老人の証拠 2005.01.10
ある日突然、家内が真剣な顔をして言った。
私はもう年寄りよ 「私はもう年寄りよ」
私の家内は50をすこし過ぎている。私が若い頃ならば確かに<老妻>と言ってもおかしくない年齢ではある。
でも今の時代なら年寄りという範疇には入らないだろう。
なんじゃらほい? いったいどうしなすった?
耳が聞こえなくなったとか、老眼鏡が欲しくなったとか、あるいは杖が必要になったのかい?
それともへそくりを隠したところを忘れてしまったのだろうか?
実は家内はまだ耳は人一倍高感度で、私は電話でもヒソヒソ話などできない。
もっとも私は家内に内緒ごとなどない。浮気したこともなければ博打ですったこともないから秘密にしておかなくてはならないことは一切ない!
そしてまた、家内の目は鵜の目鷹の目くらいに視力もよく、老眼鏡などまだ不要である。

驚いて私が聞きかえすと、そうではなかった。
家内が話をするところでは・・・
近くのスーパーに買い物に行ったところ、お年寄りの客の男性が「もにゃもにゃ」とお店の人に言っているのだが、カウンターの向かい側にいるお店の人がそれをどうしても聞き取れず、お互いに難渋していたそうな、
近くにいた家内はその男性のそばにより、何を欲しいのか聞いて「このお客さん、焼き鳥のかしら塩が2本、レバーたれが2本欲しいんですって」とお店の人に頼んであげたそうです。
ubaguruma.jpg 家内はそういった行為をしたことを気にやんだのであります。そういったおせっかいをするのは老人の証拠なのだそうです。
私はそれを聞いて、それは年齢とか年寄りとは関係ないことで、親切なことではないかと思ったのですが、

そういえば先日、家内と二人で電車に乗っていた時のことです。乳母車を押しているおかあさんが降りるとき、電車とプラットフォームに段差があったので家内はわざわざ立ち上がり乳母車を支えてあげてました。
私は家内が親切でなかなか良いところがあるわいと思ったのですが、家内はそれも年寄りの証拠だというのです。
以前、こそあど言葉の多用やひとりごとが多くなると年をとった証拠だということを書きました。でも親切と年齢は関係ないと私は思っております。
家内によると、小さいこどもを持つ方は子育てに忙しくて、あるいは仕事に追われていて、いついかなるときでも他人を思いやる余裕がないという論理であります。
そして、他人に気遣うことができるということは、精神的に余裕がでてきたということで、それすなわち年寄りの証拠だというのです。
そして親切とおせっかいは同じだといいます。
私ごとでありますが、私はお店とかビルに出入りするときは、自動ドアでなければ必ず後に人がいないか確認し、いらっしゃる場合は、次の方が来るまでドアを押さえております。
それは親切とかエチケットということでなく、道路の右を歩くと同じようなことではないかと思っております。
このお正月、家内と二人でちと離れた神社にお参りに行ったときのことです。たまたま乗った電車は目的地まで直行ではなく、途中の駅が終点でした。
私たち夫婦はどこに行くにも二人でワンセットになっております。 
オードリーの「いつも二人で」って映画ご存じですか?
私たちは皆が電車を降りるのを座席に座ったままで待っておりました。乗客がざわざわと降りる中で一人の若い女性が眠りこけていました。「あの子、居眠りしたままよ、この電車でまた戻ってしまうわよね」と家内が言います。
わしじゃよ 私と家内と二人でニヤニヤして見ておりますと、降りかかったこれも若い女性が、眠っている方の肩をゆすって、「終点ですよ」と声をかけたんです。居眠りからさめた女性はお礼を言って降りていきました。
家内はそれを見て「ああ、よかった、ああいうことをするのは老人ばかりじゃないのね」
家内はその娘さんが再び来た方向に戻ってしまわなかったことを喜んだのではなく、自分が年寄りでないと思ったことを喜んだようであります。 
ところで、そういうのは乗り過ごしとは言わず、乗り戻しというのでしょうか?


本日のことわざ











このことわざを「人に情けをかけて助けてやることは,結局はその人のためにならない」と解する方が増えているそうである。
本当は「人に情けをかけておくと,巡り巡って結局は自分のためになる」ということですよ。


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