位相の違い 2004.06.26
昔、読んだSF小説に次のようなシチュエーションがあった。
その小説では人間を小型化する技術ができて、社会のいろいろな面で小型化した人間が活躍していた。そしてもちろん数センチになった人間は見えない戦争にも参画していた。その小型化した兵士の数人がマッチほど木々で焚き火をして暖をとっていた。
これを読んで、何か感じますか?
小型化すれば、資源が有効に活用できる。地球環境問題は一挙に解決だ。
そういえば昔、外人のペンネームの日本人はもろに人口対策として人間を小型化する小説を書いていた。
あるいは数年前アメリカの子供向け映画で小さくなった子どもが自宅の庭で命がけのサバイバルゲームをする話があった。
batta.gif
人間が小さくなれば、体重あたりものすごい力を出すことになり、人体のバランスが変わらなくてはおかしい?という発想もあるでしょう。
昆虫やくもによる恐怖・・・かまきりはまさに恐竜になるだろう。
かまきりのような肉食でなく、ばったのような草食動物でも大型トラックが歩道を走るのような感覚となるだろう・・・などなど、思い巡らすことは多い。
なことを考えることが一体役に立つのか?なんていわれるとちと返答に困る。
私の頭の中は思いつきとダジャレとバカ話しか詰まっておりませんので勘弁してください。
しかし、冒頭に上げたSF小説では焚き火に決定的ミスがある。
私たち子どものときは遠足とか旅行といえば焚き火なんてしたものだ。いまではダイオキシン・ダイオキシンと騒ぐのであまりやらないようだ。残念だね・・・焚き火をすると人間がまだ洞窟に住んでいた頃の記憶を呼び戻すのではないか?なんて考えているのだが。
焚き火というのは簡単でもないのだ。人が焚き火に手を当てて暖を取る程度の火加減を維持しようとするとまきの量は多すぎても少なすぎてもいけない。もちろん炊事の味付けのように厳密なものではないが。
サポーズ
 まきの量が通常の焚き火の半分になったら焚き火は維持できるか?
 まきの量が1割になったら焚き火は維持できるか?
 まきの量が1パーセントになったら焚き火は維持できるか?
実際に焚き火をすればよく分かる。マッチの軸を数本重ねても焚き火にはならない。あっという間に燃え尽きてしまう。
小説に描かれている小人となった人たちの焚き火は、まきの燃焼速度あるいは酸素濃度などが私たちのしている焚き火の条件では維持できるはずがない。
まあ、焚き火にこだわっても仕方ない。

ookiri3.gif ありは自分の体の8倍もの重さを持ち上げるという。 すごい!
ありさんが人間の大きさになったらどのくらいの重さを持ち上げるのだろうか? きっとクレーンなんていらないよね、なんてね 
答えは・・・自分の体も動かせないでした。
象さんの足が太いのも、鶴の足が細いのも同じ理屈、体重は体の大きさの3乗に比例する。

もっと続けようか?
模型飛行機を考えよう。
ゼロ戦は幅11m重さが約3.6トンだった。(もちろん形式はいろいろあるがとりあえず)これを100分の1の模型にすると幅11センチになるが重量はいくらか?
答えは簡単だ、3.6トンをグラムにして100で3回割ればいい。
zero.gif  3.6*1000*1000÷100÷100÷100=3.6グラムになる。
1円玉3枚半の重さでこの模型が作れるだろうか?
通常の金属モデルはこの大きさで約100グラムある。実物に換算すると重量100トンになる。ゼロ戦の内部まで亜鉛合金を詰めた重さになる。・・・アッ!当たり前か  

いったい、おばQジジイはなにを血迷っているのさ?
という疑問が聞こえてきそうだ。 
ものごとを見るときに似た形のものがあっても、単に大きさが違うだけということはないということだ。
原爆を作ることは簡単だ。一定量のウラン235を一箇所に集めれば・・・ドカン・・・となる。
それ以下では爆発しない。その限界を臨界点という。
会計だって、一定額の固定費があり変動費の傾きが与えられているとき、一定規模になると利益が出る。それ以下では利益は出ない。経営とはどのようにして売り上げを増やすか?いかにして固定費を下げるかということに尽きる。(そんなこというとじゃあお前やってみろといわれそうだが、それが非常に難しいことは言うまでもない)費用と売り上げが交差するところを損益分岐点という。
この点の右側が天国なら左側は地獄である。それを疑う方はおられないだろう。
男と女の間には〜♪ なんて歌があったが、この臨界点や損益分岐点はそんな違いではない。フェーズが違う。

ここまで書いてくれば、もういつものご訪問者は『アッ、いつものあれだな?』と思いつくでしょう。
そうなんです。 
世の中には大きさや位置づけによって、それを支配するルールが異なるのです。
親の養育を受けている子どもが守るべきルールと、一人前になった人の守るべきルールというのははっきり異なる。片方は刑法にて裁かれることなく、片方は社会的に一人前として裁かれる。
同様に個人の行動規範と、国家の行動規範は明らかに異なる。
子どものけんかをたとえにして、安全保障を語ってはいけないのだ。
なんてことを言わなくてはならないということ自体が、とんでもなく悲しいことなのだが。
個人と個人の間のトラブルは法が(というより国家というのが正しいのだろうが)裁定してくれる。
国家間のトラブルは誰が裁定してくれるのだろうか?
 国連!なんてボケを語らないでね、
イラク派遣のとき『国連決議があれば賛成する』といいながら、『多国籍軍』となるとまた反対する。不思議なことだ。自分の考えに正直に自衛隊は日本の領土から一歩も出さないと言えばよかったのではないか?
国連の敵は日本なのである。国連の費用はアメリカ以外の常任理事国の合計以上払っているのにね!
buntankin.gif
国連憲章 第53条第2項
 本条1項で用いる敵国という語は、第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国に適用される。

物事は身の回りの感覚で推し量れるものもあるが、まったく評価尺度が異なるものもある。
平和主義者の多くは国内治安の感覚で国際関係を論じている。
更には国内の治安といってもそれは日本のそれであって、世界標準がどの程度なのかを知って語っているわけではない。
なにせ、戦争後の治安の悪いところに行って犯罪者に誘拐されても、「兵士」「愛国者」と語っているのだから!
まさか日本で暴力団がらみに誘拐されて、誘拐犯を「兵士」とか「愛国者」と呼ぶバカはおるまい。


最近は日本の治安も悪化の一途である。そして外国人犯罪それも凶悪犯罪が増加している。
外国人犯罪が増えて、国民の安全が脅かされることは憂慮することではあるが、平和ボケが目を覚ますきっかけとなればまたその効果はあったといえるのだろうか?




本日はこれまで!