初恋の人に会いに行った。
40年前、胸を躍らせてみたあの方、オードリーである。
ここしばらく、通勤の山手線の駅に、オードリー展のポスターがいたるところに貼ってあった。それを見て『おお!これは絶対見なくては』と心に誓った佐為少年であった。
1960年頃、私は田舎町に住んでいた。道路は舗装ではなく、家々の壁は板でトタン屋根、平屋がほとんどだった。あんな壁の家は、今では火災の危険とやらで禁止されているはずだ。
トタン屋根といっても今の長尺屋根とちがい50センチくらいのトタンをつないで貼るものだった。毎年一度は錆止めにコールタールを塗った。暑い時期にオヤジに屋根に上げられ刷毛で塗らされるのが辛かった。当時は瓦屋根というのは金持ちしか建てられないものだった。
そんな田舎町でも映画館はなんと4つもあった。ひとつは成人映画専門だったが、ほかの映画館はまともな映画を上映していた。そしてそのひとつは洋画専門の映画館だった。洋画イコールアメリカ映画という時代である。
街角にはところどころに映画のポスターを貼る看板があり、そこは私と世界をつなぐ窓あるいは
タイムトンネルだった。
だいぶ時代は下がるが、尾道を舞台にした映画『転校生』の一画面で街角に貼られている西部劇のポスターが日焼けして風に煽られている光景があった。まさにあんなふうな感じだった。
『転校生』の中学生、小林聡美ももうオバサンです


そこでは封切りから1年遅れの洋画を上映していた。でも私にとってはまさにオアシスであった。
西部劇ではジョンウェインもリチャードウィドマークも元気に馬を走らせていた。
クリントイーストウッドもスティーブマックーンもまだ現れてません。マカロニウェスタンが出る前のことでおおらかともいえるし、大味ともいえるウェスタンが次から次と製作され上映されていた。

でも私のお気に入りはやはり現代劇であった。映画を観て、アメリカではこんな生活をしているのか!お店はこんな形をしているのか!こんな朝飯を食べているのか!コーヒーってこんな所で飲むのか!ビキニって素敵だ!とはじめて知ることばかり、大いに勉強になった。
当時、アメリカはあこがれの的であったし、今に日本だってこんなふうに豊かになってやるぞという目標としてみていた。
そんな少年にとって、オードリーはまさに地上に降りた天使であった。素敵な人だと胸をときめかした佐為少年の瞳の中にはきっとハートマークがあったに違いない!
オードリーの美しさは次の三つだ、
- ひとつ、鎖骨の美しさ、
彼女のように鎖骨のところに水が溜まるほどくぼみがある人って少ない。
もっとも60年頃、日本の女性は鎖骨が見えるほどの首もとが広く開いた洋服を着ることはなかった。ヘップバーン展からの帰りの電車でも鎖骨が見えるほど首もとをだしている女性はほとんどいなかった。
- ひとつ、まゆの美しさ、
あの特徴ある「まゆ」を描けばオードリーであることのメッセージを送れるだろう。
- ひとつ、口の美しさ
彼女は口が大きい。きっとりんごをかじるのが得意だろう。

ローマの街を走った52年型べスパがあった。
へえ!こんなちいさなスクーターだったんだ!そいつにはウィンカーもスピードメーターもなかった。
オードリーが座った後ろのシートは文庫本二つ分くらいしかない。
彼女が後年、社会福祉に尽くしたとか、アフリカの恵まれない人々への使節となったとかあり、写真やビデオがあった。
正直言って私はそういったものに関心はない。私はスクリーンの中のオードリーに魅かれたのであって、私生活を含めた彼女のすべてに魅かれたわけではない。
(もちろん彼女は尊敬に値する女性なのだが)
『許されざるもの』で落馬して骨折して、流産してしまったという事実を知って、私は『許されざるもの』を別の見方で見るべきなのか? そうではなかろう。
観客はそういった背景に囚われずに自由に映画を見て楽しんでいいはずだ。
私は彼女の私生活なんてどうでもいい、
私が少年のときに素敵な笑顔を見せてくれただけでもう十分なのである。
しかし、ブンカムラは遠い、渋谷駅からあるいて数分なのだが、田舎者にとっては途中、テッシュ配りの若者と警官に二度道を聞いてやっとたどり着いた。そして帰る時も何かの勧誘をしていたオネーチャンに聞く羽目になった。
相方、都会に来て早や2年たちましたが、いまだ都会人になれません。
私にはオードリーよりたぬきが似合っているのでしょうか?
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帰りの電車で30年連れ添った家内を見て思いました。
ウ〜ン、オードリーよりはちと落ちるが、まあワシもグレゴリーペックよりは足が短いからしゃあないか!
本日はこれまで!
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