日常富士山を見なくなったことにより、今では富士山に持つ思いは私たちが子供の頃の思いとは違っているのはまちがいない。今の小学生に富士山の絵を見せても日本のシンボルとは思わないだろう。富士山を見かけなくなったのと国旗国歌をないがしろにするようになったのは相関があるのか?
それとも富士山が見えなくなったのと同様に高度成長と共に進展した個人主義の結果なのか?
- 最後に桜だが、
まず昔に比べて桜の木が少なくなった。私が子供の頃桜の木というのはどこにでもあった。入学してすぐに校庭にも通学路にも桜の花が咲き、その後まもなく花吹雪の下を歩いたものだ。そういう環境下では日本のシンボルというより以前に年中行事の一環として 春−桜−新入学−新しい暮らし という関連付けが刷り込まれてしまう。
おっと、論点は日本人に共通なものは何であるかであった。
私の同志のウェブサイトには教育勅語をアップしている方もいる。教育勅語が語っているのは人間の道の理想であると考えている人もいる。
もちろん教育勅語こそ諸悪の根源と信じて論じている人々もいるわけで、これまた人さまざまである。
実は私は教育勅語が理想であるとは考えているわけではない。
考えるのだが靖国を貶める自虐史観、靖国を奉じる愛国者、どちらも同じ価値観ではないのだろうか?
結局、右左に共通する「日本の価値観は国境を越えては通用しない」ということです。
自分が尽くせば相手が応えてくれるのは対馬まで、琉球列島までではないかと思っています。
大陸には大陸の価値観があり、朝鮮半島には朝鮮半島の価値観がある。謝罪とか賠償という言葉の意味さえお互いに異なりだから永遠に理解することはできないのではないでしょうか?
朝たたきの投稿にありました、
日本の謝罪は「過去のことは水に流して友好を深めましょう」と言う意味があるが大陸の謝罪は「何でもします。私財も渡します。奴隷にもなります。だから命だけは助けてください」ということだ。
日本は何度も謝罪しているのに中国人とはしつっこい連中だと思い、中国側からすれば日本は中国の言うことを聞かないのだからまだ謝罪していないことになる。
キプリングの
「東は東、西は西」というのは西洋と東洋のことだけではなく、日本と朝鮮、日本と中国にも通用するのです。
教育勅語はいいけれどそれは国内でのみ通用する価値観であると理解していないと、異なった価値観を持った人とは話し合いができません。同様に自虐史観を信奉している人々は、中国人も韓国人も日本人同様に胸襟を開けば分かり合えると信じているようですから、その考え方はやはり教育勅語派と同じなのです。
話せば分かるのは共通な価値観を持っている人の間でしかないのです。
多分、自虐史観の人々はまだやけどをするまでこの日本を動かしていないのです。日本が今以上に自虐史観サイドに振れて中国・朝鮮に今以上に貢ぐようになれば日本はもはや立ち直れないのではないだろうか?
貢ぐとは金だけじゃなく、国際政治の主導権、歌や映画の文化、価値観そのものもあるでしょう。
今以上に中国や朝鮮の影響が大きくなりその価値観が持ち込まれれば、国家としての日本があっても文化としての日本は滅びるのではないかと思います。
幸い今現在は右も左もまだ日本人の考え方、価値観を共有しているのではないだろうか?
日本人とは結局この価値観・文化を受け継いでいることがすべてであり、中国の価値観、あるいは聖書の契約社会の文化に染まってしまったらもはや日本人ではないのではないだろうか?
話があちこちに飛んでとりとめがありません。
建国記念の日、ゴロゴロ寝転がり窓から曇天を眺めながらそんなことを考えておりました。
ところでこの拙文のタイトルは書き出しのフレ−ズそのものですが、旧約聖書の表題はもともと各章の書き出しのフレーズだったそうです。
それを真似したわけではありませんが、なんとつけようかと迷いまして、マア、そんなわけです。
さて本日の結論ですが、
結論はありません。