首相靖国参拝は合憲か違憲か 2004.02.07
おくで様からお便りを頂きました。(2004.01.31)

友人との憲法議論で論拠を探すうちに貴サイトにたどり着きました。明快な憲法批判に感服いたしました。夜中に一人で読んでいて、憲法自身が持つ矛盾に対する指摘を読み、声を出して爆笑する場面もいくつかありました。まだわずかしか読めていませんがまたたびたび来て少しずつ読んでいこうと思います。
今回は首相による靖国参拝と第20条3項に関する友人との議論をご報告したく思いました。
改めて条文を書きます。
「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」
私の友人はこれを指して「小泉首相の靖国参拝は違憲である」と主張しました。彼は特に左寄りと言うわけではないのですが、「憲法が軽視されていることのあらわれだ」ということです。朝日新聞を取っているということで、その主張を鵜呑みにしている向きもあるようですが」
小泉首相は「国を守るために命を落とした人たちに敬意を払うのが主目的であって宗教には当たらない」といった趣旨の発言をしていますが(私の解釈)、私の友人は「憲法は宗教『的』活動を一切禁止している。神社に参拝すれば議論の余地なくそれにあてはまる」と言いました。
確かに「宗教『的』活動」に当てはまると思います。
では違憲なのか?
これに対して「憲法自体がおかしいんだ」と反論するのは簡単ですが、私はあえて英語原文に当たってみました。
Article 20:3) The State and its organs shall refrain from religious education or any other religious activity.
    要点は二点あります。
  1. refrain は抑制する、差し控える、慎む、という程度の意味で、「禁止する」「認めない」といった単語よりもいくらか弱い
  2. religious activityは「宗教的活動」よりも「宗教活動」と訳したほうが適切であろう。辞書によればreligious bookは宗教的書物ではなく、宗教書となる。「宗教的活動」の英訳ならkind of religious activityとでも言うべきだろう。
正しい訳としては「国およびその組織は宗教教育もしくはいかなる宗教活動も差し控えるべきである」となる。ちなみにrefrainという単語は第12条
Article 12:\r\nThe freedoms and rights guaranteed to the people by this Constitution shall be maintained by the constant endeavor of the people who shall refrain from any abuse of these freedoms and rights and shall always be responsible for utilizing them for the public welfare.
でのみ使用されていて、「自由および権利の濫用は慎め」という文脈になる。自由および権利の濫用というのは非常にあいまいで大きな裁量が残されるところであって、だからこそrefrainという単語が用いられている。
つまり宗教活動という単語には裁量が存在することを認めており、厳格に「ちょっとでも宗教的匂いがするものはすべて排除せよ」と言っているわけではないことがわかります。第20条3項の本来の意味はまさに佐為さんがおっしゃるとおり「国およびその機関は国教を定めてはならず、特定の宗教に利便を図ってはならない。」という程度の意味しかないんでしょうね。結局日本語訳はそこまで考慮できなかった誤訳だと言えるのではないでしょうか。
もちろん小泉首相の「公務や国家行事としてではなく、個人としての内閣総理大臣の参拝」は「差し控えるべき国または組織の宗教活動」とは言えず、むしろここでは個人の思想・宗教の自由が優先されるケースだと思います。
以上私の、私の友人に対する反論で、今は再反論待ちの状態です。
長々と失礼しました。以後も佐為さんのご活躍をお祈りいたします。
お便りありがとうございます。
英語の翻訳はこのジジイよりはるかに明るいと思いますのでコメントを差し控えたいと思います。

別のほうから思うところを申し上げます。
実際問題として、宗教的行為か否か?ということは一般論で語られているのではありません。
ほとんどの場合、靖国にまつわり異議を呈されています。
中国あるいは朝日新聞は学校でのクリスマスやひな祭りを批判糾弾したことはなさそうです。(それともありましたっけ?)
同時に靖国参拝を宗教的行為であるとする意見も日本国憲法公布直後からあったわけでもないのです。
なにせA級戦犯を靖国に祭ろうといったのはかの社会党。
当時と現在では価値観といいますか、倫理と言いますか裏返っているようです。

そういったことを考え合わせると、朝日や中国のキャンペーンは宗教的行為であるか、憲法違反であるかという観点ではなく、靖国に行ってはいけないというメッセージであろうと受け止めております。
じゃあ、なぜ靖国参拝に反対するのかの理由は、誤解を恐れずに言えば『彼らは日本人が自立してほしくない』ということだと考えております。
いつまでもグズグズしていて中国や朝日新聞の言うことを聞いてほしいのだと言うことでしょう。

おくで様からお便りを頂きました。(2004.02.03)

首相による靖国参拝が合憲か否かで友人を説得中(?)のおくでです。
私はこのキャンペーンは宗教的行為であるか、憲法違反であるかという観点ではなく、靖国に行ってはいけないというメッセージであろうと受け止めております。
ご意見ありがとうございます。
私も佐為さんとまったく同意見です。議論するのもバカバカしい茶番だと思います。
しかしそうした政治的背景は抜きにして、それでも合憲かどうかを法律論で議論したいと思いました。
(と言っても憲法どころか法律の基礎知識もないドシロウトですが)
やはり日本はかの大陸にある人治国家とは違い、法治国家ですから。
結論から言えば、憲法を素直に読めば、参拝は違憲なんでしょう。
前のメールでは英語原文を挙げましたが、日本語とどちらが優先するかと言えば当然日本語の憲法が優先されるべきでしょう。日本国の憲法なんですから。

それで法解釈ですが。
「内閣総理大臣」と記帳すれば「国の組織」の一員であることを認めているし、靖国神社に行って参拝する、というのは「宗教【的】活動」でしょう。素直に「宗教【的】活動」を解釈すれば、「ちょっとでも宗教の匂いがするもの!」に当たります。
わが国が誇る日本国憲法は、国とその組織によるすべての宗教っぽい活動を一切禁止するクソ憲法だと言うことができると思います。
まあ前文に「人類普遍の原理」(←超人類的な存在を肯定!)なんて宗教的な言葉を使ってますから、自己矛盾を抱えているような気がするんですが・・・。
残念ながら私の友人に言わせれば↑は「激しく言いがかり」ということですが・・・どちらが始めた言いがかりなんだか。
憲法をちゃんと読めば読むほどどうしようもない憲法だと言うことだけは分かってきました。
むしろなぜ私の友人があれほどまで憲法改正に反対し、憲法をありがたがるかの方が不思議になってきました。
その辺をもっとくわしく聞いてみたいと思います。


おくで様、お便りありがとうございます。
「首相の靖国参拝は合憲か違憲か?」という議題についておくで様が違憲という立場をとったならば、ディベートの理(ことわり)として、私は合憲である立場を取らざるを得ません。 
なにしろ私はアントニオ猪木に倣い「誰の挑戦でも受ける」のですから。

おくで様は「日本国憲法は日本文が正である」と条件をつけましたので、当然私もその条件で反論することを誓います。私は英語より日本語、特に東北弁のネイティブなので英語が得意なおくでさんとわざわざ条件が不利な英語で闘うことはありません。

舞台が舞台ですから本当のディベートの手順にならないことはご了解願います。
肯定側の立論の後に続く反対尋問は省略し、ここでは否定側の立論にはいります。
否定側とは「違憲を否定する意味」です。

ではまいります。
宗教に関する憲法の条文は第20条のみが該当する。
    第二十条
  • 第1項 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
  • 第2項 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
  • 第3項 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
論点を確認します。
    首相が靖国に参拝しても、
  • 何人かに対して信教の自由を侵してはいない。
  • 首相が参拝しても靖国神社が特権を与えたことにはならない。
    評判とか話題になることは特権には当たらないでしょう。
    特権とは税を納めなくともすむとか、犯罪を犯しても起訴をまぬかれるということをいいます。
  • 靖国神社が政治上に権力を行使したわけでもない。
  • 首相が他の閣僚に「一緒に行かないと更迭だよ」と言ったとも聞かない。
  • 首相が靖国神社で宗教教育とか講義をしていないようである・・・・
よって違憲か合憲かという論点は「国及びその機関が、宗教的活動をしたかどうか」ということ一点であることにまず同意願います。
おくで様からご異議ないようなので(当たり前か?)次に進みましょう。

機関とは一般的に法人や団体などの意思を決定、あるいは代表する地位にある自然人、組織、法人をいうそうです。当然、首相が国の機関であることは自明です。
では首相が靖国参拝することは宗教的活動になるのかについて考えて見ましょう。

考えなければならないこととしていくつかあります。
  1. 首相はいつも国家機関であるか
    参拝したときに内閣総理大臣と記帳すれば、それは即国家機関として参拝したということでしょうか?
    いかがわしい扇動をするときに「○○博士だれそれ」と肩書きをつけることはその方のご意見の正しさを裏書するものではないことは事実が証明しています。最近のダイオキシンや環境ホルモン騒動では専門分野の研究者やドクターでさえ信用できないということを証明してくれました。もちろん専門外のドクターならば信用できるという意味でもありません。
    同様に「ノーベル文学賞受賞者何某」といってもその方の政治的発言が市井の人より正しいとか信頼できるなんてことがないのも実績によって証明されています。そればかりでなくそのかたの小説がすばらしいのかどうかさえ証明されていないのです。
    肩書きをつけるのは単に何もないとはずかしいとか、あるいはもっと積極的な意味で「エエカッコ」したいからつけるに過ぎないでしょう。
    私の名刺には何の肩書きもありません。ちょっと寂しい  

    まあ、記帳するに当たり個人の姓名のみを書くか、内閣総理大臣と肩書きを記帳するかが大違いということはなさそうです。
    もし、首相が常に国家機関でないならば、違憲かどうかという論議以前に棄却といいますか門前払いになるのは当然です。
    でも靖国を参拝したのは国家機関としての首相であるといわないと話が弾みませんので首相は一日24時間国家機関であり靖国参拝した時も国家機関であるということにして進みましょう。
    ところで首相がトイレに行くのも風呂にはいるのも国家機関としての行為なのでしょうか?

  2. 首相が国家機関として靖国参拝するのは違憲であるか?
    首相が靖国神社に参拝することは国家機関としての宗教的活動でしょうか?
    ところが日本最大、最高位にある伊勢神宮に首相やその他の大臣が参拝するのを「違憲だ!」と騒がないところを見ると神社に参拝すること自体は宗教的活動とはみなされないと判断してよろしいでしょうか?
    宗教的活動の程度によって合憲違憲の閾値(「しきいち」あるいは「いきち」と読みます)があるのでしょうか?靖国神社のような大きな神社に参拝することは宗教的活動なのでしょうか?田舎の鎮守様にお祈りする程度なら宗教的活動でなく合憲なのでしょうか?
    この場合、論点は「靖国参拝だけが宗教的活動か否か」ということになります。

    単なる神社に参拝することではなく「A級戦犯が・・・」という論理もありますが、そうしますと論点は冒頭に確認した「靖国参拝は違憲であるか否か・・・」とは異なってしまいます。
    あるいは靖国参拝は伊勢神宮と違い政治的行為だというならそれもまた憲法20条に関しての論議ではありません・・・・・よね?

    最近流行の無宗教施設を作れ!という論があります。
    無宗教施設とは何でしょうか?
    ネアンデルタール人の時代から死者を弔うという行為は宗教的行為であると考えてよいでしょうか?
     ご異議ないようなので、
    そうしますと死者を祭る、冥福を祈ることはすなわち宗教的行為、よってそれにかかわる施設も宗教的なものと考えてよろしいでしょうか?「無宗教施設」とは宗教に関わらないということではなく、今までの宗教とは違う新しい宗教の施設であるということでしょうか?
    そうしますといかなる宗教に対しても憲法20条は適用されますので、困ったことになります。
    それとも無宗教施設は死者を弔うのではないというのでしょうか?戦没者を弔わないで将来の平和を祈るのだと・・・・ちょっと待ってください。平和を何に対して祈るのか?あるいは何者にお願いするのですか? これは更に困ったことになります。単なる憲法違反ということではなく、そういったものを考える論理性、そこに参拝する人の良心が試されることとなってしまいます。

    ところで国家機関であれば首相は一切の宗教的行為が禁じられるのでしょうか?
    国家機関といえど何人(一国民一個人)であり、憲法20条1項で保障する思想信教の自由は保障されるはずです。
    ゆえに宗教活動というものはこの個人として保障されているものを超えた場合に適用されることと考えます。
    もし、首相の靖国参拝が違憲であるとするならば、20条1項と3項の整合はどのように考えるのでしょうか?

  3. 神社に参拝するのは宗教的活動であるのか?
    靖国神社に限らす宗教施設に参拝することは宗教的行為(ふるまい)であることは間違いありませんが、それは宗教的活動というのでしょうか?宗教的行為と宗教的活動は同じものでしょうか?
    「活動」とは広辞苑によると「働き動くこと・いきいきと行動すること」とあります。
    法律ではどうでしょうか?法律の第2条で「活動」という語を定義しているものは見つけられませんでした。(全部見たわけじゃありませんからあるかもしれません)しかし定義されている「活動」を含む語句としては次のようなものがあります。
    • 東ティモールにおける国際連合平和維持「活動」
    • 特定非営利「活動」
    • 事業者の事業「活動」
    • 配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護を図るための「活動」
    これらからわかることは「活動」とは通勤途中歯ブラシを買ってくるというような気軽な片手間仕事ではないことは明らかです。少なくとも大宮から上野に通勤している人がわざわざ品川まで足を伸ばして買い物してくるくらいの負担といいますか意気込みがいることを示すように思います。
    首相が靖国参拝することは国家予算を計上し、国会の予定を変更したりするほどの重大な活動ではないことにご同意いただけるでしょうか?
    あるいは違憲側から活動の定義を提案されることを期待します。
    IN GOD WE TRUST
    IN GOD WE TRUST
    そういいたしますと、首相が講演会で「日本は神の国だ」と語るくらいは宗教的活動には当たらないのは間違いありません。
    イギリスは世界で唯一自国用のキリスト教を持っていますが、それでも国家として宗教的活動をしているようにも思えません。
    アメリカのコインに書いてある言葉をご存知ですか?でもアメリカは国家として宗教活動しているわけではありません。
    警備の警官を動かす費用がかかるとか、首相ご本人が決断するに当たり非常に負担があり「活動に該当する」といってはもはや論理的な議論にならないことにご同意いただけますでしょうか?
    憲法では行為ということばも使われています。
    第一章では「天皇は国事に関する行為のみ行う」とあります。
    特別国会でお言葉を賜るようなことでありましょう。「行為」を「活動」と表現するものに比較しますと、その差は確かにあるのではないでしょうか?

    私が考えるに「宗教的活動」とは国家機関である自然人が神社をお参りするようなことではなく、公立学校の行事として地域の鎮守様に参拝するとかいうレベルのものではないのでしょうか?どこに閾値があるのかと問われれば、ある程度計画的に行われ国家または自治体のリソースを消費するようなものでなければ「活動」には当たらないと考えます。

    としますと、靖国を参拝することは宗教的行為(ふるまい)であっても国家財政や行事に影響を与えるような宗教的活動ではないといえます。
    そういたしませんと私の立論が成り立たないので・・・・ 


  4. 更にさかのぼりますと、靖国に参拝することは宗教的行為なのでしょうか?
    ちょっとまってください、現閣僚にだって創価学会の会員はいます。学会の方は自宅で念仏を唱えていると思います。それは宗教的行為ですよね?そういった行為は宗教的行為とは言わないのでしょうか?
    「味噌も○○も一緒にするな」という理屈もあるかもしれません。でもそうしますと宗教的行為とそうでない行為の間にはどこかに閾値があるのでしょうか?
    もし靖国神社に参拝するのは宗教的行為であって、湯島天神に願をかけに行くのは宗教的行為ではないというならば、どのへんに境目があるのでしょうか?
    選挙の際に事務所には神棚、だるまの目を入れるなどなど宗教的行為ではないのでしょうか?まあ選挙期間中はまだ議員になる以前でありまして国家機関でないことは確かでありますが・・・・

    尊敬する相方よりご指導を頂きました。(2004.02.07)

    くだらないツッコミです。
    お元気そうで何よりです。選挙がらみのダルマの目入れですが、今問題になっているのは宗教的云々より、身障者に対する差別だ!などと宣う輩が多く、意外と自粛しているのが現状なのですよ。

    ご指導ありがとうございます。
    なるほど、普段から差別語を使うなとは言われていますが、だるまの目までそう解されているのですか!
    うかつなことは言えないのですね。
否定側の立論を終わります。
肯定側の反対尋問をお願いします。




おくで様からの反対尋問 2004.02.14
おくで様より反論を頂きました。(2004.02.14)
佐為さん、反論ありがとうございます。
佐為さんのことですから素直に「うん、私も違憲だと思うよ」と言ってくれるとは思っていませんでしたが(笑)
おくで様は「日本国憲法は日本文が正である」と条件をつけましたので、当然私もその条件で反論することを誓います。私は英語より日本語、特に東北弁のネイティブなので英語が得意なおくでさんとわざわざ条件が不利な英語で闘うことはありません。
まず初めに断わっておきますが、私の英語力は佐為さんよりはるかに劣りますので、よろしく。
その証拠に英英辞典を持ってません。使えません(笑)

で、違憲論者としての反論を始めます。
正直なところ、佐為さんの反論を読んでまた転向したくなったのですが(笑)、「私は議論のための議論も好きなのです」とか言われてしまったので、もう一度違憲論者として反論してみたいと思います。

それで、例の友人にこのサイトを紹介して「反論したらどうだ」と言ったところ、2,3意見をもらいました。
それで友人の反論をうまくまとめようと思いましたが、やはり自分の意見ではないのでうまくまとまりません。
そこでところどころ、注釈を入れながら友人の意見を紹介することにします。
友人と私が同意見の部分については特に触れないことにします。
なお友人には「コピペもしくはおれが意訳して公開していいか」と聞いたところ「お好きにどうぞ」との言質をいただきました。
しかし、一切の文責は私にあるということも明言しておきます。

始める前に、「宗教」を辞書でひいてみました。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』
宗教(しゅうきょう)は一般に、神・超越的存在・聖なるものなどについての信念や信仰、信念や信仰と結びついた個人の態度(超越的なものとの関係)・活動(礼拝など)・制度(寺社、教会など)信者の形成する社会などを表す。 」
太字がキーワードになるかなと思います。
では始めます。
よって違憲か合憲かという論点は「国及びその機関が、宗教的活動をしたかどうか」ということ一点であることにまず同意願います。
この点、異議はありません。
1. 首相はいつも国家機関であるか
首相であってもイッコの人間である限り、プライベートを切り離すことはできないし、首相になったとたんに無宗教になれというのは「信教の自由」に反しますから、「首相はいつも国家機関であるか」という問いには、はっきりノーと言えると思います。

しかし、「内閣総理大臣の肩書きにおいて行動するとき」は、「国と組織の一部」と言えると思います。
家のトイレで用を足しているときは、総理大臣という肩書きは関係ないですから、私的行為でしょう(笑)

しかしこの定義にも少し問題があります。
首相官邸に住めるのは首相だけです(法律があるのか知りませんが)。ということは首相官邸に住んでいる間は24時間、首相なんでしょうか。首相官邸でのトイレは公的活動になりそうですね。
首相官邸にクリスマスツリーを飾ったり仏壇を置いたりすることはできないようですね(笑)
憲法第20条3項によれば、首相官邸に首相として居住する者には宗教の自由はありません。(^^)

「ちなみに博士だのノーベル賞受賞者だのいう肩書きで、発言・行動が信頼できるとは限らない」という主張ですが、同意できませんね。
だって未だに多くの人が朝日新聞の主張を上から下まで信じてるじゃありませんか。歴史教科書の書き換え問題、従軍慰安婦、その他多数の嘘記事。「新聞」という肩書きでさえこうなんですから、首相となればどうでしょう?
重要なのは「肩書きが主張を裏書するか」ではなく、「みんなが信じるか」という影響力でしょう。
あすいません、朝日新聞のほうが首相よりも支持率高そうですね・・・。
じゃあ言い直します。
 1.「誰か知らないが政治家が講演に来るそうだ」
 2.「誰か知らないが元首相が講演に来るそうだ」
みなさん、どちらに行きたいと思いますか。
2. 首相が国家機関として靖国参拝するのは違憲であるか?
首相が靖国神社に参拝することは国家機関としての宗教的活動でしょうか?
ところが日本最大、最高位にある伊勢神宮に首相やその他の大臣が参拝するのを「違憲だ!」と騒がないところを見ると神社に参拝すること自体は宗教的活動とはみなされないと判断してよろしいでしょうか?
騒がれないからと言って無問題だと言うのは早計ですね。
靖国参拝自体、終戦後数十年は静かだったと聞きます。
今まで見逃していただいていたのだとの解釈も可能です。
時代が変われば価値観も変わります。
言い出した人の都合が変わったのでしょう。
最近流行の無宗教施設を作れ!という論があります。
無宗教施設とは何でしょうか?
ネアンデルタール人の時代から死者を弔うという行為は宗教的行為であると考えてよいでしょうか?
うーん、ここで私の友人と意見の相違がありました。
弔うという行為は、魂・霊〈名前は何でもいいですが〉といった超自然的な存在を程度の差こそあれ認めますから、宗教的といえるでしょう。
そこで彼に
「死者を埋葬し、弔うことは、既存の宗教色を まったく排しても「宗教的活動」に当たると考えてる?
宗教色を完全に排した国葬と言うのはありうる?」
と聞いたところ、
『既存の宗教色をまったく排してるなら、宗教的活動には当てはまらないのでは?ただ、弔うだけならいいが、埋葬するとなると宗教色が出てくると思うがどうか?』
という謎の答えを得ました。
以下コピペ。長文ですが。
『で、国葬という話だが、結論から言うと、しない方がいいでしょう。ってことだ。
したとしても、埋葬ってのはナシで、写真だけ飾っておけばいいかな。
それで、さぁ、国民の皆さん各自弔って下さいと言う。。
コレなら、アリじゃないかな。
ただ、埋葬って話になると、そうはいかない。
各宗教によって、違いがある訳だし、下手したら、国民的英雄の肉が食い散らかされるぞ!
憲法が信仰の自由認めてるなら、俺のやり方でやらせろ言うやつが出てきて当然。
そうでなくても、例えば国葬をキリスト教などの特定の宗教に則った場合、何で、オレの神様使わねーんだ!って非難でるって。
そんなことに労力割くのって、馬鹿馬鹿しくないか?
これで、答になってるよね。』
答えになっているかどうかはみなさんでご判断願います。
無責任ですいません。
私はここまで宗教に詳しくないので・・・。
(肉が食い散らかされる葬式というのは、南米のハゲタカに食べさせる儀式のことでしょうか)
    しかし、
  1. 今まで知られている宗教をすべて排したつもりの国葬であっても、「その動作は○○教の□□に当たる!」とか言われちゃったらどうするんでしょう?(笑)
    小泉首相の靖国参拝でも、自分はまったく神教における宗教的活動だと思っていなかったのに、そう指摘されてしまったわけで。
  2. 実際がんばってどの宗教にも属さない、完璧な儀式をできたとして、それが「はい、じゃあ今からそれ、日本教ね」と認定されてしまったらどうするんでしょう?(笑)
まあこのへん、佐為さんの主張の繰り返しになりますが。(ちょっと違うかも)
平和を祈るというのも宗教的行為ですね。
超自然的な存在を認めない限り、祈るという行為は無意味に思えます。

結論:
第20条3項に従う限り、国葬もしくは○周忌、平和祈念行事を公的活動として行うのは大変な神経を使うことになりそうです。
3. 神社に参拝するのは宗教的活動であるのか?
それは宗教的活動というのでしょうか?宗教的行為と宗教的活動は同じものでしょうか?
首相が靖国参拝することは国家予算を計上し、国会の予定を変更したりするほどの重大な活動ではないことにご同意いただけるでしょうか?
程度の差はあるにせよ、ほぼ同意せざるを得ません。
じつは私、ここが一番のハードルだと思っています。
これを切り崩すのがもっとも困難でしょう。

ここでも友人の言葉を借りましょう。
『真剣に、日本を守るためにがんばった人たちを弔いたいというなら、活動でしょ?』
私の意見としては、これでは反論になっていないと思います。
小泉首相は宗教的活動をがんばったのではなく、がんばった点は「アジア諸国」と国内サヨク勢力に対抗することであったということです(いわば政治的努力?)。
普通、国のために命を落とした人たちに感謝し、平和を祈ることは特別努力が必要なことではないですから。(特別な信条の人は除く〉
あ、祈ってるから宗教的行為か。でも活動とは言えない。
靖国参拝の折に、太平洋戦争の戦死者が神社に祭られていることがいかにすばらしいことか、について演説したら、宗教「的」活動でしょうね。(宗教活動ではないな〉
あるいは違憲側から活動の定義を提案されることを期待します。
佐為さんは「活動」を含む法律まで論拠として持ち出してきています。私としてはそれに対抗する手段を持ちません。(友人君、頼む)
警備の警官を動かす費用がかかるとか、首相ご本人が決断するに当たり非常に負担があり「活動に該当する」といってはもはや論理的な議論にならないことにご同意いただけますでしょうか?
友人も特に反論してないですから同意してるんでしょう。

この項に対する私の反論:「活動」の定義に議論の余地あり、しばし猶予を。(もうだめかも)
4. 更にさかのぼりますと、靖国に参拝することは宗教的行為なのでしょうか?
宗教的行為ですね。
ちょっとまってください、現閣僚にだって創価学会の会員はいます。
学会の方は自宅で念仏を唱えていると思います。
それは宗教的行為ですよね?そういった行為は宗教的行為とは言わないのでしょうか?
宗教的行為には違いありませんが、自宅で念仏は全然公的活動じゃないですね。
無問題。
選挙の際に事務所には神棚、だるまの目を入れるなどなど宗教的行為ではないのでしょうか?まあ選挙期間中はまだ議員になる以前でありまして国家機関でないことは確かでありますが・・・・
ご自分で結論出しておられるので、特に反論は必要ないですね。
以上、違憲側の反論を終わります。

ここで改めて私の立場を整理しておきますが、私の友人とは大きな点で相違点があることを強調しておきます。
    それは、第20条3項は、
  • 私:
    宗教色をまったく排することを強制する可能性を持っており、これは人間の感情や慣習・歴史を無視した非現実的な条項であり、即刻改正すべきである。
  • 友人:
    宗教色をまったく排することができるすばらしい条項であり、人を間違った方向に向かわせるリスクを減らせる一つの解法である。 (おそらく宗教が今まで何度も戦争の原因になってきたという「前科」について言っているのだと思います)
以上、長文失礼いたしました。
また、私ごときの駄文を「おたより」コーナーでなく「日本国憲法」コーナーに取り上げていただいたことを感謝します。(と言っても期待にお応えできているか心許ないですが)
それでは。
おくで

おくで様、ご意見ありがとうございます。
実を言いまして、ディベートであれば、反対尋問のみでなく自分の立論を正面に持ち出すべきです。
すなわち相手側の立論の瑕疵を付くのがメインデッシュではなく、自分の意見を正当化する理屈が第一ということです。その意味では私の立論を否定する論は承りましたが、首相参拝が違憲であるという積極的アイデアはまだ承っていないと考えます。
まあ、前回も述べましたが本来のディベートの条件ができていませんから多少はやむを得ません。でも私の合憲論を否定するだけでなく、積極的に靖国参拝が違憲であるとする論をお待ちしております。

ところで、おくで様からの靖国参拝違憲の論を頂く前に、おばQジジイは暇をもてあまして私なりの首相靖国参拝違憲論を考えておりました。
ここにアップしますのでご参考に願います。(参考にはならないか?)
ディベートであるならば自分が正しいと考える論点だけでなく、与えられた論点にたって最善を尽くすべきであり、それが「考える」ということであると思います。
将棋でも囲碁でも自分側からだけ盤面を見ていてはいけません。相手側からも見て形勢や最善手を考えなくては進歩がありません。

首相靖国参拝は違憲である(佐為説) 2004.02.14
お断りしておきますが、私が首相参拝が違憲であると考えているわけではありません。
しかし首相の靖国参拝を違憲とする論理をまじめに考えたことは事実です。
ではまいります。

首相靖国参拝は違憲であるという立論を行います。
まずいかなる行為がどの条項に反するのかを申し上げ、その理由を簡単に述べます。

「首相が靖国に参拝することそのもの」が、憲法20条1項にある「いかなる宗教団体も国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」に反します。
靖国神社と一般の神社や寺が異なるのはそこに祭られているご神体が異なることにある。靖国神社の神はまさしくこの世に生を受けた過去に実在した人々であり、それぞれの立場がどうであれこの日本のために命を捧げた方々であるという一点にある。ゆえに靖国神社は日本という国家と切り離すことはできない。日本という国家そのものでもあるのだ。それは靖国神社が主張しようと主張しまいと、我々国民が声に出そうと出すまいとすべての日本人が認めているところであろう。それに比べて伊勢神宮がいかに歴史があろうが日本中の神社の総本山を名乗ろうが近代日本という国家とのつながりはない。
首相が靖国参拝することにより、靖国神社が受ける利益・効果はほとんどないが、参拝した首相が得るものは極めて大きいものがある。その得るものに比べれば中国や韓国の抗議などは一顧だにする価値もない。革新政党や一部メディアが反対するのは首相の権威が増大することに対する脅威の表明であり、宗教団体を基盤にする政党が抗議するのはその基盤とする宗教の相対的地位低下を恐れているからだ。
では首相が参拝して得るものとは何か?
それはまさしく日本という国家の正統性を受け継ぐ政治家としての認証を得ることである。
よって首相靖国参拝を違憲とする根拠は憲法20条1項にある「国及びその機関はその権威付け及び行為の正当化にいかなる宗教団体からも特権を受け、または政治上の権力に用いてはならない」ということにある。
憲法の原文と主語と目的語が入れ替わっておりますが、それはこの条文の意図を違えているわけではありません。むしろその本質を現しているといえるでしょう。いかなる宗教も国政に影響を与えてはならないが、それは同時にまたいかなる政治家も政党も宗教による権威の裏づけを得てはならないということです。
首相は靖国に参拝することによりまさに錦の御旗を得ることができるのです。
錦の御旗とは明治維新のときに官軍が掲げた日の丸の旗指物(はたさしもの)ですが、偶然にもそれは靖国神社に奉納されています。
しかしながらこの方法は絶対的なものではありません。すなわちすべての政治家が靖国に参拝すればこの効果は参拝者すべてに等しく与えられ特定の者が独り占めすることはできないということです。
だが、日本人を代表し正統性を継承する政治家であるお墨付きを得るために靖国神社に参拝することはたやすいことではない。前述した反日活動をする国々と同盟を強化したいとする政治団体あるいは政党に所属する政治家にはその同盟関係を壊す懸念から実行困難であり、あるいはまた唯物史観を唱える政党はその理念から参拝することのハードルが高い。そしてまた独自の宗教団体を母体とする政党は当然他宗教の施設に詣でることはできない。しかしいずれの政党もその理由をそのまま表明することは自らが日本の正統を受け継ぐものでないことを示してしまい、それはできない。そこでとられる手段はA級戦犯が祭られていることを申し立てることであり、あるいは宗教に関わらない施設を作ることを提案することしかない。 近隣諸国が反論するなどという論理はまさに犬の遠吠えでしかない。
野党党首や宗教を基盤とする政党指導者が中国に行って、かの国の指導者から首相の靖国参拝批判の発言を引き出すのは中国の意向もあるだろうが、実は首相が靖国参拝によって権威を独り占めしてしまうことに対する愚痴であり政治家の本音であるのだ。
考えても見たまえ、
中国にしてみれば首相が靖国参拝しようがしまいが彼らの内政外政に影響することはまったくない。日本の首相が靖国に参拝してもしなくても国内報道するか否か、及び国民にどう反応させるかは彼らの恣意でどうにでもなるのだから。
SARS報道規制や留学生の演劇に対する抗議行動に対する国家規制を思い出してほしい。
中国指導者にとっては少しでも多額の援助を引き出すために、日本の首相に靖国参拝してもらい、それを問題とするほうが良いのである。
結局、違憲であるということの論点は靖国神社の威光を参拝した首相が独り占めすることに対する批判であり、事実それは違憲なのである。
なぜなら信教の自由は何人に対しても保障しなければならず(憲法20条1項)主義主張によって誰もが平等に行えない手段を選択した首相の行為は公正(フェア)なものとはいえないからである。
聖書に手を載せて誓うことは就任の際の義務であるが、執務執行にあたり十字架を掲げることは許されないのだ。
しかし、ここでまた問題がある。靖国に代わる無宗教施設を作っても、それが日本の国家を表し歴史の正統性を継ぐものとは日本人は認めないだろう。その施設にすべての政治家が参拝してもやはり日本の国家の礎(いしずえ)となった人々を祭った靖国神社に参拝する政治家はいるだろうしそれを止めるわけにはいかない。
もしそれを禁止することは心の内面への干渉でありまさしく憲法20条第1項への違反なのである。
そして新たな無宗教施設ができたときでも、靖国に参拝する政治家は日本を体現した政治家、日本の正統を受け継ぐものとしての威光を受けることは間違いない。
なぜなら、現時点でさえ靖国神社は国家からいかなる支援も受けていない一宗教施設に過ぎないのだから、いかに新しい戦没者を祭る施設ができようと靖国神社にとって関係ない話なのである。
ということは無宗教施設が新たにできたところでまったく問題は変らないということではないのか?

靖国神社の菊の紋 日本を真に解体しようとするならば、首相に靖国参拝するなと抗議するだけではなく、靖国神社から菊の紋をはずさせ、天皇を廃止するしか方法はない。
それはまた現行の日本国憲法に対する大いなる憲法違反である。(憲法第1条・14条・19条・20条)
現行憲法は矛盾をはらみながら日本という国体を最低限保持するためのシステムなのである。

それを考えるとわずかな齟齬をとらえて憲法違反と叫ぶのではなく、自ら求める国家体制を示す憲法を提示すべきではないのだろうか?
それはきわめて危険な賭けであることは誰もが認めるだろうが、


尊敬するYosh様よりお便りを頂きました。(2004.02.15)

とうた様の論を読んでおります。そこで思うことがあります。
日本を真に解体しようとするならば、首相に靖国参拝するなと抗議するだけではなく、靖国神社から菊の紋をはずさせ、天皇を廃止するしか方法はない。
それはまた現行の日本国憲法に対する大いなる憲法違反である。(憲法第1条・14条・19条・20条)
現行憲法は矛盾をはらみながら日本という国体を最低限保持するためのシステムなのである。
これで彼ら(反日グループ)がしていることがわかるようです。国体維持ができないようにするのが彼らの手段で売国の目的を持つているからではないでしょうか。最低限の保持ではない、日本国の国体の保持を明言した憲法を持つことがあなたの日本国のためではないでしょうか。
日本国の要人が外国へ行きその国の無名戦士の碑に参拝することはどうなりますか。広い意味で靖国神社を参拝するのと同じではないでしょうか。政治と宗教の分離を言われるのは限られた宗教への利益を政治から得られないこと(また逆の場合)が必要であるからなのではないでしょうか。政治家が神様や仏様にお伺いをたてて国政左右するのはどう見てもおかしいでしょう。
なお私は無宗教も一つの宗教であると思うています。
外交官や政府高官が外国に行って無名戦士の墓などに詣でることは国際的な礼儀でありましょう。しかし、その行為によって国内的に評価されるかどうかは直接的な関係ではないと思います。政治家がとるさまざまな行為の中で日本人が評価するものとしないものがあるのです。
真日本人 以前小泉首相がシベリアで抑留者の墓参りしたとき、厳しい寒さの中にもかかわらず、外套を脱いで手を合わせている姿が報道されましたが、そういった行為は日本人の琴線に触れるものでありましょう。その意味では小泉さんは日本人の特性を知り尽くして演技しているのかもしれないし、無心でそういう行為をしているならば個人としてはまっことの日本人であるのでしょう。
左翼系の政党指導者が旧あるいは現共産主義諸国で無名戦士の墓に詣で、あるいはかの国の軍隊の閲兵を行い「頼もしい!」と発言しても、そりゃあ誰も見向きもしません。
誤解があるかもしれませんが、政治家が神様や仏様にお伺いを立てて政治をするという意味ではありません。首相になるには天皇の認証がいりますが、天皇にお伺いして政治を行うわけではありません。それと同じ意味で、偉大な首相であるというお墨付きをいただけるということを言いたかったのです。
無宗教もひとつの宗教であると言うのはまさしくそのとおりであると考えます。簡単に言えば「私の価値観は既存の宗教ではないのよ」というだけでありましょう。


尊敬するnotti様よりお便りを頂きました。(2004.02.24)

佐為様の靖国参拝違憲説、拝読しました。
非常にまじめに考えられた文章、知的好奇心をそそられました。面白かったです。
読んでて思ったのですが、日本国憲法は内部に矛盾があるのではないか、と思ってしまいました。
いえ、言葉の枝葉末節とかのことではなく、もっと根本的なことです。
ここに「天皇を認めない」という人がいたとします。このこと自体は合憲です。思想信条の自由があるからです。しかし彼が首相になることはできません。なぜなら、首相は天皇が任命することになっているからです。彼は自分が認めない存在から任命されることを拒みます。すると、これは法の下の平等に反します。なぜなら、思想信条で差別してはならないからです。彼は、特定の思想を持っていることで、職業選択において不平等な取扱いを受けていることになります。
佐為様の靖国参拝違憲論と同じ構造になっていませんか。
言いたいのは、天皇の存在を前提とした現憲法は、反天皇の思想の持ち主に対して「思想の自由」と「法の下の平等」の両方を保証できないのではないか、という疑問です。あるいは、これは反体制の思想をどこまで許容するか、という問題でしょうか?
体制の問題とは、政治の正統性をどこに求めるかということだと思います。天皇が首相を任命するということは、今でも日本は政治の正統性を天皇に求めていることを意味します。無論、天皇の地位は国民の総意に基づくとあるので、天皇の任命=国民の任命とみんな思っているわけですが。この辺、佐為様は如何お考えでしょうか。
米国では大統領の宣誓式で聖書を用いるのが通例です。これは、政権の正統性を「聖書の唯一神」に求めることを意味してるような気がします。もし、イスラム教信者が当選すれば、コーランを用いることは許されるのでしょうか? もし米国憲法に「聖書を用いるべし」と書いてあり、「思想の自由」と「法の下の平等」を謳っていれば、日本国憲法と同じ矛盾を抱えることになるはずです。
notti師匠!そうありがたく取られると困りますよ。
何度も書いておりますが、おくで様とのディベートにおいて、私は自己の信念に関わらず与えられた論点において最善を尽くすディベーターの範を示そうとしただけで・・・
師匠も論点を多々持ち出すので対応できるか自信がありませんが、
  • 天皇を認めない人が総理大臣になれるのか?
    なれます。
    昔江戸時代、キリシタンが改宗するとき「エホバに誓って改宗します」と言わないと官憲(つまり同心などでしょう)は認めなかったということです。要するに論理的あるいは形式の問題ではないですか?
    戦争状態において上官が戦死すると与えられた命令を無効にしてくれるまでそれを遂行していないと脱走兵になるという事態もおおいにあったのです。
    だから天皇を認めない人でも天皇に任命されなければならないのです。
    私があげた靖国参拝は少しといいますかニュアンスは異なると思います。靖国参拝は形式ではないのです。必要条件ではないのですから敬意を表したくなければ参拝する義務はなくそれによる形式上の不利益はありません。
    私が上記で憲法違反といっているのはあくまでもそういった権威を利用するという手段がアンフェアであろうという理屈をこねたのであってそれが絶対正しいかはまだ反対尋問を受けていません。
    おくで様は卑怯にもリタイアしてしまいました。 
    今となるとKABU先生の違憲立論を待つだけです。
    ということで、notti師匠の疑問は私にとっては問題と思えません。
    反天皇主義の方が首相に指名された暁には、若干心穏やかでないかもしれませんが、短い時間だけ我慢してもらい天皇に任命されて首相になり、憲法第一章改正案を提案し、国会で可決され、国民投票で承認されれば『天皇によって国民の名で』憲法改正案を公布するという手はずになるだけです。
    但し、私は憲法改正不可能説です。
    私の理解では現憲法は改正はできず、ただ修正しかできないはずです。
    もちろん天皇に任命されるのを拒み、自ら憲法を破棄し、新しい憲法を制定する方法も取れます。
    これは一般的にクーデターとか革命と呼ばれて民主的な手段ではないと評価を落とします。  なにしろ自ら正統な後継者ではないことを示すわけですからね。
    ナポレオンは冠をかぶせてくれる人がいなかったので、自ら冠をかぶりました。
    ということであまり評判はよろしくない。
  • アメリカ大統領はキリスト教でなくともなれるのか?
    論ずる前にちょっと細かいことですが、「聖書の唯一神」といっても聖書そのものはイスラム教もユダヤ教でも共有しているのです。ただ単にイエスが神であるか預言者の一人であるかの見解の違いに過ぎません。
    ですからイスラム教とキリスト教の関係は、それらと仏教との関係と比べて比較にならないくらい近縁関係にあるのです。
    それはおいておいて、
    アメリカ憲法において宗教あるいは大統領就任に関する記述は次のとおり。

    第2条 第2節
    (八)大統領はその職務の遂行を開始する前に、次のような宣誓あるいは確約をしなければならない。「私は合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽して合衆国憲法を維持、保護、擁護することを厳粛に誓う(あるいは確約する)」。
    Before he enter on the Execution of his Office, he shall take the following Oath or Affirmation:--I do solemnly swear (or affirm) that I will faithfully execute the Office of President of the United States, and will to the best of my Ability, preserve, protect and defend the Constitution of the United States.

    第6条 (三)前述の上院議員および下院議員、各州議会の議員、ならびに合衆国および各州のすべての行政官および司法官は、宣誓または確約により、この憲法を擁護する義務を負う。しかし、合衆国のいかなる官職または信任による公職についても、その資格として宗教上の審査を課せられることはない。
    The Senators and Representatives before mentioned, and the Members of the several State Legislatures, and all executive and judicial Officers, both of the United States and of the several States, shall be bound by Oath or Affirmation, to support this Constitution; but no religious Test shall ever be required as a Qualification to any Office or public Trust under the United States.

    修正第一条 連邦議会は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない。
    Congres shall make no law respecting an established of religion, or prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech, or of the press; or the right of the people peaceably to assemble, and to petition the government for a redress of grievances.
わしは大統領じゃ いかがなもんでしょうか?
まず第一に大統領になる際の宣誓についてですが、文言からはキリスト教である必要はありません。
厳密に言えば宗教でなくとも良いようです。
「swear」とは深刻・真剣な約束であり、「affirm」は公式に言うことで宗教的な意味はないようです。
よって『文字解釈上、矛盾はありません』

また宗教に関してのアメリカ憲法の定めですが・・・・ご参考になったのではないでしょうか?



首相靖国参拝違憲訴訟判決がでた(2004.02.27)
    ヨミウリオンラインやアサヒコムから要約すると
  • 2001年8月13日
    小泉首相は公用車で靖国神社を訪れ、私費で供花料を支払い、「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳して参拝した。
  • 2001年11月
    関西や在韓の戦没者遺族ら631人が原告となり「参拝は政教分離を定めた憲法に違反し、精神的苦痛を受けた」と、国と小泉首相、靖国神社に1人1万円の慰謝料などを求めた。 「総理の職務としての参拝は明らかで、特定の宗教団体への援助効果があり違憲」 「靖国訴訟」で初めて被告とされた靖国神社には、参拝受け入れの差し止めを求めた。
    被告側は「職務として行われたものではなく、憲法で小泉に保障されている信教の自由にもとづくものだ」と反論
  • 2004年2月27日
    大阪地裁の判決(村岡寛裁判長)
    自民党総裁選時に首相参拝を公約に掲げていたから「内閣総理大臣の資格で参拝した」と参拝の公的性格を認定
    憲法20条「国及びその機関の活動にあたる」と認定したが、参拝が政教分離に反する宗教的活動かどうかは明言せず。
    「参拝で原告の権利や利益が侵害されたとは言えない」と慰謝料請求を棄却、違憲確認と参拝差し止め請求は却下
  • 今後の動向
    同様に全国6地裁に2000人以上が集団訴訟を起こしており、今後松山、福岡、東京地裁が判決がでる。今回は小泉首相の参拝を巡る初めての判決で「公的な参拝」を認めた今回の判断は、他の訴訟の行方にも影響を与えそうだ。
    「靖国訴訟」では、1985年に当時の中曽根首相が行った公式参拝で遺族らが国などに賠償を求めた訴訟が3件あった。請求はすべて退けられたが、92年の大阪高裁判決は「宗教的活動との性格を否定できず、違憲の疑いがある」と指摘していた。
おばQジジイの考えを申し上げます。
前回も申し上げましたが、私はこの判決の中身に価値があるとは思えません。
靖国だから問題になるのであって、鎮守様であればに問題してないはずです。
ということは宗教問題ではなく、政治問題あるいは中国と韓国との問題に過ぎません。
訴えるほうもそんな姑息な宗教問題としてとりあげるのではなく、中国に対等に付き合おうとするんじゃない、中国様の家来であることを忘れるなと発言すべきでしょう。
もし、靖国参拝違憲という判決が出たら、私は行動します。
刃物を持ってなんてではありません。ネットでも紙の文書でも可能なかぎり行動することを誓います。

でも、靖国参拝で受けた精神的苦痛が1万円なんて笑わせないでほしい。 私が民主党幹部や中国首脳の靖国参拝に対する批判を聞くと受ける精神的苦痛は2000億円くらいなのだが・・・・



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