読書の部屋       ミステリ〜編

ある夜の出来事 雑文 よくわからん

 左が夢を見ている自分 真ん中が夢を見ている自分を見ている夢の中の自分 右がなんとなく解説 夢の中に出ている自分を見ている自分がいるのって異常じゃないですよね。きっと普段の自分よりも冷静な自分がいるのだけど。

どこかの部屋、がたくさん並んでいる。僕の友達は今、ザリガニを狩ることで修行をしている。亀か鼈のような友達だ。

まさにザリガニ噛み殺さんとする時、その背後を襲おうと蜘蛛が近づくのが見えた。僕はその手になぜか持つ機関銃をその蜘蛛に向け撃った。蜘蛛は倒れた。

その後、僕の足が蜘蛛の糸絡められた。一旦は切って捨てたが、また巻きつけられる。

足元に小さな点が見える。刺さなければならない。近くにあった蛍光ペンで刺すと蜘蛛の一部が地面に浮き上がった。

次はとても鋭利な鑿でその点を突くと、地面いっぱいに蜘蛛が、そして糸ともども消えて行ったようである。

 

これは夢だ。あの友達とやらはなんだ?あれはガメラか?

蜘蛛は嫌いだ。いや、虫はみな嫌いなのだ。あの蜘蛛に襲われたら友達も殺られるのかな・・・。助けるべきらしい。ああ、あの機関銃はゲーセンにある奴だな、でもあの距離で撃ったらその向こうの友達も木端微塵だろうなぁ。人殺し。

僕は蜘蛛に呪われたらしい。この呪いを解くには、蜘蛛の験を尖ったもので刺すといいらしいなぁ。

ごちゃ混ぜな夢だ。夢分析の価値もない。

これで終るかな・・・・。

この夢を見た頃、鰐亀が世間を騒がしていた。

この頃、僕が読んでいたのは京極夏彦の「絡新婦の理(じょうろうぐものことわり)」であった。

この頃、ゲーセンのスターウォーズゲームにはまっていた。この足に絡めるというのは「帝国の逆襲」で同盟軍が使う戦術である。

この鑿は絡新婦の理に出てくる凶器であろう。夢分析の話しも出てくる。

おしまい。

さてさて、ここでは、ミステリー系というか、僕の読書歴の中で、「SFもの」でなく、「漫画」でなく、「まじめなもの」ではない、物語形式を取ったものを中心に書いて行くものです。はっきり言って、文章のみのページになると思うので退屈で、自己満足的なページになることでしょう。とりあえず書く。

目次

・明石散人〜京極夏彦関連(このページ)

明石散人について
明石散人の作品について
鳥玄坊3部作について

京極夏彦について
妖怪シリーズについて
 「京極夏彦の偽」について

その他の作家関連(梅原克文 福原文彦 雁屋哲 瀬名秀明 半村良などなど、目下増築中)


明石散人ついて

現在はまっているのがこの明石散人京極夏彦ですね。はっきり言って小説家としての完成度は京極の方がはるかに上なのであるが、この明石散人という人、京極の先生、師匠なのである。「鉄鼠の檻」出てくる中央区築地の古書屋?の明石先生のことである。「絡新婦の理」の推薦文も書いている。関口巽曰く「京極堂が「師と仰ぐ人物はひとりしか」いない(塗仏の宴 宴の支度)のであり、それは「中央区一のいい男とか云う・・・尊敬する先生」たる明石である。ここで「(明石先生は)何者なんだ?」という関口の問いには「それが判らないんだって」と京極堂は答えている(以上、鉄鼠の檻)。「塗り仏の宴〜宴の始末」の最後の方にも明石先生が名前だけ出てくる。なんとも謎な人物である。なお、明石散人作の「鳥玄坊 ゼロから零へ」の推薦文は京極夏彦が書いている。先の「中央区一」という表現であるが、明石散人作「視ずの魚」によると、「中央区一」とは「世界一」を指す言葉であるらしい。

明石散人の作品

「狂骨の夢」を読んだ頃から、京極の作品のみならず、あらゆる読書が出来ない時期というのがあった。それは”がり勉”する必要性があったからなのであるが、それにも関わらず読んだ本が明石散人の「鳥玄坊3部作」であった。勉強関係の本を購入するためもあり本屋にはけっこう行っていたのだが、そこで見つけてしまったのがこの「鳥玄坊3部作」である。ちょこっとだけ手に取ったが最後、はまりまくってしまい、二日間で3部作全て読んでしまった。

「鳥玄坊3部作」の他にも文庫で「二人の天魔王」「謎ジパング」など7冊と単行本で「視ずの魚」とかいうのが出ていることは確認しているのだが、文庫の7冊が連作を成しているようで、最初の「東州斎写楽はもういない」が手に入らないため、読み始められない。単行本も売りきれている。まぁ今は京極夏彦が読み終っていないということもあるが、時期がくれば全作読むことであろう。

鳥玄坊3部作

鳥玄坊先生と根源の謎

田中芳樹が「長編一ダース分の知識と奇想とが、惜しげもなく詰めこまれている」と推薦文を書いている通り、内容の詰まっている作品である。高橋克彦も推薦文を書いている。高橋は「これを小説として評するものは愚かである。世界の奇書の誕生・・・」と書いているが、小説として評するなら、下手である。まさに詰め過ぎであり、本作は講談社ノベルで約350ページであるが、この情報量と想像力ならせめて倍、700ページ以上は書いて欲しい。勿体無い。この短さは、テンポがいいということではなく、場面を飛ばし過ぎた結果である。プロットの組み立てはとても一流とは言えない(プロットという単語の使い方はこれで正しいのかな・・・・?記憶が正しいことを祈る)。勿体無い。内容はけっこう右翼的であるし、突拍子なことも多いのだが、あまりの設定の壮大さは、大変僕好みである。この世界観は受け入れられない人もいるかも。

鳥玄坊 時間の裏側

まさに右翼の人間が主人公となっている。パラレル宇宙世界観を描いた作品。「リュウグウノツカイ」とかが出てくる。

鳥玄坊 ゼロから零へ

先述の通り京極夏彦が推薦を書いている。「我が師・明石散人の仕事は脱構築ではなく想像である」云々と書いてあるが、よくわからない。前の二作もそうであるが、これは特に短過ぎる。約230ページしかないが、せめて800ページは書いて欲しい。明石散人の想像世界とはいえ、仮にも宇宙、日本とか地球とかではなく、この次元の宇宙の存亡の話しである。「宇宙は誰のためにあるのか―。真理は、ここに記されている。―京極夏彦」という話しなのである。この話しだけで三部作が書けそうである。

明石散人作品全体を通して言えると思うのだが、全編に魅力的な仮説が散りばめられている。この「ゼロから零へ」では最初に、記憶の機能について人間の特異性から入り、それに関連して古事記の「稗田阿礼がサヴァン症候群であった」という仮説が書かれている。さらに、ここで江戸時代から説が別れている稗田阿礼の性別については、断言までしている。こんな調子な本なので嫌いな人もいるだろうと思う。


京極夏彦

先述の通り、明石散人の弟子であるが、無論のこと師匠よりもはるかに有名である。デビューは94年のはずである。明石散人の他、妖怪漫画の巨匠、水木しげるとも師弟に近い関係を持っているようである。作品の主人公である京極堂=中禅寺秋彦とは京極夏彦の分身であると考えるのが妥当であるが、過去の作者の発言からはそうでもないことが覗える。まぁそのようなことはどうでもいいことである。昭和38年、北海道生まれ。

京極夏彦の作品

僕が読んでいるのは所謂「妖怪シリーズ」とか言われている「講談社ノベルで出版されているものである。「姑獲鳥の夏」から「塗仏の宴 宴の始末」まで出ている。サブストーリーとして「百鬼夜行 陰」が最近出版されている。妖怪シリーズ以外では「わらういえもん」(漢字を忘れてしまった(;_;))が出ている。他にもあるかもしれぬ。僕個人は「鉄鼠の檻」と「塗仏の宴」が好きである。

姑獲鳥の夏

最初の作品である。すでに文庫化されている。いつか、詳しく述べるかもしれないが、冒頭の200ページくらい(文庫)で、京極の世界観と思われることが書かれている。手元に本がない(部屋がちらかりすぎていて本が多数行方不明である(;_;)今度、大整理を決断)ので詳しいことは書けないのだが、記憶の原理とか、量子力学を哲学に応用したようなものが書いてあったと思う。ここが最初の難関となっているのかもしれない。

魍魎の匣

印象としてはこれが1番つまらなかったと思う。戦時中の軍部の研究が・・・というのはいいのだが、如何せん話しが途中で見えてしまったのである。特に匣の意味が早々とわかってしまったので驚きが少なかった。

狂骨の夢

鉄鼠の檻

これは大変に面白かったです。物語世界への読者の引き込み方も、他の作品より普通で、推進力に富んでいた。また、これは禅寺での話しなのだが、京極の本領発揮というところだろうか、知的興奮を覚えた。まぁ設定には無理があるのだけど、それはネタばれなのでとりあえず書かないでおきます。いずれネタばれの部屋も作ることになるでしょう。

絡新婦の理

明石散人が推薦を書いている。大変面白いと思う一方で不満もある。ネタばれしない程度に書くと、主要な舞台というのが、”キリスト教学校”なのである。そのあたり、どうにも前作ほどには知識の使い方が浅い。人物設定から考えるに、あの学校はもっと深い式を持っていないと行けないと思う。・・・・うーん、ネタばれしない程度にはなにも書けそうにないな。それと、人物設定も、特に織作葵の性格設定が気に食わない。もっともこれはストーリーに関わってくるのだから必要な設定なのであろうが、思うに織作葵の設定はあり得ないのである。彼女に関する設定が矛盾を持つ、あのような設定の人間はあのような性格にはならないと思うのだ。榎木津の設定(性格と能力)の方がはるかに現実味がある(現実に存在したらこわいが)。織作葵を解体して数人にわければいいわけで、つまり総合され得ないものが総合されている。

塗仏の宴 宴の支度〜宴の始末

二分冊となっている。なんか”最後の作品”のような印象を途中得てしまったが、最後には、まだまだ続くことがわかる。僕は、不老不死の物体は”ガン細胞の変種”だろうと思っていたのだが、外れでしたね・・・。しかし、この作品にきて、明石散人の弟子っぷりを発揮している。話しが極端に大きくなっている。最後の最後に出てくる・・・・・ああ!書けない!早いうちにネタばれの部屋を作ります。それにしても、この作品は他とあまりに違う印象を受ける。この流れでは、ミステリーではなくSFとなってしまう。今までの作品には”妖怪”などの、SF的なものはあまり出てこなかった。全く出ていないといってもいい。鉄鼠の檻にそれらしいのが出て来たり、在り得ない技術が登場することはあったが、あまり重要なことではなかった気がする。しかし、この作品を読むに・・・京極堂の正体は・・・。ところで、「姑獲鳥の夏」で既に設定されていたかもしれないが、京極の家の庭には柘榴の木が植えてあったはずである。将来の作品で、この木が重要な意味を持つかも知れない。

「京極堂の偽(いつわり)」という本について

なんか「姑獲鳥の夏」は自分の本の盗作だ!と主張している本である。現在、立ち読み中。まだ全部読んでいない。まぁ誰も読まないだろうし、買う価値はないので、ネタばれ承知で書いてしまうと、先述した「姑獲鳥の夏」の冒頭に書いてある様々な理論と、登場人物の設定、特に問題になっているのは榎木津であるが、がパクリであるというのである。パクラれたと主張している本は「義母愛子(ぎぼ という字が思い出せない、あと松井雪子の嫁と姑の関係を扱った漫画に義母愛子が出てきていい味出しているので、このままにする)関連の本」である。その本はなかなかどうして、真面目な本で、いわゆる霊視について深い説明がなされているのである。霊視というものが時間の流れに関係することなどが書いてあるわけで、それを京極がぱくっている、というのである。が、僕の印象では、あの程度の理論(京極と盗作されたとする側、両方)は、まともに勉強していれば誰でも書けるのではないのか?まぁ文章力の問題はあるが、中学生でも理解できる理論について、盗作だなんだと言っても仕方がないと思う。「義母愛子関係の本」が出たのが1991年、「姑獲鳥の夏」が94年、この差を持って、著作権上の権利を主張しているわけだが、1981年ならいざ知らず、1991年にあの理論を言っても独創性を認めることは出来ない。京極夏彦も無茶なことはしていないわけで、つまり、「姑獲鳥の夏」の設定において、中禅寺秋彦は昭和20年代にあの理論を言っているのである。その程度の話しである。

登場人物に関しては、榎木津に関してはまだ読んでいないので書かないが、関口巽が、探偵ホームズにおけるワトソン君のような役割とか、そんなことは盗作でもなんでもないわけで、突き詰めていくと、オリジナルの人物設定などというのは不可能であることは明白である。 以上7月18日


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