偉大な人がいつも偉大とは限らない。 名文句その3 2004.10.16
一度だけお便りを頂いた名文句シリーズでありますが、その後反響はありません。
でも私はめげません。  本日もリベンジを期してその3

さて、本日は人の評価についてである。
昔々、1970年頃、保守党のある政治家がその政策についてメディア、世論からメタクタに言われたことがある。寄る年波でその政策の内容については忘れてしまったが、巨人軍の前オーナー以上に批判をあびたという記憶はある。
そのときこんなことを言った女流小説家がいたことを覚えている。
「みなさん、彼を悪人のように言いますが、あの人だって、家ではやさしい夫であろうし、歯も磨くだろう」
あなたどう思います?
笑っちゃいませんか? 私は笑う

そのとき、その政治家は政策について批判され非難を浴びていたのであって、家庭内暴力や不潔さを糾弾されていたのではない。あまり批判を受けたことに対して擁護しようとしたのだろうが、まったくの勘違いというか、己の愚かさを暴露してしまったのである。

人は多様な側面を持っている。配偶者との関係、子供との関係、親との関係、親族との関係、近隣社会との関係、会社勤め先での関係、卒業した学校あるいは同窓生との関係などなど、
ある人が、何事かにおいて批判されても、それ以外の側面においても評価を下げるとか断罪されるということはない。 自動車事故を起こしても名優であることを否定されることはないし、株で大損しても名投手であることは間違いない事実なのだ。
これはたとえ話であって、そのような人が現実にいるかどうかは知りません。

そしてもちろん、俳優が演技がへたならば批判され、投手が打たれればブーイングを受けるのは当然です。
そしてまた、いかなる人も己のしたことについて責任を問われるのであって、犯罪者の縁者であってもそれゆえに差別や批判を受けることはない。
旧約聖書には「親がすっぱいぶどうを食べても子の歯が浮くことはない」と書いてあります。私もそれが正しいような気がいたします。
もっともお隣韓国では祖先が日本統治時代に日本に協力していると子々孫々まで災いが訪れるようだ。
韓国は個人主義とは正反対の世界なのだろう。 あっつ、言うまでもなかった。 
小泉と管直人を比べた時、政治家の能力をみたとき、男性の魅力として、首相として、正直さをはかったとき、ひとりの日本人として見たとき、それぞれの評価は異なるのである。
koizumi.gif 年金問題で党首を追われ暇になってお遍路さんを実践した管直人は古来の日本人の感性を持っていることを示そうとしたが、それはおばかさんを騙せる戦術かもしれないが、真の政治家であることを立証する行為ではない。
真に日本を背負って立つ政治家であることを示そうとするならば、年金問題の総括としてなぜ自分は誤ったのか? 今後はそのようなことを起こさないということを国民に示すことしか方法はないのだ。
謝っても誤ったことは消し去ることはできない。
私はまじめに語ろうとしてもふまじめを隠すことはできない 

いかなる政治家もその評価は不倫とかお妾さんがいたことではなく、容貌いかんではなく、そのビジョンの豊かさ、プランの実現性と魅力、そして実行力で測られ、そして実績で評価されなければならない。
もちろん出張旅費の二重取りとか収賄あるいは学歴詐称というのは犯罪であって政治家でなくとも糾弾され断罪されるべき事柄である。
どこかの県知事とか民主党国会議員にそのような方がいましたね。速やかに出処進退を決めないとは恥ずべき者だ。

しかしなんだね、学歴詐称をしぶとく寝技で持ちこたえようとした元民主党議員がいたが、まさか「偉大でない人でもいつかは偉大かもしれない」なんていわないだろうね?
そういうことを考えめぐらすと「偉大な人がいつも偉大とは限らない」というのは真実のようだ。
実は、この言葉は多くの人物が語っている。
毛沢東も語った。大野伴睦(おおのばんぼく)も言った。そしてサヨクの大物、小田実も語っている。

革命後の中国から来た言葉で反面教師というのがある。どんな人物でも他山の石となるくらいの値打ちはあるということだ。
    この私はインターネットの世界で反面教師とならんとして日々努力しております。
  • あの程度のコンテンツでウェブサイト(ホームページ)を開設しているのだからオレにもできるだろう。
  • 「日本人よ」には間違ったことが多いから、私も気にしないですむわ 
  • アクセスが少なくともすごいホームページのような顔をしているんだから、私も大丈夫ね


あまり語るとぼろが出てきます。
本日のまとめです。

「偉大な人がいつも偉大とは限らない」とは真実のようです。そして真実とは独裁者が語ろうと、左翼が語ろうと変わりません。
 であれば、
私たちは出典や発言者でもって判断してはならず、常に発言や主張をじっくりと聞き考えて判断しなければならないということです。
「あの人が言うなら間違いない」なんてのはまちがいです。
KABU先生もたまには間違えるかもしれない




本日はこれまで!