カラム考 2006.08.13

「カラム考」といっても、エクセルのカラムとか、歯車に服がからまれたとか、因縁のつけ方を考えるのではない。
新聞のカラム、つまり第一面の下のほうにある準社説とも言われる小論文のことについてである。
カラムとは柱、つまり縦に長いものを言うわけだが、新聞のカラムは横に長い。なぜ横長でもカラムと呼ぶのかといえば、英語の新聞用語columnがそのまま日本語化してカラムとなったのだろうと推測する。
日本を代表する新聞といえばどこか? といっても、そりゃ人それぞれであろう。
しかし、私はここで朝日新聞、読売新聞、産経新聞を取り上げる。
朝日新聞のカラムは「天声人語」といい、アサヒコムには『現代社会の森羅万象を、鋭く温かな視点から描く朝日新聞の代表的コラム』とある。自らそう名乗るとは、たいしたものである。まさに天上天下唯我独尊と語った仏陀並みではないか。きっと朝日新聞自身も「日本を導く大新聞」と誤認識されているのであろう。
誤認識とはご認識の誤変換ではない 
読売新聞のカラムは「編集手帳」、産経新聞のカラムは「産経抄」という。読売も産経もカラムには、朝日のような傲慢な副題は付けていない。

なぜ、毎日新聞を入れないのか? 社会人に対しては日経新聞が影響力を持つぞという方もいらっしゃるだろう。 futari.gif ここではカラムについて考えたいので、有力カラムを対象に取り上げた。
じゃあ、毎日とか産経のカラムより、天声人語、編集手帳、産経抄は有力カラムなのか? 影響力が大きいのか? と聞かれれば私は『YES』と応える。
世の中は厳しいのである。みんな平等で仲良くなんてことが通用するわけはない。

さて、カラムについて論じるといっても、学も能もない私のことだから、それぞれが何について書いているかとか、文章が文学的かどうかとか、どういったスタンス・価値観で書いているか、その論旨が正当か・妥当かということではない。そういうことを論じるには私は力不足である。
では、何を論じるのか?
私は自分の力の及ぶ範囲で、非常に簡単で客観的な指標として引用率というものを取り上げた。
引用率とは毎日のカラムの中に、他人の小説や論説などの文章を引用している文字数がどのくらいあるのか?ということである。
以前、だれかの文章を盗用したとか、まったく同じ文章がインターネットに載っていたとか言われた新聞社のカラムもあった。残念ながら私は学もなく知識もないので毎日読んでいる文章が他人の作なのか否かを検証する力がない。
もし、どなた様か『盗用率』という調査をまとめていただければ幸いです。
結論を下図と下表に示す。

inyoritu.GIF
日付8/28/38/48/58/68/78/88/98/108/118/128/13
天声人語033%18%16%37%29%15%5%33%24%30%4%
編集手帳17%28%16%031%5%3%32%14%16%25%10%
産経抄12%6%8%06%-10%037%0013%

天声人語の場合、引用率が極めて高く、かつそれは恒常的である。
私は自分が書く文章もそうだが、他人の文章でもひとさまのものを引用するのをあまり好かない。それはとりもなおさず、オリジナリティがないということであり、作者のウィルが明確でないことであり、そもそも自分の文章を書かないなら書く意味がないではないか?
論文の切り貼りだけでは価値がないのである。
インターネットの世界でも、掲示板にひとさまのものをコピーペーストすることはあまり良いことではないと認識されている。
天声人語の引用率が極めて高いことについてわが師KABU先生にお尋ねしたところ、それは本家取りという手法であろうという。つまりアイデアがないから引用するのではなく、価値のある文献やアイデアを引用することが、それなりにひとつのすぐれた形式・手法であると認識しているのだろうというのだ。
本家取りとは、他者の表現を借りて自分の表現とすること。
例えば、百人一首の
 月みれば千々にものこそ悲しけれ我身ひとつの秋にはあらねど
これは、白氏文集の次の表現を手本にしたもので本家取りの例であるという。
 燕子楼中霜月夜
 秋来只一人為長
しかし本家取りとして上げられている詩歌などを見ると、その形容するところをいただいたり、ニュアンスを継承したりするものは多いが、単純にひとさまの文章をそのまま『かっこ』で囲んで引用することではないようである。
ビジネスにおいて、報告書、提案書、契約書などひながたを活用することは多い。それこそ本家取りであって、引用符で囲んで利用することなどありえない。
それに比べてたった600文字の文の中に、「・・・・」(誰々作)という引用がただただ並ぶものを、本家取りとは言わないのではないだろうか?
KABU先生のご教示によると、引用する分量が過半数を超えてはいけないことになっているそうだ。さすがに天声人語も引用率が50%を超えるものはない。
天声人語は、入試に多く使われているとか、文章の鑑であるとか、いろいろなキャッチフレーズで宣伝している。もっとも、そう自称しているのはよく見かけるが、他人がそう評価しているのは見たことがない。
しかしこのようにひとさまのものをただ引用する文章が良い文章というのなら、文を書くには机の回りに先人の小説、論文を置いて、使えるのはないかとひっぱりまわして書くことが推奨されるというのだろうか?
そのような方法は、入試で小論文を書くときに使えそうないのだが・・・

私は文章を書くということは、自分が考えたことを一字一字書き連ねていくことであると思っている。文章とは積み木のごとく論理を進め、そして社会に役立つような新たなアイデアを公にすることではないだろうか?
新聞のカラムは個人の日記やメモではない。
本家取りだって単なる真似や繰り返しでは存在意義がない。西洋でも過去の偉大な作品をネタに書いているものはたくさんある。ギリシャ神話、ローマ帝国の興亡、シェークスピアなどは今でもさまざまに使われている。もっとも最大の種本はご存じ旧約聖書であるが・・

ひとさまの文章を引用する理由とはなんだろうか?
考えられるものとして、
 ・自分の考えがない
 ・考えることが好きでない
 ・権威者を利用することによって、己の意見を正当化する。
 ・万一に問題があっても、責任を転嫁できる。
 ・とにかく毎日書かねばならないので文字数を埋めるため
いずれにしても、ただひとさまの文章を引用することは「責任逃れ」といわれてもやむをえないだろう。本家取りならしっかりと本家を越えるように自家薬籠として己の言葉で語れないといけない。
そうでなければ、分家取りであろう 

いろいろと考えると、天声人語というものは、新規性がなく、独創性がなく、主張がなく、権威的でかつ権威に弱く、建設的でないような気がしてきた。


本日のまとめ

社説もカラムも一紙ではなく、複数を見比べると真実が見えてくると思います。
算数だってひととおりの方法だけでなく、検算することが大事なように


この論にご異議ある方は、私にお便りされる前に、まず天声人語、編集手帳、産経抄を1ヶ月間読み比べてみて欲しい。 そして次の観点で比較してみてください。 お便りをお待ちしております。


追伸
ところで、8/9付け天声人語「ヒロシマとナガサキは、どちらも、人類が人類に与えた惨禍を長く記憶するために欠かせない存在だ。」という文章の意味を私は理解できない。これはそのために原爆投下とその悲劇は存在すべきだったという意味なのだろうか?
私なら「ヒロシマとナガサキは、どちらも、人類が人類に与えた惨禍として長く記憶にとどめなければならない。」とすべきだと考える。
それとも文章そのままが朝日新聞の本音なのだろうか?



Tama様からお便りを頂きました(06.08.16)
いつも楽しく拝見しております。
「引用」についてのお話ですが、私は、引用というのは2種類あるのではないかと思います。
1つ目は本来の用途としての引用で、原文を引用した上でそれについて自身の主張を述べる、批評や解説を目的とした引用です。
#佐為さまの、この意味での朝日新聞からの引用率は結構高いと思います。:)
2つ目は佐為さまご批判の、自身の主張を代弁させるための(あるいは他人の主張を自分の意思だと思い違いした)ものがあります。引用率を計算するにあたり、これを区別した方が良いのではないかと思いました。

なお、天声人語にある「ヒロシマ・ナガサキは欠かせない」というのは、あれは本音ではないかと思います。自虐史観を広めてる朝日のことです、特定アジアにあれだけ(どれだけ?)の悪事を働いた日本は、それなりの被害を受けなければならなかったのだと考えてるのでは。

時に、私は8/15は体調がすぐれず16時まで寝ておりました。正午には目を閉じていたということで、英霊の皆様にはひとつご容赦いただきたいところでございます。
Tama様 ご指導ありがとうございます。
厳しい暑さですからお体大事にしてください。どころで、ポストイットも具合が悪くなることもあるのでしょうか?
Tama様は猫ではなくポストイットなのだそうです。
引用についてはおっしゃるとおり、ただ、私は話のひっかかりとして引用率を考えただけで、本音は内容批評ですからあまり細かいところを突っ込まないでください。
そのようなことを言われると構築が緻密でありませんので・・・困っちゃいます。
「ヒロシマ・ナガサキは欠かせない」の解釈もTama様と同様です。せめて、ここに残して未来永劫(おおげさですね)多くの人に見て欲しいと願っております。

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朝日新聞 2006.08.09
「1945年8月8日 長崎」。今年の春に急逝した黒木和雄監督の「TOMORROW 明日」(88年)の冒頭近くに、この字幕が現れる。9日という「明日」に起きることを知るべくもない市井の人たちの営みが描かれてゆく。
夜が明けて、新しい命が生まれる。朝顔が開き、鳥がさえずる。出かける夫があり、笑顔で見送る妻がある。運転手は電車を動かし、主婦は洗濯物を青空に架ける。坂道で遊ぶお下げ髪の子たちの影が、くっきりと黒い。
そして、午前11時2分、原爆が炸裂(さくれつ)する。残酷きわまりない「明日」までの時を、切々と描いた秀作だ。
この映画の狙いは、長崎の惨禍を伝えるだけではないだろう。原爆に限らず、戦争に絡んだ世界のさまざまな場所に、予想もしない残酷な「明日」はあったし、これからもないとは限らない。だからこそ、それを繰り返してはならないという強い思いが伝わってくる。
「明日」が、人々の営みと命を絶つということでは、激しい地上戦があった沖縄や、米軍の空襲を受けた街や人、さらには、日本に侵略された国の人々の「明日」をも連想させる。ヒロシマとナガサキは、どちらも、人類が人類に与えた惨禍を長く記憶するために欠かせない存在だ。
今日、長崎は61回目の原爆の日を迎える。爆心地に、浦上天主堂に、あの日のような「明日」が二度と来ないようにと祈る多くの人々の姿があるだろう。その祈りが、広島の祈りと大きく一つに結ばれ、日本の各地へ、世界へと広がってゆく。そう念じながら、手を合わせたい。