オンリーワン 2004.07.03
ちょっと前に、オンリーワンという言葉が流行った。
私の若い時代はオンリーユーだったのだが 
オンリーユーって最近のじゃない、1960年頃の話である。

オンリーワンとは「人間は多様であるはずで、一人一人の行き方はそれぞれであっていい」ということらしい。なるほどもっともなことで、異議を申し立てることはなさそうである。
しかし、と続くのだか、そういったことは本当に可能なのかと考えてしまう。あるいは人はみな違うものであるべきなのだろうか?

人間は皆同じである縛りはないが、どこまで人と異なっていいのか?どこまで多様性が許されるかということを考えてみると、
womankomatta.gif 学校に行くのが嫌いだから行かなくてもいいことにしよう、なんてことはできない。
人を殺すのは悪くないと考えて実行されても困る。
そこまで極端ではなくとも他人のものをとってもいいと考えるのは犯罪である。
犯罪でなくとも深夜大音量で音楽を聞くのも社会適合性に欠ける。
そういったことはこの世を生きていく約束事に反する。最低限の約束事を守らないとこの社会に受け入れられないのはやむをえない。それを自由の抑圧なんて言っちゃ困る。
それだけではない、人様に迷惑をかけないとしたうえで、次に自分のことは自分で処理するということができないと、これまたこの世の中からはじかれることはやむをえない。
ボランティアに生きようという崇高な志を持ちながら、親のすねをかじっている人を知っている。自立せずに他人を救うことができるのか?
イエス様、教えてください。 
ッ、イラクでボランティアをされていた方とは違う、私の身近な実在の人物でございます。
知り合いの子は自分をアーティストだと信じて田舎の駅前でギターを引いている。彼の将来はビートルズやプレスリーの栄光が待っているのだろうか?私には想像もつかないし予言できるわけはない。だが今の生活費は親が面倒見ているのは事実。
働くとは楽なことではない。ハウスの中で汗を流しながらキュウリを採ったり、稲刈りの重労働に耐え(田んぼの真ん中は機械でしても周囲は手作業になる)、子どものオムツを取替え、満員電車に揺られたり取引先と上司の板ばさみになり、汚い廃棄物を運び・・・というようなことが『働く』ということなのである。
働いて税金を納め、年金を納めてからでなければ・・・わたしゃ言論の自由や理想を追求する権利を認めませんよ。 

話はガラリと変わって、 まったくこのウェブサイトは話があちこち飛ぶのである。
私の話についていけない人は老化が始まっていると疑ったほうがよろしい。

製造業においてバラツキとは排除すべきものである。シグマとか標準偏差という言葉を知っていると思う。
2σ
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標準偏差なんて高校時代の算数で習ったはずだ。正規分布曲線とかベルカーブとかいうが、この曲線の山の幅を狭く高くするということがバラツキを少なくすることである。
もしあなたがシグマに縁がなければ製造業でないに違いない。機械加工、化学工業、電気部品などなど、いかなる分野においてもばらつきをなくし、均質性を追求する。それは互換性を高くするだけでなく製品性能を上げ、寿命を延ばすことにつながるからだ。
フォードグループの各国の車が比較されたとき、マツダ製が一番故障が少なかったと聞いた。その理由は多くの会社では部品加工や組み立てが公差内ならヨシとするのに対して、マツダでは公差内は当たり前であって中心寸法を狙っていることの違いだったという。
バラツキを小さくすることは最終的には総コストを低減する。
コスト低減とは会社が儲かるというだけの意味ではない。田口玄一先生を持ち出すまでもなく、製造、使用、廃棄までのトータルコストであり、生産者・利用者(消費者)そして社会の利益を増すことである。このような理由から工業化社会において大量生産は均質化、標準化を要求してきた。
ばらつきをなくし、均質なものを追求し生産してきたことは決して悪ではないのである。それこそが製造業の進歩でありコスト低減をもたらし、大量生産とその結果として大量消費を可能にしてきた。あなたが今現在の生活を享受できるのはそういった結果なのだ。

また話は変わるが、医薬分野において実験動物は均質であるように極めて厳重に管理されている。かわいそうなねずみどもは均質な集団でなければ実験の価値を無くしてしまう。昔、日本の学者が外国で発表した時に、実験動物が均質でなかったので笑われたということを読んだことがある。今現在、新薬実験のためのねずみどもは肝臓が悪いとかどういう形質を持っているとかいう個体を大量に作るという。そういった体質にさせられるねずみもかわいそうだが、そうする技術、育成する手間は大変なものだろう。
正直いって旋盤で精度良く削るより困難なような気がする。


さて本題に戻ろう、
人間は機械部品や実験動物ではない。またすべての人が同じ価値観を持つ必要もなく、多様な生き方が選択できるはずだ。
人間にはばらつきが許されるのである。
もちろんばらつきが許されるといっても正規分布曲線のある程度の範囲で制限されることはいうまでもない。そこにはやはり社会的コスト(負担あるいは犠牲)という条件があり、一定以上のばらつきを社会が許容できないからである。いかなる社会いかなる国家も国民の税金によって支えられており、投資対効果が国民の耐力を超えれば破綻するのは必定である。

つまり人間は一定範囲内であれば存在が許されるのであり、ばらつきを少なくすることを追求しなくても良いということなのだ。
具体例をあげると、一クラスあるいは学年全部がまったく同じ能力を持ち、同じ成績である必要はないが、進級・卒業するには一定レベルをクリアしないとならない。
これをさまざまな価値観があるのだから、その基準を満たさなくてもいいでしょう!というのは勘違いというより間違いである。
会社で同じ仕事をしていれば同じ賃金であるというのは労働契約の基本原則である。しかしみんな同じ能力を持てということではないし、誰でもいつでも取り替えても同じ成果を出せと要求しているわけでもない。そんなことは理想でもなく、そのようなことが実現するわけではない。雇用側が期待するのは一定レベルの仕事を達成することであり、達成できないのは困るということであって、それ以上のことではない。
社会が期待するのは、一人前になれば社会に貢献することであり、社会に寄生してはいけないということである。貢献といってもそれは多様な種類と手段があるだろうが、いずれにせよ支えることであって、ぶらさがることではないということだ。

さて、オンリーワンとは何か?
man7.gif 特定の個人は何かの分野においてトップとなることなのだろうか?
すべての個人は余人を持って代え難いものを持つべきだ(持つはずだ)ということなのだろうか?
あるいは人は皆、他人とは変っているというだけのことだろうか?
本当に人間はみなオンリーワンになれるのだろうか?
人は皆オンリーワンになる可能性と能力を持っているのだろうか?
昔、私は人間の能力は皆等しいと考えていた。
もちろん人間の能力にはさまざまなものがあり、運動能力、仕事、趣味・・・といってもこれまた多様なのだが音楽、囲碁、ゴルフ・・といってものを合計すると皆同じになるのだと考えていた。
信じていたのかもしれない。
しかし、半世紀以上生きていると、人間の能力の合計はやはり等しくないような感じがする。何事にも秀でている人は現実に存在する。人間の能力の総和はやはり等しくはなさそうだ。
もちろん能力の大小があっても等しく権利をもち尊敬される存在であることを否定しない。
と書いてきてハット気づいたのだが、いったいオンリーワンとはどういう意味なのだろう?
ナンバーワンでなくオンリーワンになろうなんてあるから、「並ぶものがない」とか「かけがえのないものになること」と思い込んでしまったのだが、よく考えるとそうとばかりとはいえない。
「ひとつしか能がない」という意味にも取れるし、「つまらないもの」という意味なのかもしれない。 「かたっぽだけ(つまりそろっていない)」という意味かもしれない。

更にさかのぼって考えれば、人はほかの誰でもないものになることを目指すべきなのか? 他人と違うものになろうとすることは他人と同じになろうとすることと同じく病的なことではないのだろうか?

私を振り返ると、両親、親戚、友人、先輩、上司、同僚から影響を受けて自分が意識的に受け入れたことや、無意識に染まったことの結果として今の自分があるのであって、オンリーワンになろうと考えたこともない。
自分の得意不得意がある上で努力をし経験を積んだ結果、今があるに過ぎない。社会に貢献しているなどと自信を持っているわけでもない。

そう考えてくると、「オンリーワンになろう」という言葉はナンバーワンになれなかったことの言い訳なのか?社会に適合できないものへのおべんちゃらなのか?という気がする。
人間が目指すのは、一番となることでもなく、他人と異なることでもなく、自分に自信が持てるものになることではないのか?

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我々はナンバーワンになる必要もなく、
オンリーワンになる必要もない。
自分自身であればよいのだ。




本日はこれまで!