憲法はどうあるべきか? (2003.01.23)
古鷹様よりご意見をいただきました。


憲法について一言申し上げます。

これは極論かとも思われるかもしれません。
そもそも憲法なる成分法が必要なのかどうかについて若干の疑問点があります。
何故そのようなことを申し上げるかと言いますと。成文法とする事により、必ず文面の一言一言に囚われ重箱の隅をつつく枝葉末節な事柄にこだわり本当に国民の為になる政策が出来なくなる恐れがあります。
どんなすばらしい法律を創っても必ずこれに対し無益な議論をふっかける輩が必ず出て、国内において必ず無用の混乱が生じるのではないかと思われます。むしろ日本古来からある歴史を大事にその時々の対応を繰返しよりよい慣例にしていくことにより時代時代に即応した対応が可能になるのではないかと思われるのです。
つまり、第何条何某などではなく、だれもが賛成できる基本的な精神を置いておく程度で良いのではないかと考えているのですがご意見を賜りましたら有り難いと思います。極論かもしれませんがそのようなことが頭によぎって仕方が無いのです。


『重箱の隅をつつく』とはまさしく私のような輩でございましょう。 
古鷹さまのご意見にたいする真正面の回答にはならないと思いますが私の思うことを書きます。

憲法というのはもともと日本語にはなかった言葉です。
英語の『constitution』とは構造とか体系という意味だそうです。明治の御世にこれを日本語に訳するとき昔聖徳太子が作ったと言われる「17条の憲法」の言葉を当てたに過ぎません。17条の憲法と現在使われている憲法の語義はまったく違います。
17条の憲法でいう「和をもって貴しとなす、とか、篤く仏法を敬え・・・・」は人間の道を説くもので否定するものではありませんが、国家の姿を示すものではありません。
似たようなものにモーゼの十戒があります。これは道徳律で国の権利責任を示していません。17条の憲法、十戒、法三章では国の規範とは言えません。
憲法とは何か?
といえば『国家の規範』でしょう。あるいはもっと広い意味で『国家の形』を示すものだと考えます。
それは国の形、すなわち立法・行政・司法あるいは国防といった仕組みを国民に示すものである必要があるでしょう。
またそれは国民の権利・義務を決めたものではなく、国家の権利・義務を決めたものではないでしょうか。国家が何をすべきか、何をしていけない、国民の権利を侵害してはいけないと決めたものと思うのです。
それゆえか日本国憲法の英語原文は助動詞として『shall』が使われています。つまり絶対的な命令形で書かれています。それが当然と思います。ところが日本語版は『されない』『できる』などなど理念なのか、願望なのか分からない文章となっています。
  この辺からおかしいなと感じるのですが・・・・

ということで憲法とは、理念ではなくある程度の枠組みを示す規則である必要があります。
では成文憲法でなければならないか、不文憲法であっても良いのか?ということですが・・・

憲法の第一義が国を規制するものとしても、そのほかにその意義は多々あります。
ひとつは国家の概要を内外に示すという意義があります。
日本には現在1800本の法律があります。それは基本法から個別法というある程度体系化されたハイラルキーとなっています。その全体像を示すものが憲法であると考えます。

日本国憲法が日本の国を現しているか否かは疑問なところがありますが・・・

体系化されずに必要に迫られて法律が制定されていけば、目次のない本のようにいったい何がどこにあるのか分からず、しらみつぶしに読まないと漏れが出る
そこで概念を示し、下位規定とのつながりを示すものが欲しい、それが憲法であると思います。

どんなとき憲法は制定されるか?
アメリカ独立、フランス革命、ロシア革命、明治維新後の日本
いずれの場合もこれからこの国はこういう形を作っていくのだ!ということを内外に示したわけでしょう。

もし、憲法がなければ諸外国から信頼されないと思います。
人治主義という言葉がありますが、まさしく中国のように担当者、政治家の裁量で物事が動いていくのであれば交渉する人は安心できません。法治主義ではその心配はありません。

イギリスには成文憲法はないのか?
確かに憲法と称する一冊の本はないでしょうが、クロムウェルや権利の章典という実在する文書の積み重ねがあるわけです。イギリスは憲法があろうがなかろうが国王がいようがいまいと民主主義のわけですよ。
しかしながら民主主義国家と好戦的か平和的かは無関係
古代ローマは民主主義時代は戦争に明け暮れ、帝政になって対外戦争はしてない。
  もっとも戦争がなくなったから帝政になったとも言えるけど・・・
私が思いますには憲法とは、少なくとも違憲裁判くらいできなくては不十分でしょう。
理念だけを示すものが憲法なら、違憲か否かを判断できないでしょう。
それであれば違憲裁判は裁判所の恣意にゆだねられてしまう。
裁判官の信任が国民によって問われていない(機能していない)日本ではそれはできない。裁判官に裁定を任せることはできません。
私は現状でも内閣法制局や裁判所の解釈を諾とできない。読み方で意味が異なるならそれは憲法ではありません。もっと明確具体的な規範を要求します。
そしてその文章をそのまま読み取って現実に不具合になったなら、憲法を変えるべきなのです。
もちろん、統治・決定の手段は情報や物理的移動手段の制約によっています。
IT技術の進んだ現在、情報通信技術を反映し、違憲判定を裁判所に任せず国民投票で行うならそれはありえると思います。
私の文字解釈、逐語解釈がお気にいらないかもしれません。
でもね、
私のレベルの評価に耐えられなければ、その憲法は穴だらけで低レベルなものでしょう。
憲法に限らず、会社から会社への公文、契約書、会社規則といったものは5W1Hがあり、あいまいさを極力排除し、読んで分かり、実行が可能なものでなければなりません。
繰り返しますが、憲法は
念仏ではなく、裁判官により内閣法制局によっていかようにでも読まれるものではなく、現実と憲法は違うんだとか、建前と本音だよとか言われてはいけません。
それでは憲法の名折れです。

憲法って?成文か、不文か?
憲法は現実を定めるものであり、国民すべてに理解され、遵守されなくてはなりません。
もし、現実の物理的環境が変れば、国民の価値観が変れば、それに合わせなければなりません。
同性の結婚を認めるのか、外国人に選挙権を与えるのか、国会や裁判所の構成を変えるなどは憲法で定めることであり、具体的事項を定めることの意義はあるのです。


本日、古鷹様よりお便りをいただきまして、とりあえずとして考えを書いたものですから、論理の生煮えのところが多々あるかと思います。
いずれまた考えをまとめてお答えしたいと思います。



古鷹様よりコメントをいただきました。(2003.01.25)

憲法の在り方について
早速ご意見を頂きありがとうございます。
現在の憲法を見てみますと、国を混乱に陥れることが容易なように出来ております。
たとえば、思想の自由結社の自由・・・自由なんてありません。日本を陥れる思想や行為も自由なんでしょうか?
また、国の宗教行為を禁じている。国の為に命をかけた方々を宗教的儀式なしで出来るでしょうか?
そして天皇陛下が行われることの多くは神事に則って為されているものでありどう考えても天皇の地位と神道が標的にされているとしか思えないのです。
これ等ほん一例をみてもこの憲法が如何に私達の精神を病んできたか日本を混乱に陥れるようにできていることが判ります。そしてその意志がマスコミを始めとして蔓延している限り或は世界(アメリカ)に準じた法律を創るしか選択肢の無い現在の日本ではこれを守ることはどう考えても成分法とする限り無理なのではないかと判断せざるを得ない。
言いかえれば改正はアメリカの意志に沿った形のせいぜい九条の改正が出来るかどうかあとは文言の改正程度になるとしか思えないのです。
そもそも、現在の憲法は、サンフランシスコ講和条約で廃棄されるべきだったのでは無いでしょうか?
改正が望めないならば、一旦廃棄して基本精神のみ規定しあとは其の精神に沿ったものにて裁判所における解釈論で対応するのが良いのではないか其の事実を積み重ねそれを憲法としていくのも方法ではないかと思ったのです。
佐為様には貴重なご意見頂きありがとうございました。また、私も勉強してまいります。今後も貴重なご意見賜りたいと存じます。
古鷹 拝

古鷹様、コメントありがとうございます。

論点が多岐にわたっております。
  • 憲法は具体的であるべきか、理念であるべきか?
  • 憲法は成文であるべきか、不文であるべきか?
  • 現憲法が成立の過程を考えれば正当か否かの問題、
    それを理由に現憲法を破棄できるか否かの問題
  • 現憲法の内容の問題
  • 改憲に対してアメリカの影響の懸念
  • 現憲法を改正できるか否かの可能性
まあ、たくさんあります。
いえ、もっともっと検討課題、あるいは憂慮すべきことがあるでしょう。
私のような一サラリーマンが快刀乱麻、一刀両断、どうのこうの言える問題ではありません。

私も古鷹様と同じく現状を憂慮しています。
しかし、現実は大多数の人たちが『平和憲法』という虚名にだまされ、それを信じているのです。
改憲と言えば、即 自称平和主義者(本当は反日日本人)が軍国主義と反論してきます。
憲法改正だ〜と『正論』を唱えても簡単に改正できるわけはありません。
待ち構えているのは護憲論者、良心的軍事拒否主義者と自称する人たちとの果てしない論戦(怒鳴りあい)という泥沼に入るだけです。

では、今できることは何か?
私たちの論理を固めること、それを一般の方々に伝えること、疑問をもってもらうこと
そんなことを進めていきたいと思います。

司馬遼太郎は明治維新は覚醒した3000人によって行われたと書いています。
当時の人口は3000万人、それをたった3000人で動かしたのです。 では今の日本に1万人の覚醒した人間がいるならば憲法改正なんていうけちなはなしではなく日本を回転(レボリューション→革命)することができるはずです。
一般市民の目を覚まさせること、それがなすべきことです。
憲法改正とか、解釈などはその結果です。
今は国民が民主主義に目覚めていません。 日本人は戦後教育とサヨクの洗脳によってだまされ眠り続けているのです。
 いわゆる市民運動とは目覚めているのではなく扇動されているだけ
しかし少なくとも古鷹様とジジイここにがいます。私たちの同志だけでも20人はいるでしょう。
歩みが遅いかもしれませんが、すこしづつ、日本を良くする機は熟していると考えております。
私の愚かな憲法論はそんな趣旨を達成するためのホンの小さな部品あるいは行動であると考えております。

細かいことを突っつくとかというのはまあ、私の性格でしょう 
ただ、私の言いたいことは
  ・憲法の条文を暖簾のごとくぶら下げているだけのホームページ、
  ・護憲!護憲!と叫ぶホームページ、
  ・憲法改正だ! 憲法破棄だ!と叫ぶホームページ、
  ・怪しげな憲法改正案を示すホームページ
それらに対抗して、一般の方々に憲法をよく読んでみようよ、現在の憲法の本当の姿はどんなものか知って欲しいとアッピールするのが目的で作っております。

  ・現憲法を絶対として崇めるのではなく
  ・単に憲法解釈で理解しようとするのではなく、
  ・憲法の成立根拠から正当か否かという観点ではなく、
  ・憲法を宗教のごとく平和と自由と信心するのではなく
憲法が自分たちの生活といかに関わっているか?いかなる効用、矛盾があるのか、まずいところは直さなくちゃいけないというメッセージを伝えたいというのが私の本意です。

「おまえの解釈はおかしいんとちゃうか」というご意見が弁護士とか法学者の方からたまにありますが(本当ですよ)、そういうところもあるでしょう。でも私に言わせると憲法が生きて日本人の生活に結びついていないのは法曹そして法学者の無責任でしかありません。

北朝鮮が今日本にミサイルを打ち込んだら日本はいかなる対応ができますか?
反撃する軍備があっても法的には反撃できないのです。あるのは超法規的行為あるいはクーデターでしょう。
先般、有事法制に反対された方々は、そういったことを理解して発言しているのか?はなはだ疑問です。単に北朝鮮や中国に味方しているだけではないかとさえ感じられます。

歩みが遅くとも賽の河原の石積みであろうとも、私は広く憲法の実態を発言することが私がしなければならないことと認識しています。
言い換えるとこのホームページは私の趣味ではなく、神が私に与えたもうた使命であると考えております。

「私が思いますには、憲法の文言を直すとかという以前に、
国民の目を覚まさせ、意識を変えることが課題なのです。」



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