったのよ それと昔は物の所有権というのを厳密に主張しなかったと思います。
七夕になると近くの竹やぶに行って人の竹を切ってもそこの人が文句を言うなんてことはありませんでした。
まあ、これも地域性というのが多分にありそうです。
山菜取りが大変なはやっているそうですが、
関西から東北に転勤になってきた私の知人が言っておりました。
『東北はいい、人の山に入って山菜取りをしても文句を言われない。』
だって山菜が当たり前のところじゃそんなもん食べませんよ、

子供の頃、ゆりの球根を掘って市場にもって行きましたが、自分で食べたことはありません。
食ってうまいもんじゃなく、市場で金になるなら売ったほうがいいでしょ?

しかし、価値観が今と相当違ったと思います。
今から40年前、中学生、高校生の憧れは自分の稼ぎで暮らすということでした。
都会に就職した学校の先輩が盆とか正月に帰ってきて、背広を着て、タバコを吸い、いろいろなもの たとえばカメラとか気の利いたバッグとか持っているのが当時の田舎の少年にとって憧れであったのです。
ちなみに私は就職してから1年間、学生服を着て通勤していました。
背広なんか買う金もなく、まわりも学生服でおかしいと思うこともなかったのです。
純朴だったのですね〜
(^^)
タバコを吸うのは不良だとか言う以前に昔の田舎の子供がタバコを買う金を持っているわけがありません。
とにかく誰も現金を持っていなかった。

私が高校生のときこずかいが月500円くらいでした。そして通学時に持っているのは万一汽車に乗り遅れた時に備えてバス賃40円でした。
喫茶店にも無縁、マックなんかなし(マックは私が社会人になったずっと後、昭和46年開業だそうです)
ケータイもなければ、ゲーム機もなし、当時100円以下だったヘッセなんかの文庫本を読むのが至上の楽しみでした。

高校で同級生がボウリングに行ったというので皆がいったいどんなものか輪になって聞いたものです。

話に取り留めありませんが、
まあ物がなく、金がないところに犯罪はないと思います。
緊急避難的に人のものを食べちゃうとかいうのは犯罪とは違うでしょう?
ジャンバルジャンのように食べたいから盗るというのは犯罪とはカテゴリーが違うような気がします。

豊かな社会だからこそ、欲望が増殖し、それを短絡的に満たそうとするのが犯罪だと思います。
すると犯罪は大量消費社会の生み出した悪なのだろうか?
 なんて大げさなこといっちゃ笑われます。

今の子供たちがあの当時のもので満足できるはずがありませんし、昔に戻ることがよいとは思いません。
ただ、今の子供は本当に欲しいものを手にしているんじゃなく、横並びで欲しがり、手に入れようとしているだけじゃないかという気がしますね。



それは欲しいものが手に入らないのと同様に、
幸福とは程遠いのではないでしょうか?







どこにでもある人生 PART4 2002.06.28
お使いのお駄賃
PART3に引き続き、
欲望とは見たこと、食べたことがないものには生じないと思います。

子供のとき、親戚の家に荷物を持って行ってお駄賃にきなこをちり紙にくるんでもらったことがあります。
きなこ、わかりますか?くず団子なんかに付ける粉です。
帰り道、きな粉をなめてきたもんです。
お菓子、チョコレートなんかもらったことありません。
   そういう高級なものには縁がありませんでした。

マンガに子供が『どら焼きを食べたい』というシーンがありましたが、なんでどら焼きを欲しがるのか理解できませんでした。
だって、どら焼きを食べたことがないのに欲しがるはずがありません。
バナナもパインも食べたことなし、
チョコレートだけは遠足のとき買ってもらえるので食べたいものの中にありました。
アイスクリームなんて上品なものではなく、氷小豆とかいって砂糖水に箸を入れて凍らせたものを食べてました。
衛生状態が悪くて、学校の医者は食べちゃいかんと言ってましたし、実際、毎年疫痢、赤痢になる同級生がいましたね、
でも夏、安く食べられるのはこれくらいしかありませんでした。

子供の頃、小学生の頃でしょうか?姉がテレビというものがあるのだといいました。
それはラジオのようだが、映画のように絵を写すのだそうです。
私はいかなるものか想像できませんでした。

高学年になったとき、近所の地主の家に電気屋が時々テレビというものを持ってきて、近くの人を集めて映写会を催しました。
地主というと昔風ですが、私たちの住んでいた引揚者の住宅はこの方の地所に建っていました。
その二代目が放蕩息子で働かず、土地をどんどん手放してしまいました。
次男は働き者で、百姓をして私たちの家から肥え汲みをし、結婚もせずに兄を嘆いていました。
もう二三十年前に一家そろってどこかに行ってしまいました。
今生きていれば80近いでしょうか?
どうされているでしょう?

さて、私ども田舎人かつ貧乏人はそこで始めてテレビジョンたるものを拝見したわけです。
最初に見たのがプロ野球、巨人中日戦でその試合は4対ゼロで中日が勝ちました。
少年雑誌でみてすごく強いと思っていた巨人軍とはこんなもんだったのか!という感じでしたね、
その刷り込みのせいか、今だに巨人が好きになれません。

私の家でテレビを買ったのはだいぶ遅く、1965年頃でした。
それまで友達と話が合わないことが多かったです。
当時『ザ・ガードマン』で宇津井健がキャップと呼ばれ、梓みちよと関口ヒロシが『結婚の条件』なんてドラマやってた記憶があります。

話が逸れっぱなしですが・・・
テレビによって人々はいろいろなものを見聞きすることができるようになりました。
ニュース番組では人が読み上げるだけでなく、事件現場を写しました。
犯人はこんな人相なんだ!ということがビジブルにで分かるわけです。
これはすごいことですよ!

ソ連を、東ヨーロッパを崩壊させたのは軍備じゃなくて衛星放送とか言われてますが、完全な情報管理下にあれば今でも共産圏は健在だったでしょうね。
韓国が日本の歌を禁止とか(つい最近解禁したとも聞きますが)本の輸入制限とかしていますが、これは日本文化の侵入を防ぐために他なりません。
戦後50年日本がこれだけアメリカ文化の影響を受けていながら現状であるということは見方によればいかに日本文化が強力だということです。
固有文化がやわだったらとっくにアメリカナイズが形、服装だけでなく、言葉、思考まで浸透してたでしょう。
日本人が英語が下手だということは英語を使わなくても不自由しないということです。
英語教育がどうとかいってますが、真の原因は英語が不要だからです(断言)
韓国が日本映画、本、歌、ファッションの無制限の攻勢を受けたらひとたまりもなくジャパナイズ(日本化)してしまうでしょう。

   あっ、また話が逸れた、(ボケがひどいです)

テレビによって、日本人は現実に見たことがないもの、食べたことがないもの、使ったことがないものに対して欲望をもったわけですね、
テレビは資本主義の申し子だったのだ!
実際、高度成長はテレビと共にありました。

情報伝達ということでは自由主義の申し子というべきかもしれません。
しかしそれは同時に、マスメディアは情報操作手段であるということです。
テレビというマスメディアは真の開放をもたらすのではなく、結局大衆操作の手段に過ぎないのでしょうか?
あるいはものを考えない人間を大量生産したつけが回ってきたのでしょうか?

欲望の伝道者テレビは結局、田舎できな粉をなめていた少年を真に豊かにはしてくれなかったようです。

ところで豊かさとは何でありましょう?
私は精神の問題だとは言いたくありません。
物でなく精神的な豊かさをとおっしゃる方は価値観が違うのでなく、例えとしていっているだけです。
本当に物を捨てて暮らす覚悟がなくてはそんなこと言っちゃいけません。
アメリカにいるでしょう、現在でも車を使わず、馬などだけで暮らしている人たちが、
そういったことを実践できなくて精神的な豊かさなんて言っちゃぼろが出ますよ、

私は豊かであるにはやはり物が必要だと思います。
『○○が欲しい』と感じるのはまっとうなことだと私は思うんですよ、
ただ物の価値を何で測るか、自分の人生を豊かにするためにどのような物を持つべきかということの教育というか躾というものができてないんじゃないかと感じます。
その対象物の価値をテレビのようなマスコミや口コミに頼るのではなく、自分の価値観で測ることを教えることが必要だということですね、
それは物に限らず、主義思想も同じ、
自分で考えることを教えないと子供は大人になれないのではと懸念します。

するってえと、先生が子供のままの現代日本では真の教育はできないのだろうか?

と次回に続きます。(^^)




どこにでもある人生 PART5 2002.07.08

都会に越してきてから、暇があればあちこち名所を訪ねております。
今まで行ったところをあげますと、

  以前申し上げましたが、靖国神社をはじめとして、
  浅草、
  帝釈天、
  皇居、二重橋と丸の内を見てきました。
  お台場、
  ユリカモメにも乗りました。
  なんとディズニーランドも行ったのですよ(^^)
  ゆくゆく東京タワー、都庁、明治神宮も制覇しようと企んでおります。

いや〜懐かしいのう
この日曜日は上野に行ってまいりました。
西郷さんの銅像を始めてみました。
実を言いまして、地図を見ながらいったのですが見つからないのです。
何度も行き来してやっとめぐり合いました。
木の陰にあったのと、周りに人だかりがしていると予想していたのに反して誰もいなかったせいです。
その後、不忍池というのも見てまいりました。
都会の真ん中にこのような池や林があるのはすばらしいですね、
ホームレスの方もたくさんいたようですが・・・・


さて、上野の北のほうに『駄菓子屋横丁』というのがありました。
実は駅の案内図を見まして、いそいそと出向いたのであります。
ご存知の方いらっしゃいますよね?

まあ、私のような年配者には面白かったですね。
子供の頃のまんまです。


そこでパッチンガムというのを見つけました。
ご存知ですか?
チューンガムの形をしたもので、引くと輪ゴムでパチンと指を叩かれるやつですよ。
まあ、たわいもない子供のおもちゃでありますが、、
実はこれには思い出があります。

では本日はチューインガムの思い出をば、

小学校の頃、小学○年生なんて本がありましたが、毎月なんて買ってもらえるわけありません。
  何せ貧乏でしたから、、
でもそれはどこも同じでしたので取り立ててどうこう言うものではありません。

まあ、年に数回、お正月だとか、お盆だとかに買ってもらえるわけですよ。
これじゃ、連載物なんて意味ありませんね(^^)
でも付録に紙製の模型とか季節ごとの遊びなどが入っておりましたので、それなりに楽しんだものです。

あるとき、付録にこのパッチンガムが入っていたのであります。
その説明書を読むと輪ゴムをかけてボール紙製でガムの包装紙に包まれたものを相手(犠牲者)に向けて出して取らせると書いてありました。
わたくし、この意味がぜんぜん理解できませんでした。

 なぜかって?

だって、それまでチューインガムを言うものを見たことも食べたこともありません。
チューインガムを、他人に差し出すと相手が『ありがとう』なんて一枚取り出すということも知らなかったわけであります。
断っておきますが、『ギブミーチョコレー』とか『ギブミー○○』なんて進駐軍を追い回していたのはアメリカ軍のいたところの子供たちです。
私のようにあまりにも田舎ですとアメリカ軍もいませんでした。
私の姉もチューインガムを知らず、その頃親戚か誰かに貰って、それを食べてしまいあきれられました。
そして、これは食べるんじゃなくて、口の中で噛むんだよといわれて、2個目は半日噛んでいてまたあきれられたそうです。
   (これはまったくの事実です)

遠い昔のお話であります。

駄菓子屋横丁でパッチンガムを見て、そんな子供の頃を思い出してしまいました。


豊かさがないところに貧しさはないとかいう言い回しがありましたよね?
欲しい物が手に入らないことが貧しいということでしょうか?

そのようなモノが存在するということを知らなければ貧しくないのでありましょうか?

いえいえ、そんな高尚な話ではありませんでした。
駄菓子屋横丁を歩いてきたというだけのお話であります。

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