環境審査 レッスン16 2007.10.28
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あらかじめお断りしておくが、以下に書くことは固有名詞は出してはいないが2007年某月某日の事実である。
私は事実に基づかないことを捏造してまで書くことはしないし、またそうする必要はない。
なぜなら現在のISO審査を良くすることが私の狙いであり、批判することが目的ではないからである。
私の書いていることに不快感を持たれたISO関係者、思い当たる節を感じた関係者、私と同じことを考えている関係者の方はぜひ日本のISO審査登録を良くするために行動しましょう。
お願いします。

環境保護に関する講演会を聴講した後に、参加していた某ISO審査機関の審査員数人と話す機会があった。私も元からの知り合いで審査員になった人を除いては、審査立会いとか審査機関との打ち合わせ以外で知り合いでない審査員と雑談するのはそうはない。
お断り
私は自分の勤めている会社の審査に関わることはほとんどない。ほかの会社に勤める知り合いから「心細いから審査に立ち会ってくれないか」と言われてのことが多い。
私はそのとき「審査では規格適合を見て欲しい、規格要求以外の審査員の思いが強くて困っている」というようなことを語った。それに対してこの審査員たち、全審査機関並びに全審査員を代表したような意気込みで「審査は企業、組織を良くするために行うのだ。だから我々はそのために規格適合はもちろんだが、こうあるべしという観点から最大限の問題提起をしている」とのたまう。自分たちの親切を否定されておもしろくないということがミエミエである。
こんなことJABや一般大衆の前で言えることではない。もちろん、彼らは私を同業者と誤解して本音を語ったのだろう。タレコミされて審査員登録を取り消される恐れはないと思っていたに違いない。
ということは名刺交換したのでこんなことを書くと刺客を送り込まれるか・・冷汗
私は切り口を変え言い方を変えて話してみたが、彼らの信念は変わることがなく、正直もう手におえず困ったとしかいいようがない。
2ちゃんねる用語で言えば逝っちゃってるんです。
決して彼らは私利私欲のためとか、己の我を通したいなどという下世話なことではなく、日本企業を良くするように導きたいという高邁・崇高・清廉なお気持ちであることはよく分かった。
確かに世にある沢山の企業の中には、そういったことを求めている企業もあるかもしれない。
でもそういうスタンスで審査をして良いものでしょうか?
私はISOの適合審査とはそういう性格のものではないと考えております。
そんなこと私が改めて説明するまでもなく、以前ならガイド62やガイド66、今ならISO17021に書いてあるし、万が一そんな小難しい規格を読んだことのない怠け者の審査員だって、審査登録証くらいは見たことがあるでしょう。
私はISO19011とISO17021は常に携帯し、読み返している。これはISO審査に限らない監査の原則が書いてある。アンダーラインを引き、何度も読んでいるのでだいぶ汚れている。

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日本人よ誇りをもて
東京都千代田区丸の内

登録証
ISO14001:2004/JISQ14001:2004


登録範囲
ウェブサイトの設立・運営及びそれに関わる問い合わせなどに対する事務事業活動全般

登録番号 XXXX 登録日 200X.XX.XX
当審査機関が貴社の環境マネジメントシステムを審査した結果、適用規格に適合していることを確認しました。
発行日 200X.XX.XX


株式会社 腹黒審査機関
代表取締役 愛想船四百

そこにはちゃあんと「当審査機関が貴社の環境マネジメントシステムを審査した結果、規格に適合していることを確認しました」と書いてあります。
決して「当審査機関が貴社の環境マネジメントシステムを審査した結果、当社の考えるとおりのマネジメントシステムであることを確認しました」とか「当審査機関は貴社が私どもの指導を受けて、品質改善に努め、リスク対策を行っていることを確認しました」とかなんて書いてありません。
もちろん審査機関の指導(?)は、それはそれで価値のあることかもしれませんが、そういうものをISO審査とは言わないでしょう。普通はコンサルティングというのではないでしょうか。そして審査で指導を行っていることが目をつぶっておけないくらいあからさまですと、JABからお叱りを受けることは間違いありません。 

それに私の言い分はたくさんある。
審査員になられた方々は過去に企業で働いてそれなりの成果を出したであろうことを疑ってはいない。
正確には「審査員になられた方の一部は過去にそれなりに成果を出したであろうことを疑っていない」というのが本心である。
過去に成果を出していない人も審査員になっているだろうから。
しかしその事実は、審査に行った企業の人たちより見識が高いこと、そして指導できる力量があることを立証するものではない。
論理的に考えて、過去の成果を出したことと今現在 審査を受ける企業の人の力量と比較することはできない。
更に仕事の遂行能力があっても指導するのはまた種類が異なる力量を要する。名選手、名監督ならずである。
古田監督も堀内監督もいい選手でしたけど・・・

指導できる力量があるか不明であるのに、企業に審査員の見解を受け入れさせることは、ISO9001及びISO14001の序文を否定することは間違いない。私がお話していただいた方々はそういう理屈を理解していないようである。
論理的に考えてみよう。
人はみな神様ではない。人の上に人を作らずといったのは福沢諭吉。それなのにこの審査員様は自分が最上位、絶対だとお考えなのであろうか?
まさか、「審査員は選民である!我々は師である 皆のもの従え」なんて考えているのでは・・?
正確には諭吉は「人の上に人を作らずと言えり」と語ったのである。
審査側と受査側は同等ではないのだろうか?
審査側が上位であるとご認識なら、誤認識もはなはだしく上意打ちあるいは攘夷と追い払うしかない。
ダジャレを笑ってください。 

彼らは1・2年でなく何年も審査員をしているようであった。力量があるのだというのなら、その間にいかなる指導の成果を出したのであろうか? ぜひ聞きたいものである。
私もISOの世界に住む同類である。その方たちの審査を受けた企業ではマネジメントシステムが継続的改善を達成し、製品やサービスの品質が良くなり、リスクの低減、遵法の徹底が進んだ証拠の提示を求めたい。
きっと彼らの審査を受けた会社ではデータ改竄もなく、品質トラブルもなく、品質問題を起こさず、環境事故もないに違いない。
万一不祥事、事故が起きていれば、そのようなことを語る権利がないのはもちろん、審査員をしているはずがない。
なぜなら、指導するというのなら、指導の結果、改善がなければ己の力量不足を認め職を辞すに違いない。なにせ、適合性審査ではなく、改善指導をすると語っているのだから
男なら腹を切る覚悟であろうと察する。まさに尊敬に値する。(皮肉である)
このメンバーには女性審査員はいなかった。
女性は自害するとき短剣を喉元に突き立てるのが作法と聞く

確認する。
世に報道された事件、事故を起こした企業にはゼーッタイ関わっていないでしょうね?
そのような企業の審査に関わっていたなら、かような豪語をするはずがない。きっと尻尾を巻いてどこかに隠れているに違いない。
もし、審査した企業の品質が良くならず環境パフォーマンスが良くならなかったとして、「審査は企業、組織を良くするために行うのだ」と語っているなら、嘘つきか精神異常であろう。

それほど高尚なことを言うまでもなくより具体的現実的なことであるが、審査員が審査以外の行為・指導を行った場合、認定機関から認定の停止とか取り消しを受ける恐れがあるだけでなく、審査を受けた企業から損害賠償の対象となることをご存じないようであった。これに関してはIAFがいろいろな指針を出している。しっかり勉強されて、審査した企業から訴えられないことを陰ながら期待する 

その中の一人の方は審査の現場で「その要求は規格のどこにありますか?」なんて聞かれるともう逆上してしまうというようなことを語っていた。審査とは審査基準を満たしているかを調査し判定するものだという原理原則を理解せず、品質コンサルとか環境コンサルになったようなおつもりである。
もっともコンサルタントなら指導に疑義を呈された場合、逆上して良いという理屈もないだろう。
審査をする側される側が同等なら、審査員が逆上するのなら組織側が逆上する権利をありそうだ。

コンサルタントをしようというのなら、審査員とまた違ったキャリア資質が要求される。しかしここではコンサルの力量については論じない。
ISO規格に基づく適合性審査とは高みから平民を治めることではなく、同じ立場で証拠の確認を行い適合性を判定することである。応対者から疑問を呈されたなら不適合であることを説明し納得させなければ審査員の力量がないということである。それができずに逆上するとはいかなることでしょうか?

もちろんすべての審査員、あるいは審査機関がこの方々と同じではないことは知っている。しかし少なくともここに狂信的いや指導責任を感じている審査員(複数)がいたという事実は否定できない。
ちなみにこの方々にISO19011や17021、その他JABコードを読まれているかとお聞きしたが、もちろん存じ上げているとのこと。知っているということは、その存在あるいは文字の並びを知ってはいても、中身 意図を理解していないのでしょうか?

この話から、私は善意の押し付けを思い浮かべた。
人は善人であるべきだが、他人に善人であることを求めることはできない。そのようなことはできないだけでなく、倫理的・論理的に要求できるはずがない。
悪人を善人にすることは不可能で、できることは抹殺するか社会から隔離することだけである。
異議ある人は証拠を提示願いたい。お互いにISOの世界に生きているのだから。
おっと、立証責任を私に求めてはいけない・・それは悪魔の証明になる。
そして他人に自分の善意を押し付けることはまた道徳的であるはずがない。更に道徳的でないだけでなく、善意の押し売りは、相手にとって善意ではなく、つまり善意の押し付けは論理的に不可能なのである。


本日の教訓

小さな親切大きなお世話
親切の押し売りお断り





Yosh様からお便りを頂きました(07.10.29)
とうた様、
女性は自害するとき短剣を喉元に突き立てるのが作法と聞く
自刃の方法は喉元と言ふよりも首の頚動脈を切ることをすると聞ひてます。
ギョエー・・・・・
Yosh師匠 参りました
確かに喉を切っても死にはしません。
ドクターコトーに喉を詰まらせた人の喉にボールペンを突き刺して呼吸をさせる場面がありました。
平にご容赦を・・

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