自己責任 2 2005.05.25
イラクで日本人がテロ組織に誘拐されたのは04年4月8日、自己責任などとマスメディアで騒がれたのは、一年前のちょうど今頃である。
お断りしておくが、この拙文はイラクともテロとも被害者とも関係はない。

では、はじまり始まり、
私は30前、バイクにこった。こったといってもメカをいじったりレースに出たのではなく、ただひたすら走ったのである。
いきさつを説明すると、私は貧乏だったから、学校をでて就職しても車にもバイクにも縁がなかった。そういったことは前にも書いた
結婚してやっと余裕が出たのが30少し前である。そして小さいときから乗ってみたいと思っていたバイクの免許を取ったのである。それも大型とか中型というのではなく、小型という125ccまでのものである。体も大きくはなかったし、大きなバイクを買う金もないから・・・そして125の中古のバイクを買って時間があればひたすら走った。
bike.gif 休みの日には夜明け前の3時とか4時頃起きて、バイクにまたがると特段目的地などを決めずにただ走った。そして一日中走ってくるのだった。一日で400キロくらい走ったこともあった。ちょっと知った人なら、高速を使わず400キロ走ることはすごいことだとお分かりいただけるだろう。夏はカナブン(こがねむし)などがヘルメットに当たると叩かれたような衝撃を受けた。シールドがないと怪我をしてしまう。革ジャンなんて持っていない。さすがに雪のある真冬は走らなかったが、寒い春秋でも下はジーンズで上はふつうのジャンパーという格好であるから風が通った。その結果が神経痛であった。 
東北の田舎のことであるから、山道もあるし、非舗装のところも多い。こんな田舎道を通る人は1週間に一人もいないかもしれない、もし転んで怪我をしても見つけてもらえないかもしれない、と思ったりした。

実際、何度も転んだ。
峠のカーブで雨のあとで薄く山砂が流れていて、見事にタイヤが滑り、転んだまま20mくらい路面を滑ったこともある。もう数メートルすべると、谷底に落ちるところだったと後で気がついてゾットした。

そのときは幸いにも、ひじの骨にひびが入ったのと、上着が擦り切れただけで済んだ。

こけた調子で、ギアが3速くらいに入ったまま抜けなくなったこともある。半クラッチでごまかして町まで20キロくらい走った。もし、走れなかったら、その20キロをクラッチを握ってバイクを押して歩かなければならなかったわけだ。
転んだ拍子にハンドルが曲がってしまったこともある。工具がなかったのでけとばして戻したのだが、全体に緩んでがたつき、そのあと修理工場まで走った道のりは本当に怖かった。
そんなことは何度もあった。今考えると楽しい(?)思い出なのだが、そのときは真剣、深刻だったし、一歩間違えれば命がなかったことも事実だった。

私は街中を大きな音を出して走ったり、仲間と群れをなして走ったことは一度もない。
小型バイクだったので仲間ができなかったこともあるが、既に30近かったわけでそのような子供じみた行為が楽しいとも思えなかった。

とまあ、そんなことをしていると自分のしていることすべて自分の責任であると実感した。
自己責任なんて、おおげさなことじゃない。自分が選択したことなのだから、その結果は自分で持つということに過ぎない。
峠道を走るのが楽しいなら、その危険を知らなければならないし、その結果事故ッたら自分のせいだということは非常に簡単明瞭なことだ。
誰に頼まれたわけでもない。自分が決めたことなのだから。

今考えると、家内がいたわけで、私は家族に対して多少というか大いに無責任であったことを認める。反省しております。

さて、私も30くらいで子供を持った。
子供を持つと、バイクではしょうがない。家内だけなら出かけるにバスでも歩いても何とかなる。しかし子供がいると、実家に行くにも、医者に行くにも車がいる。・・・子供は病気になりやすいのだ・・・田舎では車なしでは生活できない。
おおっと、言い方を変えよう、日本では田舎がもっともアメリカナイズされているのだ。
car.jpg 私はバイクを卒業して車を買った。
私の子供は生まれたときから車に乗っていたわけで、それなりに車のマナーというのを身に付けた。マナーといっても大げさなことではない。私たち夫婦がドアを閉めるときは、手をドアにはさまないようにするとか、自分が車のドアを開けるときは窓から外を見て車や人が来ないことを確認するといったことだ。バックするときは体を小さくして運転者が後ろが見えるようにするということもある。
こんなことは車に乗るにあたっては当然のマナーというか常識だ。
私はそういったことは誰でも知っているあたりまえのことだと思っていたが、あるとき私の姉の子供が休みで田舎に来たことがあった。都会で自宅に車がなく、その子供たちはほとんど車に乗ったことがない。それで乗り降りするときにまわりに気を配らずにドアを開け閉めするのには驚いたし、閉口した。万一他人に迷惑をかけたらと気が気でなかった。
もちろん、その甥・姪たちには悪気があったわけではないのだが・・・

私も電車通勤するようになって既に3年になります。田舎では電車というものは存在しません。たった一度の人生でいろいろな経験をさせていただいております。ありがたいことです。 
通勤の電車の中でいろいろな人を見かけますが、マナーが悪いという方が大勢いますね。
train.gif いや、電車の中で酒を飲んじゃいけないなんてことではありません。
ドアが閉まりだしたところに飛び込んで、ドアにはさまれて文句を言ったりしている人がいます。田舎ではバスに乗り遅れると次のバスまで1時間も待たないといけませんから、そりゃあわてますが、山手線なんて3分も待てば次が来ます。そんなに急いでどうするのですか?
まあ、急ぐのはいいとしても、ドアにはさまれて駅員に文句を言うのはいかがなものか?

「いかがなものか?」という言い回しはいかがなものかと私は思っている。
そのようなあいまいで無責任な表現はよくないと私は考えている。
上記の文章は「まあ、急ぐのはいいとしても、ドアにはさまれて駅員に文句を言うのは間違っている」と言うべきだろう。

自分が王様とかえらいとかカン違いしているのだろうか?
いや、どうもそうではなさそうだ、
世の中の仕組みというか、危険というものや社会の約束事ということを理解していないのではないだろうか?
そういった人々は、過保護な現代社会ではなく、少し前の時代であったならば命を落としているに違いない。
私たちは子供のときから、けんかや山遊びで危険なこと、痛いこと、血が出ること、骨が折れるといったことを身を持って経験し体で覚えて大きくなった。
家の庭にはやまかがしという蛇がいたし、ちかくの林にはマムシもいた。家庭菜園でナスを取るにしても、山で遊ぶにしても不注意な行動は死に結びついていた。

私の子供の頃、やまかがしは無害といわれていたが、最近では毒蛇といわれている。

蛍取りに行っては、地面にいる蛍は決して取ってはいけないと教えられた。蛇の目は夜蛍そっくりに光るからだ。竹やぶに入ったら、足を上げずにすり足で歩くというのも切ったタケで踏み抜かないためだ。

そんな育ち方をすると、電車に乗るときに閉まりかけたドアに飛びこむようなことはしない。
周りを見ずに車のドアを開けたりしないものだ。

自己責任という前に、なにが危険か、どんな危険があるかというを知らねばならない。
戦場では鉄砲の弾が飛んでくる危険もあるが、テロリストの危険もあるという認識が必要だ。
東京の街中でもテロが起きたらどうしよう?という発想が必要だろう。

そんなことを考えるのが自己責任かもしれない。
やはり、イラク人質事件とは無縁ではなさそうである。


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