地図の話 2004.03.07

どこでも見かける路線図です えー、本日は地図のお話であります。
でもなにしろおばQの頭脳ですから、メルカトール図法とかボンヌ図法なんてことではありません。
せいぜいが電車の路線図とか、バスの路線図程度でございます。
私が田舎の出身で半世紀以上田舎に住んできたことは毎度申し上げております。
田舎には地下鉄も電車もありません。
地下鉄もモノレールもないところを田舎というのでしょうか? 

そうしますと、当然メインの交通機関は自動車です。
これがないと生きていけない 通勤するには車、買い物するにも車、幼稚園の送り迎えも車、郵便を出すにも車(信じられないかもしれませんが本当です)、銀行に行くのも車、仕事も車、大学生は通学も車(片道50キロくらいあるのです)、このようなところでは運転免許を持っていないと生きていくことができません。
まさしく免許皆伝でないと仕官も就職もならないのであります。・・・冗談です、笑ってください。
日本で一番アメリカに近いところは田舎です。
車が必須、広い家と広い庭、少ない人口、買い物は遠くまで行かないとお店がない、言葉は英語だし右側通行だし・・・なわけはないか 
車の暮らしをしていますと、それなりの感覚が身に付くといいますか車の感覚に染まってしまうのです。
具体的にどんなことかといいますと、まず時刻というものにこだわりません。自分が運転するのですからいつでも出かけることができます。残業していても「仕事が一段落したから帰るか」ということはあっても「何時になったから帰ろう」という発想はありません。
離れたところに買い物に行くことにも抵抗がありません。大根を買いに行くのに10分車を飛ばすのですから、CDを買いに20分ドライブすることに抵抗はありません。
気をつけないといけないのは渋滞と駐車場ですが、まあ、田舎ではなにかイベントでもなければそういうことに困ることはめったにありません。
都会に来て駐車料金を取るスーパーがあるのに驚きました。
そして一番重要なことは土地勘といいますか出発点、目的地、途中の道路の位置関係が分からないと動けません。黙っていても居眠りしていても目的地に着くということはないのです。この道路はどこにつながるのか、他の道路との相対関係、交差点の位置などを飲み込んでおかないと運転できません。だから日常運転している人は地図が頭の中に入っています。というか田舎では正確な地理を知らないと生活していくことができません。
「通り・street」という概念が日本と外国(アメリカばかりじゃなくタイなどでも同じです)では異なることをご存知でしょうか?
日本で青山通りといっても、それは所番地とか行政単位(コミュニティ)と結びつきません。道路は青山通りでも住所は港区赤坂8丁目・・・となる場合もあります。通り名と行政単位が異なるのです。
タイではひとつの道が交差点を過ぎると名前が変ります。まっすぐな道が交差点を過ぎると「スクンビット通り」から「ラマ1世通り」になるのです。同じ道をさらに歩けばまた道の名前が変ります。それを見て論理的じゃないといった同僚がいましたが、ちょっと違うのではないでしょうか?スクンビットとは単なる道路を言うのではなく、その道の左右に広がる街を意味するわけです。通りの名前と住所とコミュニティ感覚が同一なのです。

ちなみにスクンビット界隈には日本人が多いことで有名です。この道路はまたものすごい交通量でして、始めてタイに行ったときは横断するのが怖くてみんなと一緒でないと渡れませんでした。数年前クイーンズパークのところに歩道橋ができました。

人間の考えとして赤坂何丁目に行こうとすれば赤坂通りを探すのが普通で、青山通りを行くと考えるのは直感的ではないような気がします。
一方、都会では車という移動手段はまさに無用の長物となります。どこに行っても渋滞と駐車場難に巡り会え、都会人は幸せです。
しかしなんですね、丸ビルや東京駅に車で来る方の神経が理解できません。ましてその駐車料金たるや! 軽自動車で来たのでは車の値段より駐車料金のほうが高くなるのではないですか?
私のような田舎者は渋滞に巻き込まれたり駐車場の空き待ちをするとじんましんが出てしまいます。
まあ、ほとんどの人は電車(JR・私鉄・地下鉄)あるいはモノレール、路線バス、場合によっては水上バスといった公共交通機関を利用するわけです。これですと車内の混雑はともかく、駐車場もいらず、運行時刻もほぼダイヤとおり、料金もリーゾナブルで便利なものです。


おっと地図のお話でした。
私はいまだ田舎者の感覚が抜けておりません。いえ、かっこよく車感覚といいましょう。
アメリカに一番近い日本は田舎です 車の感覚ですからどこかに出かけようとすると、まず地図を見るわけです。そして出発地と目的地の相互関係、すなわち北北東の方向で距離16キロの地点にあるということを知り、そこに行くにはどういう道筋で行けばいいのか?という思考過程を踏むわけです。
一方、電車感覚いえ都会感覚の人ですと、方位も距離も知ろうともしません。目的地の最寄り駅はどこか?この地の最寄り駅はどこだからどういう乗換えで行けば一番早いのか、という発想になるわけです。電車に乗っている時間が10分でも20分でもあまり気にしないようです。車では10分と20分の違いを無視しては目的地にたどり着けません。
これって大した違いはないようですが、きわめて大きな違いなのです。
要するに目的地に到達するためには、相互の位置関係などよりも、最寄り駅が何か?ということが最大関心ごととなるわけです。
しかしたとえが悪いかもしれませんが、万一大地震などがおきて交通機関がマヒしたときに自宅まで帰ろうとして、都会感覚では最短コースを選ぶことができませんよ、
やはり地球上の位置関係を把握しておかないといけないような気がします。
そんなわけで私は東京近郊路線図というトポロジー的には正しくとも、地球上での相対的位置関係がでたらめなものを利用しようとする気がいまだにしないのです。
えー、実はこれってたいそうなお話ではないのです。
いつも仕事で出張とか外出するとき、目的の会社がどこかを住所と地図で調べた後、「オイ、○○区○○町に行くにはどうするんだ?」と尋ねる私に、業を煮やした同僚から「これを買え」と714円という高額な都内の路線が書かれた本を買うことをせまられており、そのうっぷんを書いているだけでございます。

新宿御苑
試してみてください。
新宿御苑に行こうとして、あなたのいる所からの方角と距離を調べる人は田舎者、新宿御苑の最寄り駅を探す人は都会人です。
田舎者が都会に出てくると道に迷い、都会人が田舎に来ると最寄り駅がないことに戸惑うでしょう。
お互いに不自由なものですね、


本日のとりあえずの教訓


平和主義の人は、日本国憲法前文の世界が存在すると信じて、日本人が侵略しなければ戦争は起きないと考えています。
現実主義者は新聞で東南アジア、中近東、南米などの出来事を読んでて、日本人に関係なく戦争が起きると考えています。



おっと、どちらが正しいか? なんてことは自分で考えてください。 
都会感覚と田舎感覚の違いより大問題のような気がします。



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日本国憲法前文より

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
北朝鮮!誘拐した人を返せ 中国!内政干渉止めろ 諸国民の公正を信義を信じる人はいるのか?


私は中国・韓国・北朝鮮政府の信義を疑うわ!