学校における民主主義(教育の民営化 その2)2005.10.30

民主主義という言い回しが世に広まって早や60年、困ったものだ。
イエ、民主主義が嫌いというわけではありません。私は民主主義を尊ぶし、そのためには命を捧げることを誓います。それは時代錯誤な大げさな言い回しではありません、わたしは心底そう考えているのです。
でも一般に民主主義という場合、正しい意味で使われているとは思えません。多くの場合誤って、あるいはわざと本来の意味と違えて使っているように思えます。
『民主的に決めよう!』ということは、多数意見より少数意見を聞けということであり、民主的でないことが多いのはご存じの通り。
man7.gif 『戦後民主主義』なんて、民主主義とは無縁の反日運動でしかありません。
『民主主義を守ろう』なんて語っている政党や団体が、民主主義の対極にある共産主義国家とつながっていたりするんです。
『朝鮮民主主義人民共和国』を民主主義国家と考えている人は・・・いないと思います。
『民主主義の主人公になるために、自分たちのことは、自分たちで決める!』っていったいどういう意味なんでしょうか?
『民主主義の主人公になるために、自分たちのことは、自分たちでする』ではありませんか。

おお、脱線してはいけない。ここでは学校について考えていきます。
『学校を民主的に運営しよう』とか、『民主的な教育』なんて言い回しもある。
そういったことは完全に間違いであるということを本日は述べたい。
以前、お便りを頂いた先生も、学校教育というものがいかなるものであるかをまったく理解していないようである。そんなこともいいたい。

『組織』とは一人一人の力ではできないことを、成し遂げようとするために作られる。組織といっても、国家とか会社とか官公庁などばかりではなく、労働組合、囲碁クラブ、自然保護のNPO、パッチワークの会、詩吟の家元、マンションを建てるのに反対する地元の団体もあるし、バスの路線を引こうとする住民の会も、暴力団もあるし、暴走族も、外国人の窃盗団もある。
組織は人間の最も偉大な発明のひとつであることは間違いない。しかしながら、組織がその目的を達するためには、個々の構成員の意思に添えないことも多々あるのはやむをえない。
組織の運営方法として過去から独裁や民主制などがあるが、民主的な組織であってもその運営すべてにおいて民主的であることはできない。
組織はいろいろな機能、あるいは段階を有している。一般的には計画と実行であり、国家なら立法と行政である。多くの場合、ひとつの組織が計画段階から実施段階まで担うのではなく、計画する組織と、実施する組織に分かれることもある。
計画段階では広く構成員の意見を聞き、より多く人の希望を反映し、不満が最少となるように計画することが望まれる。しかし、実施段階となると、決めたこと決めた目標を実現するために構成員に協力を要求する。それは冷酷、非情に見えるかもしれない。
womankomatta.gif ところが、決定されたことが気に入らなかったり、あるいは義務を果たすのがいやな人は、その決定を受け入れることを望まず、『組織なんてないほう』がいい言い出すことが多々ある。
カン違いしてはいけない。それは間違いである。
民主主義が適用できるのは計画段階だけなのである。
組織が決定したことをやり遂げるという意味では、暴力団と会社や趣味団体に違いはない。
違いはその目的と取りえる方法であって、組織の機能は変わらない。
さて、学校というのは、教育制度を考える組織ではなく、教育方法を検討する組織でもなく、教育を実施する組織である。それは定められた教育制度において、定められた教育計画の下に、定められた教科書を用いて定められた教育を行う。
学校の先生はこの定められた手順に従い、計画された目標を達成するために雇用されており、与えられた任務を達成できたか否かで評価されるという、しごく当たり前なことをご理解いただきたい。
woman7.gif 先生個人が、私はこんな教育方法が好きだとか、私の目指す目標はここだとか、私はこんなことを教えたい、こんなことは教えたくないというのは越権行為であり背任行為である。あなたはそのようなことをするために雇われたのではない。

『そんな窮屈なことは嫌いだ!納得できない!』なんていわれても困る。
私たち会社員が、自分の好みで新製品を開発したり、自分の都合で製品を作ったり、自分が売りたい製品を売ることができないのと同じである。
私の仕事である環境監査において、『この方法は良くないからこうしなさい』などと語れば、即監査員失格である。監査員とは監査基準(法律や会社の規則)に運用が、合っているかいないかを判断することに過ぎない。
同じように、学校の先生とは計画者ではなく、執行者なのである。

考えてみたまえ
自動車販売会社で、こんな車は売りたくない、他社の車を売りたいといえるか?
教師が、こんな教科書では教えたくない、他社の教科書を使いたいといえるか?
もし今の仕事がいやなら日本には職業選択の自由があるから、車のセールスマンでも先生でも、いつでも辞めることができる。

もちろん、先生であろうと、先生でなかろうと、学校に通う子供がいる人も、子供がいない人も、すべての有権者が学校教育について発言する権利を有することは当然である。しかし、その権利は計画段階において行使するものであることは先に述べた。
まして教育に従事しているからという理由で、そうでない有権者以上に教育についての決定権を有しているとは私は考えない。
ここで、すべての国民あるいは住民が発言する権利を有するか?と問われたら、私は『否』と答える。発言する権利を有するのは『有権者』のみである。
民主的な審議結果によって、決定・計画されたことは、緊急時あるいは客観的に見て異常でなければ、粛々と実施することが民主主義の原理原則であり、それを侵すことはできない。
そうでなければ民主主義ではない。

今まで述べたことをご理解できない人はいるはずだ。特に先生に多いと予測する。 
ではわかっていただくために段階をおって説明する。


本日の主張

民主主義とは、自分たちのことは自分たちで決めることではない。
みんなで決めたことを、みんなで実行することである。
学校は民主主義で運営するのではなく、民主主義を教えるところだ。
そのために先生は本当の民主主義者でなければならない。





タイガージョーからお便りを頂きました(05.11.12)
不自然
佐為様のサイトをいつも楽しく拝読しております。佐為様の学校に対する考え方を拝読するにつれてなるほどと考えさせられるところがありました。これまでの学校がおかしな形になったのは何故でしょうか?これを説明している方がおられます。以下大意をお伝えします。
保護者(以下保)「先生の教え方はおかしいです。暑いときには暑いと言わずまだ寒いと言え、寒いときには暑いと言えと若君に教えていますが、これでは不自然なだけではありませんか?」
先生「私はその不自然が教育と思うておる」
保「???」
先生「暑い寒いという人が本来持っている感覚を教えてなんとする。暑いと言えないときでも我慢をしたり、他の物で代償したりして考えながら行動するのが人間ではないか。そもそも弟子が将来人の上に立つ人間になった時に、暑いと言っては水に入り、寒いと言っては家から出ないようで示しが付くと思うのか。自分が我慢することを知らなくては多人数の統率はできぬ物じゃ。」
保「・・・・」←山岡荘八署 伊達政宗より
 今の教育で育った生徒さんは本当に多くの人に示しが付く行為をされているでしょうか?自分を振り返っても小さくなるばかりです。日の丸という布きれに敬礼するのは不自然であるという人は自国の国旗に敬意を払わない人は尊敬されないという事を知っているのでしょうか?その前に自分が生徒を教えているのは個人的な権利を守るだけではなくその生徒が人を感心させる人物にするためという認識があれば日教組は来年にでも変わっていくでしょう。
タイガージョー拝
タイガージョー様、毎度ありがとうございます。
子供の頃読んだ本で、極地探検に出かけたヨーロッパの探検隊で食べ物などに文句を言うのは一般隊員で、貴族の人は同じものを食べても文句を言わなかったというのがありました。
貴族だからとかというのではなく、ガマンする、耐えるということが価値と思わないといけないと思います。
といっても私は都会に来て、夏の間はエアコンをつけないでは夜眠ることができません。
この程度の贅沢はお許しください。



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