学問の進め 2 2005.05.13
KABU先生のブログにこんなことが書いてある。
日本ではいまだにMBA(ビジネススクール)に留学していると言えば「かっこいい」と思われ、それが、トップ10のMBAとでもなるとちょっとした騒ぎになるようです。まさか、「末は博士か大臣か」ではないが、留学というか合格が決まった段階でその出願者は「ビジネスエリート」と目される傾向はまだ存在していると思います。
はっきり言います。日本人にとっては留学が認められた/留学していることによる、異文化体験というか英語力の向上という付加価値があるにせよ、英米の人々にとっての英米のMBAは「今は偉くない人が、今後偉くなるために、しかたなく高い授業料を払って通っている場」なのです。例えば、バブル期の真っ盛り、ある巨大金融機関の若手幹部がトップ5クラスのMBAに出願した所、「あのー、うちは将来、運がよければ貴殿がいまお持ちになっている権限を持てるようになりたいものだよな、というレヴェルの学生が来る所なんですよ。それでも、出願しますか」という丁寧な問い合わせが帰ってきたことがあるくらいです。
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私に飽きたなんて
言ったら許しませんよ
これを読んで思い出したことがある。
いえ、過去の話ではなく、私の未来でもある。
私はいつもいっているが高校を出て就職し働いてきた。なんともう40年になるのだ。
人生に飽きが来る頃だ 
家内と結婚して今年でちょうど30年、幸い家内にはまだ飽きていない

私の時代は大学にいく人は少なく、更に田舎であったので中学の同級生の約半数は中卒で就職し高校に進学したのは残り半数である。中学で終わった仲間はほとんどが東京に就職していった。中卒者が金の卵と呼ばれていた時代だ。
高校の同級生の中で大学に進んだのは一クラス50人でたったひとりだった。残りはすべて就職した。当時就職できたということは大変幸運なことであった。なにせ高度成長がはじまる、その少し前まで高校を出ても仕事がなくてどうしようかという人も大勢いたのである。
フリーターなんて気楽なものではない。働かないと食べていけない時代だ。今では想像もつかないだろう。

私はできたら大学まで行きたいという希望はあった。理由は簡単だ。人生のスタートラインが少しでも有利なほうがいいということだ。
大学をでればそれなりの価値があった。
田舎でも役場の偉いさんとか、中小企業の幹部はみな大学を出ていた。中卒や高卒では会社でも工場でも先が読めたのである。そういう意味では、現在よりも学歴社会であった。今なら努力次第でリカバリーできる範囲でも、当時は学歴がないとダメというのは歴然としていた。
そんなわけで「大学に行きたいなあ」という願望はあった。だが、それは具体的な希望というより単なる夢であったわけだ。 もちろん我が家の経済状態はそんな余裕はないし、また時代が時代だからとても検討する余地などなかった。

家の仕送りに頼らず、アルバイトしても大学に行けばよかったのに、なんておっしゃってはいけない。私が働いて家にお金を入れないと、我が家の家計は成り立たなかったのである。

さて就職してから短大の通信教育を受けたが、これも簡単ではない。当時も今もスクーリングというのがあって、一定期間学校に行って講義を受けないと卒業できないのだ。会社の上役、同僚に頭を下げてなんとか時間を捻出し、会社を休んで東京に来た。

その当時、会社を2週間休むということは、とんでもなく困難なことだった。


スクーリングの時は上野駅近辺の安い宿を探して泊まったのだが、「夜10時以降に来ると安くしてやるよ」といわれて、その時間まで駅の待合室などで時間をつぶした。
ようするにアベックのお客さんがご利用した後の連れ込み宿に泊まっていたわけだ。
私は当時ウブだったのだが、なるほど世の中はこういう仕組みになっているのかと納得した。
いまどきはあのような連れ込みは姿を消し、すてきなホテルに変わったのだろう。

さて、短大ではあったが結構テキストがあったし、試験もあった。これが面白い。勉強とは面白いものだと実感した。
そしてまた仕事をするうえで常なる勉強が必要でもあった。危険物取扱者なんてのは簡単な試験ではあるが、試験を受けるためには半月くらいはまじめに本を読まなくてはならない。
会社の仕事の上でいろいろな資格が必要となったし、また新しい機械や試験装置を使うためにはそれなりに勉強が必要だ。 そんなわけで、勉強することが面白いということを知り、いつかは就職などのためでなくただ勉強のために大学に行きたいと思うようになった。
もちろん、そんな願いがかなうわけはない。
私は結婚しており、そして子供が生まれ、オイルショックなどで酒も飲めないような時代もあった。
残業、残業という時代も続いた。
当時、私は家内に50過ぎて子供に手がかからなくなったら会社を辞めて大学に行って勉強したいなあといつも言っていた。
家内はしたいことはしたらいいと言ってくれた。

本当を言えば、家内は私をうまくあしらっていたのだろう。
昔も今も、私は家内の手のひらの孫悟空である。 


go.gif 仕事でホットひといきついたのはもう40歳であった。
本当に勉強したいという意思が固かったなら、ここで一念発起、通信教育の大学に入ってもよかったわけですが、なんと今度、私は囲碁にはまってしまった。もう囲碁中毒、囲碁濫用者となりはて、家で寝るのと会社で仕事している時以外は、夜も休みも囲碁一筋という間違えた人生を歩み始めちゃったのです。
今あの頃を思い返すと、いったいどうしていたのだろうと不思議でしかない。

私の囲碁中毒、囲碁びたりから脱出できたのは二つの事情によるものだった。
ひとつは、私の義理の弟が私より遅く囲碁を覚えたのに、アットいうまに私を追い越して高段者になってしまったことがある。これをみて、私は囲碁というものも先天的な才能が必要で、ただ碁会所に入り浸っていても上達しないということを知った。
もうひとつは私と同じ、囲碁中毒の方がある時、突然囲碁をやめてしまった。
そして私に言いました。「佐為さん、囲碁をやめてごらんよ、ゆっくりした時間が持てるよ。今囲碁をしていたときを思い返すとなんであんなことをしていたのかって不思議なんだよ」
この二つをきっかけとして私は碁からきれいに足を洗いました。

もっとも、このとき碁をやめろとアドバイスしたお方はその後、尺八にこって今はまた悪い人生を送っております。 

さて、そんなことで囲碁をやめたとき私は50ちょい前、7〜8年もの間、囲碁に狂っていたわけです。
私は、テレビを見るなんて趣味はありません。碁会所に行かないと、もうなにをしたらいいかわかりません。毎晩手持ちぶたさです。簡単でできることなので本を読みました。
私はもともと本を読むほうでした。残業が月100時間以上のときも、囲碁浸りのときも年に100冊くらいは読んでましたが、この時分はもうなんでもかんでも手当たり次第に読みましたね。
私はもともと中毒になりやすい体質のようです。

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2001年開設当時のウェブサイト
その頃は品質保証とかISOとかの仕事でしたからそういった本も読みました。しかし、手に入るものであればジャンルを問わず、固いものも柔らかいものも、赤川二郎も、西村も、北村薫も、ジュブナイルも・・・反日思想も、自虐史観も戦後民主主義もゴーマニズムも、・・・そして新しい教科書を作る会に至ったわけです。
それ以降、私は受信するだけでなく、発信することを始めました。インターネットが使えるようになった時代でしたから電子メールも一生懸命出しました。そしてやがてこのウェブサイトも開設しました。
今いろいろ書いているのは当時のインプットをこやしというかネタにしているわけです。

しかし、おおやけに発言するにはやはり本格的な勉強が必要だと身にしみて感じます。
私はKABU先生とはわたしと同様なそのへんのおじさんかと思っておりましたが、れっきとした学者、解法者様もしかり、 あらためて勉強をしなおさねばと考えております。


さて、私の仕事の人生もあと数年、一段落したら本格的に勉強したいと思います。
第一、家でごろごろしていたらたいくつのあまり死んでしまいます。
私は庭木とか盆栽などという趣味はありません。野菜つくりなら好きになれそうです。
第二に、日本を良くするためにはなにかしら運動をしていきたいと念じております。
そのためには法律や歴史を学ぶ必要を感じています。


おっと、年金には頼れないご時世、
私にのんびりと勉強できる老後は来ないのかもしれません。


「学問のすすめ 2」とはだいぶ前に学問のすすめというタイトルを書いたからです。



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