話し合い 再び 2007.10.23

日本には話し合いを尊ぶ政党、労働組合、市民団体、個人が数多く存在する。話し合いは絶対的正義であり真理であるという前提で、かつ自分たちは話し合う用意がある、話し合うように胸襟を開いているというメッセージであるようだ。
私は過去よりそういう独りよがりの思い込み、そして他人に彼らが正義で心広い人たちであると広めようとする妄言を払拭しようといろいろと書いてきた。
本日もその続きというか、まあ似たような話し合いについてのご意見である。

最近、CSRなどの本を読んでいるのだが、そんな本の中でCSRの行動五原則というのがあった。まあそういったことについては種々学説があるので、その一例と見ていただければよい。 man1.gif
  1. 傾聴の原則(Listening)
  2. 対話の原則(Communication)
  3. 情報開示の原則(Disclosure)
  4. 最善の行動原則(Best Practice)
  5. 公正な分配の原則(Fair Distribution)
まあ、どうってことのない項目の羅列なのだが・・ちょっと気が付いたことがある。
「対話」に当ててある英語が「ダイアローグ」ではなく「コミュニケーション」であったのだ。対話の本当の意味は「単なる話し合うこと」ではなく「意思疎通」ということなのだろう。
日本語で普通使われる「話し合い」という意味はお互いに自分の意見を発表しあうことも含まれるかもしれないが、「コミュニケーション」となると自分の意見を相手に理解させることである。もちろん相手が納得しなくてもよいが、相手に自分の思いを伝えなければコミュニケーションにはならない。
あるいは、日常の話し合いは意見を述べ合うのでさえなく単なる挨拶とか場をしらけさせないことも含むのかもしれない。
「奥さん、どこへお出かけ」とか、「すてきなネクタイですね」なんてのは意思疎通でも意見発表でもないのは間違いない。
ということは、CSRの原則のひとつが対話であるなら、企業側、市民側、その他のステークホルダー側が自分欲求をしゃべるだけでは不十分であることは間違いない。

日本の多くの市民団体、労働組合、革新政党、NPO・・・その他もろもろは「話し合い」が大好きで、すべてを話し合いで決めようと語る。基地問題、空港問題、税金の集め方、税金の使い方、国の行く末、身の回りのことすべてを関係者が話し合うことで解決しようと提言している。
しかし、彼らのいう話し合いとは「言葉を発しあうこと」であって「お互いの立場を理解しあって妥協点を見出すこと」ではないようである。
妥協点を見出す?
そうです、お互いの言い分が異なる場合、お互いが譲歩しなければ話はまとまりません。
たとえば憲法を死守する、ダメなものはだめ、あるいは絶対に勝ち取ろうなんて表現を拝見しますと、これはもうはなから妥協という意思がお持ちでないようです。言葉を発するだけの話し合いをしても、お互いの意思疎通をしようとか、解決点を見出そうという発想がありません。
自分が言いたいことだけを発言するという話し合いのスタンス、お考えでは対話はできないのです。

そういう発想の人は、民主主義ということを肌で理解していないのです。民主主義とは大勢の意見を聞いてなるたけ大勢の人が納得でき妥協できるところを決めることを言います。決して大勢の意見を聞いても最後には自分の意見を通すことではありません。
少数政党は国会で強行採決はいけないといいます。ちまたではごく少数の人が公共の福祉に反する行為をして「話し合いで解決しよう」という錦の御旗を掲げています。

日本人は60年前にアメリカとの戦争に負けて、占領軍の気まぐれで民主主義というものになりました。
本当はそれ以前から日本は民主主義だったのです。民主主義といってもいろいろな形態があり、ナチスドイツだって民主主義でした。アメリカの民主主義だって一つの形態に過ぎません。民主主義を叫ぶ人、話し合いを尊ぶ人たちはなぜかアメリカの民主主義が嫌いです(謎)
ところが、日本人はこのアメリカが押し付けた民主主義を「わがままを通すこと」と受け取ってしまったのです。
具体例として、スト権のない公務員がストをしてもいいじゃないか!、学校に行きたくなければそれでもいいじゃないか!、親の意見なんか聞かなくていいじゃないか・・ということでした。
私の子供の頃、「息子が親の言うことを聞かなくても民主主義だからしょうがない」ということが現実に話し合われていたのです。
あるいは話し合いを叫ぶ人たちが、軍国主義、絶対主義の継承者、申し子であるのかもしれない。 
今日本がなすべきことは、家庭や学校で本当の民主主義を教えて、そして民主主義を実現するための話し合いの仕方を身につけさせなければならないのです。
しかし多くの学校の先生自身が民主主義も話し合いということも知らないようなのです。そんな先生は民主主義を教えることはできないでしょう。
最近は少なくなりましたが、先生たちの非合法組合も違法ストが大好きでした。

また革新政党である共産党も保守系の公明党も党首脳部の考えが絶対であり、それを批判することはできないようです。これは非常におかしいし、そんな政党は民主主義ではありません。民主主義でなくて政党が存在するのか? 存在意義があるのか? と考えると非常におかしいとおもいませんか?
ソ連時代の共産党、現在の中国の共産党は議会制民主主義のための政党ではありません。独裁者の手足としての実施機関でしかないでしょう。
民主主義における政党とはなんでしょうか?
世の中にいろいろな人がいるのですから、いろいろな考えがあるのは当たり前です。政党とはそういうなかで自分の意見を実現したいとして、同じような意見の人が集まって世の中に発信し事をなそうとするための団体ではないのですか?
自分の考えを言えずトップの考えに従うことを奴隷制度と言い、民主主義とは言いません。
自分の考えを言えずトップの考えを絶対とする政党は民主主義ではなく、奴隷制度を実現するためのものなのでしょうか?
そんな政党とか団体であるにもかかわらず、トップの考えに盲目的に従いながら、自分の所属する団体の方針と異なる団体に対して「話し合い」を主張するのは・・・もうアホとしか言いようがありません。 
世の中で「話し合い」を大声で叫ぶ団体、政党はほとんどがこのタイプではないでしょうか?

本日の質問
話し合いといってもその意味を良く考えましょう。
話し合いが言葉の交換なのか、意見交換なのか、結論を見出そうとする建設的行為なのか
あなたの考える話し合いはどれでしょうか?




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