情報処理のプロが見る日本国憲法 2006.03.04

これはKK様から頂いたものをご本人のご了解を得てまとめたものです。
日本国憲法に関する議論を、憲法学者あるいはエセ憲法学者にまかせておいては面白くありません。
私はISO的解釈という憲法論を書いてきましたが、日本国憲法の理解にまた新たな局面が開けました。ここにあるのは情報処理から考える日本国憲法です。

私は職業専門は情報処理です。ただ、夜学で社会学を学びました。
佐為さんのHPを見て、私の職業固有の特殊なものの見方をお話ししたいと思いました。
私の専門とする、情報処理(論理処理)、および電子工学がそうですが、正理論、負理論という考え方をします。
 例えば、0Vと5Vのオンオフで動く電子回路ですと、
★★★★★正理論: 0V=偽  5V=真
★★★★★負理論: 0V=真  5V=偽
正負ひっくりかえったヒネクレた考え方が負理論なんです。
ところが、電子回路は負理論の方主流なんです。正理論はあまり使われていないはずです。
これは、情報処理でも同様でして、コンピュータプログラムは負理論でないときれいなプログラムになりません。どうも論理処理というのは負理論ないといけないようです。日記と重複しますが、例を変えて説明します。

★ワープロ入力をプログラム風に説明して見ます。
正理論:
1.パソコンの電源をいれる。
2.電源ONは正常か?。Yes.次へ
3.OSは正常起動したか?。Yes.次へ
4.ワープロを正常起動できたか?。Yes.次へ
5.文書入力。

負理論:
1.パソコンの電源をいれる。
2.電源ONは失敗したか?。Yes.終了。
3.OSは起動は失敗したか?。Yes.終了。
4.ワープロを起動は失敗したか?。Yes.終了。
5.文書入力。

正理論が、成功したか?の判定を続けるのにたいし、負理論が、失敗したか?の判定を続けると思ってください。
現実にプログラムを組んでいると、正常処理は(ほぼ)1つで、エラーパターンは無数という事実に気がつきます。

結果、集合の要素からエラーを取り除き、残ったものが正常処理という考え方が向いていることに気がつきます。

人は生理的に何が正しいのかという考え方をします。
ですが、私は何がダメなのか、ダメなものを除いた結果が正しいという考え方が現実的であると良く思います。
これは、論理学(ベン図、いわゆる集合、ド・モルガンの定理とも言いますね)固有の視点です。

文章に能動態、受動態があるように負理論、正理論があり用途により上手に使い分けるべきだと思っています。
こういう見方もあるのだなと読んでいただければ嬉しいです。

最後に貼り付けた日記は、「憲法は国家を規制する理念である」という考え方を知らないでかいたものです。あしからず。
※日記にたいして、「憲法は国家を規制...」の話しを聞き、(@@)とのけぞってこちらのHPを発見しました。

「憲法は国家を規制する理念である」は出自はどこかわかりませんが、日本憲法をきちんと読んで判らないものが前提にあるのは異常です。
本当に、国が滅んでしまうと思います。

余談ですが、社会学では2人以上の人間が集まると社会(家族、集団、組織、一族、民族、国家)ができるという考え方をしていたと思います。
ですから、国家から個人を守るという発想は歪に感じます。私には許容できません。
   

日記からのコピー

正理論と負理論 法律改正についてである。
電子回路を齧った者であれば、これは常識なのであるが。
すべからく、理論には正方式と負方式がある。
 電子回路であれば、
 正理論: ゼロ=オフ  1=オン
 負理論: ゼロ=オン  1=オフ
設計する時に、どちらかを選ぶ。
ナニをひねくれていると一般人は思うだろう。
ところがギッチョン、キリギリス。
電子工学からソフトウェア工学に至るまで負理論が主流なのである。
身近なところでは電話機がそうだ。電話の配線の電圧を調べてみると判る。
回線切断=17V(くらいだと思った)
通話中=ゼロV(ありや、7Vくらいだったかな)
使わない時は電圧がかかっている。
通話中は電圧が落ちるのである。

なんで、こんなひねくれたことをしているかというと、考えれば判る。電話局から見て、
 電圧有り=電線が健在。
 電圧ナシ=通話中か、電話線が切れている。
故障診断と観点からは負理論が優れていると判るだろう。

    ***

さて、法律である。
日本国憲法を見よう。

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
2種類の人間がいる。
1)(他人の)人権を守る人。
2)(他人の)人権を守らない人。
もう判るだろう。人権を守るということは、「人権を守れない人」を取り締まることなのである。
故に、負理論に従うと11条はこう書き直せる。内容は従来と同一であるが趣がことなる。


第十一条 国民は、他人の基本的人権の享有を妨げてはいけない。
このことは侵すことのできない永久の義務として、現在及び将来の国民に課す。
2行目以降はくどい。整合性をとるために書いたが1行目で簡潔かつ十分である。
繰り返しになるが、言っていることはどちらも同一である。負理論にして、初めて、人権を守れない人間の識別が可能なのである。

   ***

この社会がもし、褒章性ならば良いのにね。
(1)人権を守れば賞金が貰える。
(2)守れない人は何ももらえない。

だけど、人権などは守って当然なのである。
ゆえに守っても賞金はでない。

守れない人間は罰則で取り締まる社会なのである。
ゆえに、どうすれば取り締まりやすいかという観点が必要なのである。

   ***

これが論理のA,B,Cなのである。

二十歳くらいの時でしょうか。小さな下請けのソフトウェア会社に勤めていました。ソフトウェアというのは小さいもので、数人で半年。大きいものですと、数十人で数年かけて作ります。日本国内でもっとも巨大なソフトウェアは銀行のオンラインシステムでしょうか。あれは、1次、2次、3次と段階を分けてつくってきた膨大なものです。

また、今のパソコンのCPUは1000万トランジスタなんて言います。
トランジスタが1000万個以上入っているということです。

電子回路の世界の常識にどんな複雑な回路であれ、どこか一箇所ミスがあると全部動かなくなると言います。どこか間違えていても適当に動くものではないのです。オールオアナッシングの世界です。

大船にある某巨大企業のコンピュータ事業部に出向しておりました。
毎日同僚とプログラムを書きます。
 ・全体の設計図に合わせて、部品をひとつづつ作っていきます。
 ・部品ひとつづつの検査を行い、検査結果をドキュメントに残します。
 ・過去作った部品をさらに組み合わせて新しい部品を作ります。

 はじめの頃、テストのガイドラインが判りませんでした。初めてのことですからね。
  1. テストするにしても、順列組み合わせの全テストをするのか。
  2. それとも、要点だけ押さえ、あとは省略して良いのか。
  3. テストした事実を、検査者(私)以外の誰が保障するのか。
  4. 私が嘘の報告書を書いたって誰も判らないわけです。
   ***

 この時、悟りました。
  1. テストしたことをあるがまま、第三者に判るように書く。
  2. テストの仕方が間違っていても良いのです。第三者が、ああ、こいつ間違ったテストをしたのだな、ちゃんとしたテストしたのだなと判るように書く。
  3. 絶対に嘘をつかない。
以来、嘘をつかない。あるがままに。判るようにが私の原理原則です。
数十数百数万の複雑な部品を組み上げるにはきちんとテストしてお互いに嘘をつかないで品質保証して持ち寄りましょうという姿勢が大事なんです。

完全な人間なんていません。ですからミスもあります。
でも、間違えても、「ああ、あいつは何か勘違いしたのだな」と擁護してくれます。逆に、意識的に嘘をつくのであれば、 100のうち1つが嘘だから、残り99も嘘だろうとなります。

社会で、会社で、チームで人が社会を営んで行くにはこれが絶対規則だと信じています。

  ***

ひるがえって、日本国憲法はどうでしょうか。
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

私には理解できないのですが、自称法科の大学院生曰く。
「憲法は国家を規制する理念に従い、国民の権利を侵害してはいけないことをあらわす。したがって、国民が他の国民をレイプしようがここでは頓着しない。」
だそうです。

私にはこの解釈は不可能です。条例本文に書かれていない事柄を前提にするなど嘘とこじつけの世界です。正々堂々と「これは国家犯罪を禁止する項である」と文中に宣言すべきです。
宣言はしない。解釈の段階でそれを常識とする。メチャクチャです。

   ***

かりに、法科の常識だとすれば、
  1. 読んだ人間の前提でどうとでも解釈できる文章は、規則としてあってはいけない。
    読んだ人間がてんでんばらばらに解釈できるのは、私のあるがまま、お互いに判るようにの原則から離れます。
  2. おまけに、普通に読んだ解釈が異なることを法科の人が知っているということは私の中で完全に「嘘つき」です。
  3. 憲法の前に、子供向けの解説よろしく、つけりゃ良いもんです。
原文は、文章として不完全な状態で初出したので、(カッコ)で補い日本語として完成させる。
(憲法は国家を規制するという理念から、国家権力より)国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、(国家の)侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。(ただし、これは国家の自己規制なので、国民が北朝鮮に拉致されようが、ここでは考えない)

ここまで、やってくれれば、誰が読んでも、まあ、判るので許せるのですが。

     ***

「多くの人が、11条で私の人権は憲法で保護されているはずだ。正当な権利だ。私の権利を保証するのは国家の義務だ。」と考えと思います。
普通に読むとそう感じるはずです。

これでは国が滅びます。

実際、知人が嘆いていました。小学校が学級崩壊している。
問題児の両親にあうと言うことは常に同じ「学校(つまり国ですね)が悪いから、こういうことになるんだ。」この根底には、自分の権利を主張するのは当然。それがうまくできないのは国のせいだという意識を感じるわけなんです。

根拠はありません。何か都合の悪いことは国(人)のせいにする甘ったれの温床になっていると感じますね。私は。

長文失礼しました(ストレスたまっているもので)。

PS.
佐為さんのHPから投稿からの抜粋。
過去に国家が国民の人権侵害をしてきた歴史を踏まえ、国家権力が暴走しないように、歯止めをかけるために日本国憲法ができたということです。ですから、国民はその主体ではないのです。
んな馬鹿な考え方がどこから出てくるのか。
国家(政府)なんて、所詮、人の集まりです。国家が人権侵害したんじゃなくて弱肉強食、弱いもの虐めがおきただけです。国家という独立した生き物なんかありません。

国家を人格化して、国家に責任転嫁しているだけです。
むしろ国家(政府)を構成するメンバー一人一人の責任の所在がうやむやにされそうで悪寒を感じます。

人間社会の本質を忘れた思想では、社会は統治できません。
国敗れて山河ありです。国がなくてもどっこい人は生きています。
人がいる限り国が生まれるんです。




KK様から追加コメントを頂きました(06.03.07)
佐為さん、こんにちわ。
KKです。
先日、HPを拝見しました。ああみると、我ながら言葉が足りないなと思い恥ずかしいものですね。
先日来、私が書いていた日記のURLはこちらです。
   ***
あと、これは、やはり日記からの抜粋ですが、私の憲法に対する結論は、憲法の問題ではなく、GHQ法を翻訳した東大(帝大)学閥の問題であると行き着きました。
結局、自分達の翻訳ミスの誤魔化し、自説への執着が現在の憲法問題の本質と見ますね。
憲法が国を滅ぼすのではなく、東大(帝大)が国を滅ぼすと考えなおしております。
日露戦争では確か総戦死者が20万人以上(確か27万人とうろおぼえ)、実際の戦死者が7万人で、あとは脚気による栄養失調死だそうです。
同じことが戦後、法曹界に起きたのでしょうか。
こんど、暇をみつけて法律の本を読んで見ます。観点は慶応閥系と東大閥系の解釈の違いでしょうか。



 さて、この日記もこれでおしまい。
今回、つらつらと思うにベアテ・シロタ&GHQが憲法を英語で起した。
これを日本語訳したグループがいたのだろう。
これは東大(帝大)閥系のグループないし、いまの法務省の前身となるグループだったのではないかな。
推測として、このグループは戦後の法科教育を担当したであろう。
護憲グループに上記を逸する解釈と、文言の変更に対する拒絶反応は、翻訳グループのミスを晒すことであり、タブーだったのではないかな。
学閥の憲法翻訳時の誤訳、不適切な文章作成を肯定することは所属する学閥の非難となり、タブー視され、なにがなんでも正しいという決め付けられたのではなかろうか。。。

   ***

日露戦争では、戦死者は戦闘ではなく、脚気(ビタミンE欠乏症)による死者の方が多かったという。
当時すでに、臨床的に脚気は栄養失調であることは証明されていたが、頑強にウィルス説を主張する森鴎外(森林太郎、東帝大閥)により、戦地に白米を送りつけ被害を拡大したという。
これと同じことが戦後の法曹界にも起きたのではないかな。
憲法の超訳が常識となっていることは、これの証拠と思われる。

KK様、コメントありがとうございます。
KK説によると私のしていたことは無であったということになります。
なぜって超訳を誤訳といったところでアホを語っていただけではないですか。
ああ 無情!
過ちて改めることなく己をウソで塗り固めていたとするならもう手の下しようはありません。
憲法破棄が正しいことなのでしょうか?
まあ、そんな無茶はできませんから、私が生きている間に、いや中国に侵食される前に正しい憲法に改定するしかないようです。
しかしながら、これもハードルが高く・・・



KK様からお便りを頂きました(06.03.12)
こんにちわ。

KK説によると私のしていたことは無であったということになります。
なぜって超訳を誤訳といったところでアホを語っていただけではないですか。
ああ 無情!

わはははははは、佐為さんが、「文理解釈(私の言う言文一致)」から、オカシイとはっきり言うから、何故おかしいんだろう、原因が追求がなされるんですよ。
だから意味はあります。

過ちて改めることなく己をウソで塗り固めていたとするならもう手の下しようがない

私は最近、違う結論がでてきました。
「憲法が悪いのではなく、東大(帝大)閥が悪いのではないか...」
憲法発布後、いざ解釈しようとしたら、欠陥品であることがわかった。主語が抜けているか、草案を作ったベアテ・シロタ女史(当時24歳亡命ユダヤ人)がど素人だったんで、「国王から民衆がもぎとった権利」という概念がずっぽし抜けていた。

    ここで、東大閥には正しい選択が2つあった。
  1. 憲法の改正を行い、正常化する。
  2. 憲法の主語欠落(主旨欠落)の欠点を指摘し、補遺として、「憲法は本来、国家を規制するために生まれた。憲法にはこれが抜けているので、今後、この考えを補足した解釈を採用する」。つまり、東大閥の一解釈としてすすめる。
どちらでも良かったんでしょう。学徒の良識に乗っ取っています。
結果は第3の選択、つまりいまのやり方です。

憲法破棄が正しいことなのでしょうか?
まあ、そんな無茶はできませんから、私が生きている間に、いや中国に侵食される前に正しい憲法に改定するしかないようです。
しかしながら、これもハードルが高く・・

大丈夫ですよ。
すでに、憲法は死文化しています。自衛隊でわかるようにね。
問題は、「軍隊がないから平和を維持できる」と信じている人間が多いことです。
これとても、教育が原因で、教育を正せば解消できます。
しかし、国内で、「オヤジ狩り」問題となっています。
こういう事件を眼にしてなぜ、ああいう考え方ができるのか不思議です。

KK様 毎度ご指導ありがとうございます。
憲法は死文であり意味がないが、それをありがたがっている人がいる限りいわしの頭足りえるというか、足りえているというのが事実なんでしょうね〜
憲法を守れ!という人、それに声援を送る人、そんな人たちが天皇を廃止!靖国反対というのはやはりどこか矛盾しています。
全部が矛盾というのは語義に反するから、すべてがでたらめというのでしょうか?
私たちが一番勇気を必要とするのは自分が間違っていることを認めることでしょう。
せめて己はその愚を侵さないように努めたいと思います。


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