環境審査 レッスン4 2005.11.20
審査員はISO規格を知り、審査する事業と技術について知り、人間的に完璧でなければならないのか?
ISO19011を読むとそんな気がしてくる。
ISO19011を読むために2625円も出すことはない。
工業標準化調査会にアクセスすればただで読めます。
少し前、たまたまお会いした某審査機関の取締役が「ISO19011を満たしたら神様だよ」と語っておりました。日本に神様がいないことは確かなようですから、ISO19011を満たした審査員はいないということでしょうか?
本日は審査員の持つべき力量について愚考いたします。

1992年頃、私がはじめてISO9000の審査というものを受けたとき、審査員はものすごい知識のある専門家だと思っていた。
man7.gif なにしろ私は講習会などに行ったことがなく、コンサルタントを頼んだわけでもなく、先輩や上司にISOシステム構築の経験者がいたわけでもなく、ただひたすらISO規格の本を読んでいただけでありました。ですから、文書管理とは一体どこまですればいいのか?とか、この記録で教育を立証できるのか?などと分からないことばかりで、不安とまでは言わないが、確信などありません。まして審査員と議論をしようなんて思いもよらなかった。
当時は第三者審査の黎明期であり、審査員も審査機関も多くはなく、規模の小さな審査機関など審査員が3人も来ると一人は経営層(トップマネジメント)であるということも珍しくなかった。当時審査員の多くは、ISO9001の審査員になる以前は保険会社の依頼を受けて建造中の船や石油プラントなどの審査をしていたという経歴をもっていた。保険を引き受けてよいかどうかの判断をしていたわけだ。
裏書き、アンダーライターそのものだね。
大企業の管理職で取締役になれずに審査機関に出向して審査員になりました、という現在の多くの審査員とは生い立ちが異なっていた。審査員であるだけでなく、審査という分野のプロフェッショナルであった。
もちろん当時は『酒だ、オ♀ナだ』などというトンデモ審査員もいたのは事実。
当時と現在の審査員に比べると、まさに草食動物と肉食動物の違いがある。
当時はJIS規格もあったが審査する側も審査される側も、だれもがISO規格の対訳本を使っていた。
mose.gif 規格の解釈においては審査員の一言一言が十戒の石版に刻まれた言葉のように尊重され、審査事例自体が少なかったので審査員がこう言ったああ言ったということが集められて、それが企業を超えてISO事務局担当者の間で流通し、審査を受ける企業では解釈集として重宝されたのである。
まさに神の言葉である。

それからニ三年たって、ある審査のオープニングミーティングで審査員が「ISO規格については私たちよりみなさんの方が詳しいでしょう」と語ったことがある。
確かにその頃になると、審査とはどんなものかというのが知れ渡ったことと、受査側にも審査員講習会を受講した者がいるところが多くなり、規格についての知識レベルは審査側、受査側ほぼ同等となった。
実際、そのような力関係(知識関係?)になるのは時間の問題であった。エントロピ増大の法則は情報においても正しく、いかなる秘密も情報化社会においては隠し通せないのだ。
受査側が審査に不平不満を持つようになったのは、まさにこの時期からである。神様と人間では争いになるわけはないが、人間同士なら争いが起きるのは歴史の必然。しかしながらこの時代はまだ審査側と受査側は対等ではなかった。まだこの時代は審査員は身分が高く「泣く子と地頭には勝てない」という状況であった。
地頭とは鎌倉時代に各地の荘園を管理した御家人である。
このウェブサイトではISOだけでなく歴史も文学も勉強できるのだ。 
mankomatta.gif 審査員が神でなく人間なら、語ることがおかしければ受査側は納得できない。審査員がおかしなことを言って困っているというような話があちらでも、こちらでも聞かれるようになった。
この時代は各企業のISO事務局のなげきがISOエレジーとなって日本全国で歌われたのである。

90年代末になると、もはや受査側の知識は審査員の知識を超えたと言ってもいい。具体的な例として、受査側も審査員補どころか審査員登録をしている者もおり、受査企業の事務局員の登録番号のほうが審査員の登録番号より古いのも珍しくなくなった。こうなると先輩が構築したシステムを後輩が審査するようなかたちとあいなる。
更に専門分野については、いうまでもない。特に環境の審査では受査側のほうが環境法や工場運営について審査員より詳しいのは当然である。なぜなら、ISO以前から公害規制などのためにしっかりと勉強して運営していないと、手が後ろに回ってしまうから。
廃棄物処理法なんか一夜漬けで知ったかぶりをすると恥をかくのは目に見えている。廃棄物処理法のボリュームは騒音規制法の10倍以上あるのだ。
審査員が「環境側面はどのようにして特定したのか?著しいのを決定したのか?」などと聞くのはやぼというもの。
環境側面とはありてあるもの、体で知っているものであり、いまさら説明も困難というのが本当のところである。計算で何点以上とか、上位何位までという論理では、この日本の環境規制の中では生きていけない。
審査員様のために紙を浪費し、エクセルの計算で電力を浪費しただけである。
そして04年版となった今、4.3.2法的及びその他の要求事項で「環境側面にどのように適用するか」などと追記されたが、まともな会社なら、文書化したか否かはともかく、過去からどのように適用するか認識していたのである。

但し、非製造業の企業では環境法規制などにまじめに取り組んでいなかったところが多いから、審査員の力関係(知識)はいまだに受査側より上にある。
これも時間の問題であろうが・・
man4.gif しかしながら当時はまだ泣く子と地頭の力関係は続いた。そして嘘八百を語る審査員はまだいたのである。
受査側は悔しさで唇をかみこぶしを握り締めて、ひたすらガマンしていたのである。

21世紀になると、もう審査機関は受査側と対等になった。
その理由として、審査登録機関が乱立して競争原理が働くようになったことがある。また、問題がある審査機関に対してはJAB(日本適合性認定協会)が認定の停止をためらわず行うようになったことがある。
ISO事務局の知識レベルはますます向上した。更には規格の解釈(というのもおかしい。規格の読み方かな?)で疑義があると、ISO事務局はISO-TC委員会やJABあるいはUKASに問い合わせるということに躊躇しなくなった。なにしろ事務局担当者はこれで飯を食っているのだから。
私は審査員に「これはUKASで要求していることです」と言われたので、早速電子メールで問い合わせたことがあった。その結果、そんなことはないと回答があり、審査員にその旨を伝えた。
その時の審査員の顔は・・・
その審査員殿はイギリスまで英文で問い合わせることなど、下々には考えもつかないだろうと踏んでいたようだ。
IAFガイドに『審査や審査登録に対する苦情や異議申し立てができる』と決めてあることも広く知れ渡った。あげくにそういったことを審査時に説明しなかったり、審査ガイドやホームページに苦情窓口が表示していないと、それ自体に苦情を申し立てる人がでるようになった。苦情を受け付けた審査員、審査機関は更新時にJABに報告しなければならないのもJABの規則に定めてある。
いやあ〜、90年代初期から審査員にいじめられていた私にとっては、パラダイムが変わりパラダイスになったように思えます。 
こうなると審査員受難の時代である。

しかしまてよ、それは受難の時代であろうか?
そうではない、これが第三者審査登録というスキームのあるべき姿ではないのか?
受査側は規格に書いてあることを実現し、審査側はシステムが規格に適合しているか否かを粛々と調査して適否を判断するというのが本来の姿であるはずだ。
 規格はこう書いてあるなどと講釈を語っていただくことはない。
 審査員の個人的思いなど聞くこともない。
 我々は付加価値のある審査なども求めてはいない。
私たち受審する組織は規格適合を確認していただければ十分なのです。

規格の理解については審査側は受査側に追いつかれた。
審査企業の環境側面やそこに適用される法規制について、受査側より詳しくなることは不可能である。
ではこのような時代、審査員はどうあるべきなのか?
審査員はどのような研鑽を積むべきであろうか?

だが、そんなことを悩み心配することはないのではないか?
審査は何のためにするのか?
それはただ組織の規格適合の判定をクライアントに報告することではないのか?


本日のまとめ

審査の本質は、
 規格が異なろうと改定されようと
 全然変わっていないのである。




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