聖書に手を載せ宣誓すれば真実を語ったことになるのか? 2004.12.23
表題が少し長いですが、これは大昔、偉大なる(?)田中角栄さんのロッキード事件の裁判でコーチャン氏が宣誓し証言したのは「誓ったのか否か」、その証言は「真実か否か」をめぐって、佐伯真光氏と山本七平氏の間で交された議論(ディベート)のテーマなのであります。
この議論は週刊誌に連載されて日本ディベートの祖、松本道弘氏が審判をしたという有名な <故事> であります。 あげくには後にこの議論が『ペンの陰謀』(本多勝一編集:潮出版社)で改ざんされて掲載されたという因縁つきのお話であります。
その結果、ディベートの必勝法は論理ではなく、捏造であるというオチとなってしまったようです。
興味のある方はインターネットで検索してください。関連情報がいろいろと見つかります。
実は最近読んだ本でこの昔の議論を見かけ思い出しましたので、今日はこれをねたにひとつ話を書こうかと思ったしだいです。もっとも、私がまじめに考えることができないのはいうまでもありません。「聖書に手を載せ宣誓すれば真実を語ったことになるのか?」なんて高尚でこ難しいテーマを考えますと知恵熱がでてしまいます。
ともかく、このようなテーマでは定義をそうとう吟味して、お互いに納得してからとりかからないと話がかみ合わないことは言うまでもありません。
さて「宣誓」ってなんでしょうか?
ふつう私たちが目にする「宣誓」といえばアメリカ大統領の就任式とかアメリカのテレビドラマの裁判のシーンくらいではないでしょうか? 私たち自身が日常実際に見たり、まして自分が宣誓という行為をすることはまずないでしょう。

「オレは宣誓したことがあるぞ!」 ですって
それって、市民体育祭の開会式ですか? 高校野球ですか? 

日本人の多くはキリスト教徒ではありません。ほとんどの方はどこかのお寺の檀家あるいは神社の氏子であるわけですが、その大部分の方は宗教あるいは信仰を自覚していないでしょう。まして誓うべきなにかを意識してもっているという方は非常に少ないのではないでしょうか?
bride.gif たとえば人生の一大事である結婚式をキリスト教徒の真似をして教会で挙げたとしても、そのときあなたは何者に対して永遠の愛を誓ったのかしら? もちろん神道の結婚式を挙げたとしても、誓を破ったときに、八百万の神に罰を受けるとか死後に地獄に堕ちるなどと考える方はいないでしょう。
昔田舎で私の姉が結婚した時は、親類のじいさんが新郎新婦の前で、「これからまじめに力をあわせてよい家庭を築け・・・」なんたらかんたらと語って三々九度の杯を交したものです。この形式の方が後々離婚にでもなったときには本来の意味の媒酌人であるこのじいさんから叱られるという直接的な怖さがあったかもしれません。
 どっちにしてもたいした変わりはないか?

裁判で証言する前に「真実を語ります」と誓ったとして、偽証罪を恐れたとしても・・・意味から考えると本当は偽証罰なのだろう・・・ウソをつくことの罪を認識しているとは思えない。
本当に神を信じていてその神に真実を語ると誓ってウソを語ったなら、裁きを受けるという認識を持つだろうけど、

実は、私はこの命題が正しいか否か論じる以前に、この宣誓という行為の位置づけ、とらえかたが逆ではないかと思うのです。つまり「聖書に手を載せ宣誓すれば真実を語ったことになる」のではなく、「真実を語っていると信じてもらうために聖書に手を載せ宣誓する」のではないのだろうか?
・・・信仰心厚い方なら、私の不信心な論理を許して欲しい・・・
言い方を換えれば、神を恐れる正直な人ならば「聖書に手を載せず、かつ宣誓をしなくても」常に真実を語るのではないだろうか?
えー、実はここまでは前振りに過ぎないのです。 man2.gif
先日書きました拙文で取り上げました、
国旗・国歌を忠誠を推し量る踏み絵とすることに抵抗を感じる。
国旗の前で起立し、国歌を歌う者が立派であると評価され、自分に正直に日の丸に敬意を表さず君が代を歌わない者が批判されるのはおかしい。
という論理を再度考えてみます。

ここでは「国旗国家に敬意を表せば忠誠を誓ったことになるのか?」ということが論じられています。
しかし、この議論をする前に「日本人は日本という国家に対して忠誠を誓う必要があるのか」ということが真か偽かという議論がなくてはなりません。
「日本人は日本という国家に対して忠誠を誓う必要がない」のであれば「国旗国家に敬意を表せば忠誠を誓ったことになるのか?」を議論する意味はありません。
さらに「日本人は国家に対して忠誠を誓う必要がある」という前提でのみ、「国旗国歌に敬意を表することが忠誠を推し量る踏み絵になるか否か」という議論があります。
外国の国旗・国歌に敬意を表すのは礼儀(渡世の義理)であるという理屈は除外します。
ここでは「国旗国歌に敬意を表することが国家に忠誠を誓うことか否か」を論じています。
要するに、国旗国歌論争というものの本質は「日本人は日本という国家に対して忠誠を誓う必要があるのか?」という議論ではないのでしょうか?
もちろん「私は国家に対して忠誠を誓わない」というお考えの方があっても不思議ではない。特に自分を地球市民とか世界市民と考えている人は日本という国家に忠誠は誓わないだろう。しかしながら、世界市民と自称する者は世界に対して忠誠を誓うのだろうか?

さらにさかのぼって「個人は所属する組織に対して忠誠を誓う必要があるのか?」という議論があります。
私は、いかなる者も己が属する集団に対して忠誠を誓うことが義務であろうと考えます。忠誠と言うと大げさかもしれませんが、要するにすべての関係はギブアンドテイクなのですから、所属するものから受ける恩恵に見合った貢献をしなければならないのは当然でしょう。神のご加護を期待して神を信じ捧げものをする、会社からもらう給与に見合って働く、上部組織のブランド・威力という恩恵があるからこそ上納金を納めるのではないでしょうか?
ただ、個人と国家の関係の場合は、例に挙げた俗世間の一般的な関係に加えて、更にもうひとつの条件が付け加わります。それは国民は国家を選択する余地がほとんどないということです。国籍を変えることは会社を替わるとか居住地を替わるというような簡単なものではありません。日本人として生まれたならば、日本という国籍を捨てるという選択肢はきわめてわずかな可能性しかありません。さらにまた移住して国籍が変わっても、どの国から来た人、○○系の人という見方(あるいは見られ方)からは決して避けられません。そういった事情によって国民と国家の相互関係はきわめて強固なものとなります。
そうしますと個人がいかなる主義思想であっても、自身が属する国家に対して忠誠を誓うことは当然であるという命題は真であろうと思います。
共産主義だから日本に忠誠を誓わないという選択肢は許されないのです。共産主義であり、かつ愛国者であることはまったく矛盾しないことであり、日本の内側から改革するという行動をとるのが正攻法なのです。

もし「忠誠」という言葉がお好みにあわなければ、「責任を果たす」あるいは「貢献する」などお好きな言葉に言い換えてください。
ということを考えてきますと、「国旗国歌に敬意を表せば忠誠を誓ったことを意味するか否か」という議論は論理が逆ではないかと思います。 「国家に忠誠を誓っていることを信じてもらうために国旗国歌に敬意を表す」のではないか。
もっと段階を踏んで説明しますと、
  • 客観的にみて日本人(定義は下記参照)であれば、当然日本人としての義務を尽くすことが求められる。
  • しかしながら当人は日本人であること、あるいは日本が嫌いである。
  • よって日本人としての義務、貢献をしたくない→日本に忠誠を尽くしたくない。
  • 日本への愛情を示すシンボル的行為である「日の丸君が代に敬意を表すること」をしたくない。
  • よってそうしなければならない機会を拒否する。
  • ゆえに国旗国歌法及び日の丸君が代の掲揚、斉唱に反対である。
となるのではないか?
日の丸君が代掲揚にに反対した教員が処罰されるということは、単に法規制あるいは職制に基づく命令に反したから処罰されたということではなく、日本という国家に貢献することを誓わない者は処罰されるという意味でもある。
日の丸君が代を嫌うから国旗国歌に反対するのではなく、実は国家に対する忠誠心を持たないことを表明したくないために国旗国歌という指標・パラメーターを嫌うのではないのだろうか?
まさしく「国旗・国歌は忠誠を推し量る踏み絵」であり、踏み絵を嫌うということは「忠誠を持たないことを知られたくない」からではないか?
江戸時代に本当のキリシタンは、踏み絵というものは信心のない者が書いたに過ぎないとして平気で踏んだということを聞いたが、日本が嫌いな人々は踏み絵の価値を認めているのであろうか?
それとも、江戸時代と違い、踏み絵を踏みたくないと発言することが許されるからであろうか?
ひのまる君が代に反感を持つのは日本という集合体に対して帰属意識を持たないことであり、それはすなわち「私は日本人ではない」という表明であろう。
日本人とは日本人として生まれた人だけではなく、日系人、日本に帰化した人を含む、広い意味でこの日本と運命を共にする者と定義する。


ところで、日本に帰属心を持ち、かつ、日の丸君が代を嫌う人はいるのだろうか?
そのような存在が発見され、あるいは証明されれば私の論は霧散する。
しかし残念ながら、私は今までお会いしたことはない。
「日本は好きだが日の丸君が代は嫌いだ」と言う方は、ほんとうは日本が嫌いなのではないだろうか?

私は日本の国を良くするために・・
わしは日の丸が大好きじゃがなあ〜


話は続くのだが、
じゃあ、日の丸君が代反対とか掲揚時に起立斉唱拒否ではなく、国に対する忠誠拒否あるいは国の命令に拒否を表明すべきだという考えされた方、あなたは正しい。
しかしながら、それは一般市民には許される行為ではあるが、公務員たる教員、市役所に勤める者、そして特別職国家公務員である国会議員は決して口にできない言葉なのである。
だから、国家に忠誠は誓うのだが、国旗国家には反対であるという論理でしか発言できないのである。
国家公務員法
第九十六条 第1項 すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。
第九十七条  職員は、政令の定めるところにより、服務の宣誓をしなければならない。
地方公務員法
第三十条  すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。
第三十一条  職員は、条例の定めるところにより、服務の宣誓をしなければならない。
なお、かって社民党議員は日本の公務員である海上保安官の命より、北朝鮮からの侵入者の命を尊重し、罪もなく日本から北朝鮮に誘拐された方々よりも北朝鮮の為政者を思いやることによって、日本に貢献したくないことを表明した。
今、民主党の党首は中国へ朝貢を提案することによって日本の尊厳を認めたくないことを表明した。

ちなみに本日は天皇誕生日の祝日である。お断りしておくが、私にとって祝日とは日の丸を揚げる日であっても、仕事を休む日ではない。
いかなる人も、祝日に休むことを忠誠心を試す踏み絵であるとは言わないだろう。


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