「舌 剣 奔 る」 小説 横井小楠


第1章 僻物 平四郎

 安政四年(一八五七)五月一四日。
 湯殿から出てきた横井小楠は、平袴をつけながら妻女つせに客座敷へ茶道具をはこぶように命じた。
「お茶でございますか。先生」
 つせは黒縮緬の羽織をさしだしながら、けげんそうに小楠の顔をのぞきこんだ。
「そうだ。客人のまえでは酒は飲まん」
「それは、いつからでございますか?」
「今の今からだ」
 小楠は真顔で妻をにらみつけた。越前福井からの客人を迎えていくぶん緊張していた。
「はい、はい、承知しました。先生」
 つせは笑いをこらえながら部屋を出ていった。
 つせは後添いの妻である。小楠とは二三も歳のへだたりがある。小楠のもとにやってきてから一年たつというのに、いまだに夫の小楠を〈先生〉としかよばないでいる。
 横井家の次男に生まれた小楠は四五歳のとき、藩士小川吉十郎の一人娘ひさを妻女にむかえている。やっと妻女を娶ったものの、夫婦もろともに養子になって他家にはいらないかぎり、厄介者ですござねばならない運命にあった。暮らしの糧とえいば、門弟たちからの謝礼だけだった。懐ぐあいはいつも不自由だったが、辛いとも不幸だとも思ったことはなかった。むしろ気ままでいられる境遇を愉しんできた。ところが、翌年の安政元年(一八五四)になって、にわかに横井家を背負わなければならなくなった。その年の七月、兄の時明がとつぜん病死した。兄の長子がまだ一〇歳と幼なかったので、小楠は慣例にしたがって順養子となって家督をつがねばならなくなったのである。四六歳になるまで自由を楽しんできた小楠にしてみれば、横井家のお荷物ではなくなったものの、こんどはなにもかもが窮屈に感じられた。
 ひさとの間に男児をもうけた。安政二年(一八五五)五月、熊本城下の東南一〇里にある沼山津に転居してまもなくのころだった。実母かずは死んだ時明がもどってきたと喜んだが、そんな一家の幸せもながくつづかなかった。生まれた児は一〇月になってあっけなく病死、その一か月後に死んだ児を追うかのようにひさもみまかってしまった。
 小楠がつせを後妻にむかえたのは、ひさをなくして三年後であった。つせは古い門弟のひとり、矢島源助の妹であった。矢島家は上益城郡の津森村杉堂にあって、中山郷の惣庄屋をつとめていたが、家禄一五〇石の横井家とでは身分がちがいすぎた。郷士の娘を正妻に迎えようとすれば、ひとたび藩士の養女にでもしなければならない。そんなめんどうな手続きをはぶいて、つせは妾というかたちで小楠のもとに嫁いできた。
 横井の家には姑が二人もいる。小楠の実母かずと養母にあたる兄嫁のきよである。さらに小楠が部屋住みのころから、夫婦同然の関係にあった寿加という女子衆もいた。死んだひさは寿加の存在がめざわりで、神経をちりちりさせていたが、つせはおおからである。口うるさい女たちの間をうまく立ちまわっている。
 厨のほうから、つせの口ずさむ唄声がきこえてきた。澄んだ明るい声だった。つせがやってきてから屋敷ぜんたいが、ほのぼのとした明るい雰囲気がうまれてきた。つせは横井の家に吉兆をはこんできたのかもしれない……と、小楠は思うことがある。
 越前か……とつぶやく小楠の脳裏には、うとましさと快い甘美な昂揚が、かわるがわる明滅していた。
 越前福井藩とのむすびつきができたのは、小楠が城下の相撲町に家塾をひらいて二年目の秋であった。嘉永二年(一八四九)の一〇月、福井藩士の三寺三作が熊本にやってきた。三寺は藩主の松平慶永から、〈有能な儒者をまねいて学校をおこせ〉という命をうけて諸国をめぐり、遊学のために小楠をたずねてきたのである。一〇月の一九日から小楠のもとに滞在して、門弟たちとともに講義を受けている。
 嘉永四年(一八五一)に小楠が越前をおとずれたのは、三寺によって越前に興味をもったからだった。かれは二月半ばに城下を出発して、北九州、山陽道、畿内、南海道、東海道、北陸道の二四藩をめぐった。多くの名のある儒者と親交を結び、八月の二〇日すぎに熊本にもどったが、越前には二度も足をむけている。六月一二日から一〇日、七月六日から二一日まで福井城下に滞在、儒者や藩士に賓客としてもてなされている。
 越前で会った藩士たちはいずれも向学心にあふれていた。きっと藩主は賢君であるにちがいない。ペリーが来航してから、混迷が深まりつつある天下の命運は、藩主の松平慶永と福井藩の動きにかかっているとみて、小楠は心ひそかに期待をよせていた。その越前から、わざわざ村田巳三郎(氏壽)がやってくる。村田は慶永の側近のひとりで、藩校明道館の学監をつとめる有能な藩士である。村田が藩命をうけて越前を出発した経緯は、福井藩の儒臣吉田悌蔵からの礼をつくした書面でくわしく伝えられていた。
 天下に名の聞こえた真の儒者を招いて藩学を盛んにするというのが越前福井藩の抱える長年の悲願である。二年前の安政二年(一八五五)三月にひらいた藩校明道館はただの学校得ではなく藩政改革の根本と考えているが、中心になる人物をかいているために、現在は思いどうりに運営されていない。ところが黒船の到来にはじまる社会の混乱、諸外国の驚異に立ち向かうために、「実用の学」を盛んにしなければならなくなった。自藩の建学のために、天下の大賢をまねこうという藩命がくだった。ぜひとも小楠に北行してほしいと吉田は懇願していた。
 越前召し抱えの話がもちあがったのは、安政二年(一八五五)の秋だった。柳河藩が小楠を越前に推挙しようとひそかに動きだした。肥後熊本藩と柳河藩は加藤清正の時代から親しい関係にあり、小楠の門弟も熊本よりもむしろ柳河のほうが多かった。柳河藩の改革派家老として知られる立花壹岐は、もともと水戸の藤田虎之助(東湖)と横井小楠に熱いまなざしをむけていた。最初は藤田虎之助を背後から支えて社会改革を進めようと考えたが、その虎之助は安政二年(一八五五)一〇月の江戸大地震のとき、小石川の水戸屋敷で圧死してしまった。そこで学殖がありながら肥後の片田舎でくすぶっていた小楠を越前か水戸に推挙して、みずからの熱い志を果たそうと考えたのである。
 安政三年(一八五六)の一月から二月にかけて、江戸から帰藩した池辺につづいて、家老の立花がみずから沼山津にやってきた。小楠は執拗に決断をせまられたが、そのときはきっぱりとことわった。
 越前と聞いて心が動いた。けれども立花の話に、やすやすと乗れない理由があった。それは熊本藩内に占める自分の立場にかかわっていた。もはやかつてのように部屋住みではなく、藩士のひとりに連なっている。自分を招きたいという意思が本当にあるのなら、福井藩のほうから正式に熊本藩に申し入れて、両藩の直談判で決着をつけてもらいたい。小楠はそのように立花壱岐に申し入れた。
 あれで、ひとたび……。
 越前行きの話は立ち消えたものと思っていた。だが立花や池辺のつけた火種は消えずにくすぶりつづけていた。村田巳三郎はまず柳河を訪ね、立花の腹心である池辺藤左衛門の案内でやってくる。越前が藩をあげてうごきだしたからには、自分の態度をはっきりときめておかねばならない。
 小楠は腕組みして静かに眼をとじた。
「先生、お着きでございます」
 襖のむこうからやってきた声は、どことなく昂ぶっている。
「承知した」
 小楠は肩でおおきな息をした。
 声の主は律次郎だった。葦北郡水俣郷の徳富一敬、中山郷の矢嶋源助(直方)とともに布田の竹崎律次郎(茶堂)は、小楠にとって門弟であると同時に義理の兄でもある。律次郎と太多助はともに源助の妹である順と久を妻女にむかえている。小楠の妻つせは順と久の妹にあたる。横井家の姻戚にあたる三人の門弟たちは、師の小楠に大事があると、まっさきに駈けつけてくる。暮し向きが苦しいとみると米や味噌をはこび、小楠が旅に出るときには、門弟たちをたずねまわって路銀をつくった。かれらは越前からやってくる村田巳三郎の用向きも察しがついている。
「お待たせした」
 小楠は襖のあいだから顔をだして、部屋のなかをのぞきこむかのように村田と池辺に笑いかけた。
 あわてて座りなおそうとするふたりをちらとみて小楠は、「まあ、お楽になされよ。それがしも夜明けからの川漁で、少々疲れておりますゆえ、失礼いたす」と言いながら、あぐらをかいて座った。
「横井先生、お久しゅうございます……」
 村田は細い眼をさらに細めて小楠をみていた。
笑えば面相がくしゃくしゃになる村田と顔を合わせるのは嘉永四年(一八五一)いらいであった。
「あれから六年、あわただしい時勢と相なりました」
「さよう。天下の形勢は一変。そして、それがしもこの六年のうちに、おおいに変わり申した。変わらぬのは、この肥後の片田舎の四季おりおりだけでござる」
 小楠は笑みをたたえていた。
 ちょうどそのとき、部屋の隅にはこびこまれていた小さな火鉢にかけてあった鉄瓶のふたが、もちあがるほどに湯が煮えたぎりはじめた。
「湯もころあいに沸いたようだ。まずは、くつろぎの一服でも……」
 小楠は鉄瓶をおろして、茶碗や茶筒をのせた盆をかたわらにひきよせた。
「沼山津にきてから、茶をつくっております。これは今年の新茶でござる」
 小楠は楽焼の茶碗に鉄瓶の湯をそそぎいれてから、やおら茶筒のふたをとり、木匙で茶葉をすくって、小ぶりの急須にいれた。そして一息いれてから茶碗の湯をゆっくりと急須にあけてふたをした。
「近ごろでは書見のほかに、これといってすることがない。川に漁にゆくか山に鳩を撃ちにゆくか……。または茶を評しながらに日が暮れてゆくといったぐあいでな」
 小楠は楽しげにかたりながら、三つの小さな茶碗をならべ、ひとさしずつ順ぐりに茶をそそぎはじめた。三つの茶碗がみたされるころに急須は空になっていた。かれは一碗づつを茶托にのせて二人のまえにさしだした。
「これは、なんと芳しい……」
 池辺が驚きの声をあげれば村田も「まったく……。これですっかり疲れがいえまする」と、感じいっていた。
「茶というものは煎れかたしだいです。つまり天の理さえちゃんと心得れておれば、それがしのような素人がつくった茶でも、このように服することができる」
 小楠は饒舌な性質である。師の性癖を知りぬいている池辺は村田とともに背筋を伸ばして、つづくことばを待っていたが、それっきりふいと口をつぐんでしまった。村田はいつになく寡黙な小楠にとまどっていたが、池辺に目配せされて口をきった。
「されば……」
「もう一服、いかがかな」
 小楠は勢いこんだ村田をいなすように、ゆっくりと微笑んだ。
「ちょうだいします」
 池辺につづいて村田もつられて茶碗をもどした。
 小楠は最初と同じように湯ざましの茶碗に鉄瓶の湯を注いだが、こんどは間をおかずに急須にうつした。
「先生、それがしの役目はわが藩主の内意をつたえ、率直なお考えをうかがうことにあります。すでにご承知のように……」
 藩主の松平慶永は藩校明道館を政治改革の要として位置づけている。小楠のすぐれた学才に注目して、ぜひ越前に招きたい。藩主みずからがそのように決意した。
 村田は胸にとどこおる思いを一息に吐き出すかのように語った。
「さらに慶永公は、一国のご政道根本を正そうとしておられる」
 池辺が村田のあとをうけて、ことばをつづけた。
 越前松平家は御三家と御三卿に次ぐ家門筆頭の家柄である。田安家から出ている慶永は、それゆえ幕府の政治を補佐しなければならないと強い使命感をもっている。とくにペリーが来航してから揺れまどう国情を深く憂慮して、幕政改革の建白をくりかえしている。もはや越前一藩だけでなく、天下国家の社会改革をめざして先頭に立とうとしている……。
「藩学の教授人というのは、あくまで表向きのこと。公のお側近くにあって、政治向きの相談ができうる人物をもとめられているということになりましょう」
 池辺はだんだんと熱っぽい口調になっていった。
 「まずは先生のご存念を、よくうかがってくるように……と」
 村田はそう言って、肩で大きな吐息をもらした。
「茶は煎れかたが、もっとも大切でござる」
 小楠はゆっくりとうなずき、ふたたび二人の前から茶碗をひきよせた。
 三ざしめの茶を煎れるとき、小楠は鉄瓶の湯をじかに急須にそそぎいれた。村田と池辺は息をひそめて、小楠の手もとに視線をそそいでいた。
「巳三郎どの。ご用向き、しかと承った」
 小楠は茶をすすめながら、「しかし、それがしの身辺には、むずかしきことが、あまりにも多すぎて……」と、天井のほうに視線をはわせた。
「もとより、それは、承知のうえのことでございます」
 村田はそう言って、こわばっていた肩からふうっと力をぬいた。
 そのとき襖がひらいた。兄嫁のきよが顔をだして、膳の用意ができたと言った。運ばれてきた膳にはその朝、小楠が投網でしとめてきた鮎の塩焼きがそえられていた。酒は飲まぬ……と、小楠はつせにいってあったが、きよは燗酒の銚子を手にしていた。きよはふたりの客にすすめながら、小楠のほうをちらとみやって、意味ありげに微笑んでいた。
「先生」
 村田は酒になって、やっと肩の荷をおろしたかのように明るい声になって、「吉田どのは、平四郎どのをククリつけてこい……と申されました」
「さようか。ククられて越前へまいるときがあれば、それがしは慶永公をはじめ越前のご家中を、ことごとく投網で一網打尽にしてごらんにいれるとしよう」
 小楠は村田の頭上にむかって網を投げるしぐさをして、澄んだ笑いを噴きあげていた。

 夜はふけていた。
 村田巳三郎は長旅の疲れが一時に出たらしく、すでに床をとってやすんでいた。池辺は酒になるとつぶれるまで飲まないとおさまらない小楠の性癖を知っているだけに逃げられずに、ひとりで受けとめていた。
 厠に立った小楠が部屋にもどろうとして、ふと厨のとなりの部屋をのぞいた。
 兄嫁のきよと妻のつせが向かい合って縫物をしていた。夕暮まで機織りや糸つむぎをする女子衆をとりしきっていた母のかずは床ついてしまったようだった。
「おや、先生。お酒が足りませぬか?」
 つせが顔をあげた。
「いや、けっこうだ」
 小楠がいわくありげに微笑むと、きよは肩をゆすって笑った。
 きよの笑顔のむこうに遠い昔の自分がいた。あれから一七年がすぎている。苦い記憶がよみがえってきた。
 酒でしくじった。酒のために将来を棒にふった男……誰ひとり知らない者はいない。江戸からもどったかれは七〇日間の禁足を申しつけられ、六畳一室にとじこもって謹慎した。たが、夜になるとやたらと酒が恋しくなった。部屋をぬけだしては神棚の神酒をあおった。苦い酒だったが、飲まずにはおれなかった。徳利の酒はいくら飲んでもなくならなかった。毎夜そっくり飲みほしても、次の夜にはなみなみとそそがれていた。空になった徳利をみては、酒を満たしておいてくれたのが兄嫁のきよである。
「こどもたちは、どんどん育ちますから、いくら縫っても追いつきません」
 きよは言った。
 兄の時明の遺した長男の左平太は一四歳、次男の太平は九歳になっていた。一八歳になった長女のいつは厨で洗物をしているようだった。
「それに、この秋には……」
 きよはちらとつせをみて、小楠に意味ありげな視線を投げかけてきた。
 つせは、恥ずかしそうにだまって顔をふせていた。五〇を前にして赤子の父親になる小楠もどこか気恥ずかしくて、逃げるように部屋を後にした。
 越前から招かれている。それも藩公みずから礼をつくして使者を立てた。結果はどのようになろうとも、兄嫁や妻に話してやればよかったのかもしれないと小楠は思った。相応の役料にありつければ、現在より暮し向きも少しは楽になる。
 横井家は一五〇石の知行取りであったが、手もとに残るのは二〇石あまりである。父の時直が穿鑿所目付、兄の時明が郡代についていたころは、足高がつけられていた。
 小楠は無役である。実母・兄嫁・甥二人と姪・妻の家族にくわえて女子衆と小者をかかえている。食い扶持だけでも一五石あまりが消えてしまう。残りでいっさいの出費をまかなわねばならなかった。いくら切りつめても不足が出た。
 藩政府に願い出て城下をはなれ、沼山津に四時軒と名づけた草庵をつくり、そこに移った理由のひとつも、暮らしの危機をのりきるためだった。けれども熊本城下より暮らしやすいはずの村里に移ってからも、門弟たちからの束脩や謝礼と女たちの内職仕事で、ようやく暮らしがなりたっている。
 越前にゆけば貧しさと縁がきれそうだが、まだ、そう……と、決まったわけではないのだ。藩内では僻物といわれているがゆえに、異論を唱える者が出るだろう。内と外からわきあがるいくつもの懸念が複雑にからみあって、女たちの部屋に引き返そうとする小楠を思いとどまらせた。


 翌朝、小楠が庭を散歩していると池辺藤左衛門が待ちうけていて、「ちと、談じておきたきことがござりまして……」と声をしのばせた。
 小楠は先に立って、中庭をへだてた塾舎へ導きいれると池辺は、「実は、村田どのともどもに長岡監物さまにお会いしてまいりました」と口をきった。
 長岡監物こと米田是容……。ながねんの同志であった。肥後細川家には上卿三家といわれる世襲家老がおかれていた。松井・米田・有吉の三家である。いずれも初代藤孝時代からの重臣である。米田家は次席家老の家柄で、細川家ゆかりの長岡姓をゆるされていた。小楠たちが源三郎という通り名で親しんでいる是容は二〇歳で家老につき、そのときから長岡監物を名のっていた。
 是容とともに小楠は肥後実学派の指導者として藩政改革をめざしてきた。だが、安政二年(一八五五)の春、小楠は二〇年来の同志である是容と訣別した。
 村田は池辺とともに沼山津にやってくるまでに、熊本城二ノ丸にある長岡屋敷をたずねていた。江戸勤番時代に是容と顔見知りになっていた村田は、小楠の越前入りがうまく運ぶよう仲立役を依頼したというのだった。
「それで、米田どのは何と?」
「快く、ご承諾くだされました」
 池辺はうなずいて話しはじめた。
 平四郎は藩内では〈僻物〉といわれ、藩内の評判もよろしくない。さらに藩学とは異なる学派を結んでもいるから敵も多い。越前藩主の松平慶永がみずから肥後藩主の細川斉護に談判するほかないだろう。もし、それでもうまくゆかないようなら御内室にもお出まし願え……というのが村田にさずけた是容の策であった。慶永の内室は肥後藩主細川斉護の三女の勇姫である。越前に嫁いだ愛娘からじかに頼まれたのなら、優柔不断の親父どのも、きっと聞きいれるだろう……。是容はそこまで見通していた。
「さすがに、長岡さま……。藩校の教授人というのは、火急のときゆえに、肥後側との話が決着すれば、まちがいなしに江戸表に呼ばれることになろうと……」
 小楠がもとめられているのは越前一国のためではない。天下の政治を仕切る松平慶永を補佐するためである……と。池辺は繰り返した。
 江戸の慶永は諸外国との条約締結という外交問題、さらに将軍の世子を誰にするかという内政問題をかかえている。嘉永七年(一八五四)から安政二年(一八五五)にかけて、幕府は欧米諸国とつぎつぎに和親条約を結んだが、さらに安政三年(一八五六)になって通商条約の締結を迫られていた。幕閣も諸藩も開国派と攘夷派にわかれ、幕藩体制の土台をはげしくゆすぶりはじめていた。国家の存立さえ危うくするようなときにあって、将軍は幕政のかなめであらねばならないが、嘉永六年(一八五三)六月に一三代将軍についた家定は虚弱なうえに、とても英明とはいいがたい。そこで慶永は次の将軍には一橋慶喜を立てようと画策していた。
「慶永公をたすけて天下のご政道を仕切るのは、先生ですぞ」
「まだ越前にゆくとは言っておらん」
 小楠はかん高い声をあげて笑いとばした。

 朝六ツ半(午前七時)から始まったその日の会読は、夕暮れになってようやく小楠の講義が始まろうとしていた。若い門弟たちは憔悴しきって、眼がおちくぼんでいたが、五〇歳まじかの小楠は疲れたそぶりすらみせていなかった。それどころか顔の皮膚が艶やかにうるおってさえいた。
「重賢公は明君といわれているが、まことの明君であったといえるか」
 小楠は門弟たちの顔をするどい眼つきでみわたした。
 小楠塾の会読は、師が塾生を前にして経書の解釈をするだけのものではなく、塾生全員による討論が中心になっている。『論語』『大学』などを、まず年少者に朗読させて、字句の解釈をやらせる。それから塾生みんなに意見を出させる。議論を十分つくしたうえで師・小楠の講義にうつる。かれの講義は『論語』や『大学』にあらわれた思想をもって、時代が直面する差し迫った政治問題を講じるのであった。
 小楠はその日の講義に〈細川重賢による宝暦の改革〉をとりあげた。
 六代藩主・細川重賢は、肥後熊本藩の中興の祖とまでいわれている。誰ひとりとして明君であることに疑いの眼をむけるものがない。歴代藩主のなかでも、いちばんあがめられている重賢に、小楠はあえて批判の眼をむけようとしていた。
「重賢公はいったい何をなされたというか?」
 かれはは門弟たちに問いかけた。
 ゆるんだ政治をただして藩政の危機をすくった。藩の財政をたてなおした。藩の台所はうるおい、藩士の手取り米も増えた。藩校時習館をつくった。門弟たちからつぎつぎと声があがった。
 重賢の藩政改革は宝暦二年(一七五二)にはじまっている。そのころの熊本藩は深刻な危機に直面していた。五四万右の熊本藩が実際に藩庫に収納するのは三四〜五石、ところが支出は四二〜三万石もあつた。藩の財政はつねに火の車で、参勤交代や江戸藩屋敷の費用もまかないきれなかった。藩士の知行米や扶持米もとだえがちで、粟や大豆で飢えをしのいでいた。ながねんにわたる収奪で農民たちの暮らしはもっと深刻だった。かれらは家を売り、田畑をかえして家族もろとも土地をはなれた。なにもかも泰平ぼけした藩主一族や家臣たちの思うままのぜいたくが原因であったが、農民たちはかたく口をとざしていた。
 重賢は藩政のみだれは執政や参政たちの腐敗のせいであると考えた。役についた者が無能であるために、たがいの身をかばいあう。政治をあずかるものに不正があったり、私欲をこやす者があっても、権勢をおそれて訴え出ることもない。監視役の目付や横目付でさえも見て見ぬふりをしている。そういう重臣たちが藩政の実権をにぎり、いつしか藩主は〈殿様〉として飾り物になっている。重賢は藩主の権威をとりもどして、家臣団を一手におさめようと考えた。
 重賢はまず藩政のしくみの改革からはじめた。藩の職制を家老、中老、大奉行、奉行、大目付、自付として、奉行職の権限を大幅に強化した。藩の政治のすべてを奉行にまかせ、家老や中老は承認をあたえるだけにした家老は藩軍の統率者、さらに幕府や他藩との外交をとりしきる最高責任者として、藩政の実権は奉行たちをたばねる大奉行がにぎるようになった。役についた藩士たちの服務規定や賞罰基準もきびしくとりきめ、家臣団のゆるんだ雰囲気のひきしめにかかった。
 門閥による政治を腐敗の原因だとみていた重賢は、無能であるにもかかわらず家柄だけで役につき、私服をこやす現状にはげしい憤りをおぼえていた。かれは家禄がひくくても有能な人物を次つぎに奉行職にえらんだ。執政の大奉行にも五〇〇石取りの堀平太左衛門を登用して藩政改革のすべてをまかせた。
 堀はただちに財政改革にのりだした。大坂商人との関係改善につとめ、領内の検地をおこない、肥後の特産品である櫨蝋の専売制をとった。経済政策をすすめる一方で、藩内の領民にはきびしい倹約をもとめた。
 一用人にすぎなかった堀がいきなり大奉行についた。細川家累代の臣たちは反感をいだき、失脚を画策する者もあらわれた。けれども堀の背後にはつねに藩主の重賢がひかえていた。土地のことばでネジゴト人といわれるほど、我が強い性質の重賢は、いっさいを堀にまかせて他人の讒言を聞き入れようとしなかった。重賢と堀のはたらきによって、熊本藩の財政はひとまず危機を脱した。
「重賢公による宝暦の仕法は、ある意味では理にかなったものだといえる。だが、領民の暮らしは豊かになったといえるか」
 小楠は塾生たちをみわたして声をたかめた。
 城下は繁栄しても農村はうるおわなかった.あいかわらず農民たちの暮し向きは貧しく、土地をはなれる者がたえなかった。
「それに…」
 重賢のあと斉茲の代になると、ふたたび財政が悪化した。
「一時は成功しても、すぐに、もとのもくあみになる。これは、天の理にさからった仕法にほかならないからだ」
 小楠は声をふるわせて言いつのった。
「宝暦の仕法はほんとうの意味で藩の政道をというものを改革したのではない。ただ藩政の仕組みというものをつくったにすぎない。政治というものは制度をつくることではない」
 小楠は重賢が影響をうけた徂徠学にはげしく批判を加えていた。
「政治というものは、民をまもるためにある。それが根本であることをわすれてはならん」
 小楠はきっぱりと言いきった。
 徂徠学では政治と道徳をきりはなして考える。君主が道徳的にすぐれた行動をとるのは、そうするほうが民に信頼されるからだとまで言いきっている。それは功利権変というものだ……小楠ははげしく非難のことばをあびせた。
 宝暦の改革では、中・下級武士にも栄達の道をひらいたが、座班(身分)規定や勤務評価規定がきびしくなった。藩士たちが、小さくこりかたまりはじめたのは、きびしいダガがはめられたからである。家督を相続するについても文武両道の免状の枚数できめられようになった。昇進するには藩校の時習館にまなび、優秀な成績をおさめなければならない。その藩学がどうでもいい古典のこまかい解釈ばかりしかやらないから、小心な偽君子しか育たない。
「天下にはあまたの藩があり、徳川の御世三〇〇年をみわたして、あまたの諸侯がうまれた。だが明君にあたいする藩公として、誰があげられるか。あとは諸君それぞれが、自分でとくと考えてもらいたい」
 最後に小楠は叫ぶように声をたかめて講義を結んだ。

「会読は、いつも、あのように……」
 村田は部屋に現れた小楠をみるなり、興奮した面持ちでたずねた。
「さよう。あれが、われらの会読でござる」
「いや、はや、それがしはひたすら恐懼するばかりで……」
 村田は首をすくめ、上目づかいに小楠をときおりちらと視線を投げてくる。
 講義のなかで小楠は、肥後の時習館の例をひいて、明道館に招きたいという依頼を遠回しに断ったのではないか。村田は深読みをしているようだった。
 五年前の嘉永五年(一入五二)であつた。小楠は藩校を創設しようとする福井藩の諮問にこたえて「学校問答書」書いている。藩校をつくろうとする福井藩にたいして、小楠はまだ時機ではないと説いていた。唐の太宗が大学をつくったとき、生徒は八千人を数えたが、そのなかからほとんど人材が育たなかった。どれほどの明君が建てた学校でも人材が育った例が過去にはない。諸藩の藩校や幕府の昌平黌のような学校なら、つくらないようがましだ。政治に役立つ人材を育てようとするあまり、学問の根本をわすれてしまうというのであった.
「われらが水戸の弘道館を範にして明道館を建てたのは、平四郎どのの言に背いたも同然、申し開きもできません」
 村田は身をすくめていた。
「あれは、もう五年もまえのこと。さようなお気遣いは無用でござる」
 小楠は笑いとばした。
「先生は、まず君主が率先して講学をやらねば……と仰せですが」
「さよう、天下の政治というものは、いかにあるべきか……」
 小楠は早口で語り始めた。
 君主が臣をいましめ、臣が君主をいさめる関係、つまり君主と臣とがともに心をただすことによって天下の政治というものがなりたっている。父子・兄弟・夫婦のありかたも同じである。君と臣・父と子・夫と妻という「分」はわきまえねばならないが、「道」のまえでは、みんな平等である。主君でさえも朋友にひとしく、同じ道をもとめる同志として、腹をわって話しあえる。そういう開かれた自由な雰囲気が天下の政治というものえを変えてゆく……。
「つまり、君臣做戒の道、これが講学の基本です」
 小楠はきっぱりと言った。
 かれは『書経』にしめされた堯、舜、禹の三代にわたる政治のありかたを理想にえがいていた。
「まず君主が率先して講学をやらなければ……と仰せでございましたな」
「さよう、ところが、昔から明君といわれた君主をごらんなされよ。父と子が、あるいは兄と弟が家督を争った例は数えきれない。世継ぎをつくるためといって、妾をたくさん持つ。これで天下国家を治めようとしても、臣や民はついてくるはずがない。自分だけは別物だと思っているから始末がわるいのです」
「諸国諸藩をみわたして、明君というにふさわしい君主はおられましょうや?」
「ほんとうの徳と礼をもって政道にのぞんだのは米沢の上杉鷹山公ぐらいなものでござろう」
「なんと……」
 村田は意外そうな顔をした。かれは儒教にふかい理解をしめした徳川家康の名がでるものと思っていたらしい。そういう村田を出見透かすように小楠は、「林家をごらんなされよ。儒者がいかがな役目を仰せつかっておりますかな。羅山をごらんなされよ。ただの物知りとして、つまり為政者の道具にしか使われておりませぬ」とはげしい口調になった。
 家康は儒教をもって国を治めようとしたのではない。かれははっきりとそう言いきった。
「さらばわが藩主慶永公なんぞは、とても平四郎どののお眼鏡にはかなわぬ……と?」
「これは、巳三郎どの、お人がわるい。そう先をお急ぎめさるな」
 小楠は声を立てて笑った。


 陽がくれてから小楠は村田と池辺を塾舎に迎え、塾生たちをまじえて酒宴をひらいたが、いくら飲んでも酔えなかった。部屋にもどってかひとりになると、その朝に池辺がもらした〈天下の政道を仕切る〉という一言がよみがえってきて、胸に熱いものがこみあげてきた。
 自分のたくわえた学殖がいったいどれほどのものなのか、心ゆくまでとっくり試してみたい。小楠は躰の底に燃えのこっている若い炎にうながされるまま、越前行きに残りわずかな自分の生命をかけてみようと考えはじめていた。
 あの源三郎までもが……。ふと分厚い胸をはった是容のたくましい姿がうかびあがってきた。仲たがいした源三郎が陰でひそかに力をかそうとしている。ながねんの同志だった源三郎は、おれの心の内奥にあって自分でも気づいていないほの青い炎までをすっかり見ぬいている。
 心あたりがないわけではなかった。たとえば天保一二年(一八四一)に藩政改革のありかたを書いた『時務策』、さらに嘉永六年(一八五三)、ペリーとプチャーチンがやってきたとき、これら外国使節に接するときの原理・原則を提言した『夷虜応接大意』のなかに政治への関心の強さを読みとっていたのかもしれないと思った。
 小楠は静かに眼をとじて、四九年になろうとする人生に思いをこらした。過去をさかのぼると、節目ごとに源三郎の顔がうかんできた。まもなく五〇歳になろうとする人生のうち、およそ二〇年は源三郎とともにあったことをあらためて思い知った。
 あれは天保七年(一八三六)……。
 小楠が藩校時習館の居寮生になって三年目であった。江戸詰の家老だった是容は帰藩すると、ただちに文武芸倡方を命じられた。藩校をとりしきる立場についた是容と小楠は幼なじみの下津久馬を通じて親しくなった。かつて一三歳のころ、ともに将来は経国済民のために立とうと誓いあった久馬は、そのころ奉行職についていた。藩校の一居寮生にすぎない小楠にくらべて、家督をついだ久馬は藩政をうごかす立場にいた。
 米田是容は下津久馬ともに時習館の改革に取り組もうとしていた。居寮生だった小楠は協力をもとめられた。小楠二八歳、是容二四歳、そして久馬は二九歳であった。
 藩学を藩政に役立つ人材養成の場にするというのが是容の腹案であった。時習館では政治の質を高める学問がおこなわれていない。時習館は一〇歳前後で句読斎・習書斎に入学、一五歳前後で蒙養斎にすすみ、一八歳までに試験をうけて講堂にのぼる。講堂で数年まなんだあと、希望者は熊本城二の丸にある居寮の菁莪斎に寄宿して藩費で勉学をつづけられたが、それはあくまで正規の過程ではなかった。成績は優秀だが卒業しても行き場のない者の溜まり場になっていた。
 是容は菁莪斎を藩学の最高学府に位置づけようとかんがえた。藩政を動かす器量ある人物だけを選んで入寮させ、そこから藩学の改革をすすめようとしたのである。藩主の細川斉護も是容を支持して、是容と同役にあった筆頭家老の松井佐渡を解任した。小楠は是容の腹案に賛同、居寮生の立場で改革をすすめることを約束した。
 天保八年(一八三七)二月に居寮長に抜擢された小楠は、塾長として是容とともに寮生の指導にあたったが、若さゆえにあまりにも性急すぎた。
 寮生のなかには、後にかれらの同志になる元田八右衛門(のちの永孚)や荻角兵衛(昌国)のように学才ある人物もいたが、ほとんどは寄食者気分がぬけきれず、居心地のよさにひたりきっていた。とつぜんきびしくなった菁莪斎のありかたにとまどい、かれらはつぎつぎに退寮していった。教授や助教たちも是容や小楠たちの改革に異論をとなえはじめた。
 是容と小楠のめざす改革が思い通りにすすまないのをみて、是容のために文武芸倡方を解かれた松井佐渡はまきかえしに出てきた。松井派は藩校の混乱を好機ととらまえて、米田派の追い落としをもくろんだ。天保一〇年(一八三九)の二月、まず奉行の下津久馬が解任された。さらに三月になって米田是容は文武芸倡方の職を追われた。
 米田派に与していた小楠も無事にすむわけはなかった。かれはとつぜん江戸遊学を命じられた。藩命による遊学は異例の抜擢だったが、それは同時に居寮長の解任を意味していた。塾長の小楠追放によって、松井派は時習館から米田派をすべてのぞくことに成功したのである。
 江戸にのぼった小楠は著名な学者や幕臣たちと親交をむすび、国家のありかたについて論じ合った。とくに幕府勘定吟味役の川路聖謨と水戸藩御用調役の藤田虎之助(東湖)には強く惹かれるものがあった。
 水戸藩主徳川斉昭の懐刀といわれた藤田虎之助は、改革派の中心人物として水戸の藩政を掌握していた。色黒の大男だながら弁が立ち、緻密な頭脳にめぐまれていた。林家の学問にあきたらないものを感じていた虎之助は熊沢蕃山の学に心をひかれていた。学問というものは社会改革に役立つ〈実用の学〉であらねばならないと虎之助に説かれて、小楠は眼をみひらいたのだった。
 は藩という垣根をこえて自由にうごきまわる小楠をみて、江戸詰の重臣たちは藩の機密をもらしはしないかと恐れるようになった。天保一〇年(一八三九)の暮だった。江戸詰の重臣たちにとって目障りな小楠を追放する絶好の口実となる事件がおこった。
 あとわずかで年も暮れようとする一二月二五日であった。年が明ければ藩主の徳川斉昭にしたがって水戸に帰藩する藤田虎之助は、諸藩の友人たちを招いて年忘れの会をひらいた。気心のつうじた虎之助の宴席である。小楠は気を許してついつい飲みすぎた。宴がはねたあと、同席した何人かと連れだって町にくりだしたところまでは憶えていたが、それからあとは何ひとつ憶えがなかった。
 宴席で顔を合わせた他藩のある者が小楠に遺恨をいだいているという。奉行の沢村太兵衛から呼び出され、小楠はきびしく叱責された。沢村によれば小楠が相手の藩名をけがすような言動をかさねたという。相手の名を告げられても小楠はまるで憶えがなかった。
 当時の江戸藩邸をあずかっていた大奉行の溝口蔵人、奉行の沢村太兵衛は小楠の歯に衣きせぬ政治批判にいつも肝をつぶしていた。学問修業以上に政治への関心が強い小楠が他藩の者と天下を論じ合い、藩のわくをとびこえて政治的な動きをとることががまんならなかったのである。かれらは小楠の学才には眼もくれず、酒を飲みすぎるという口実で江戸からの追放を決めたのである。
 平四郎は酒をくらって他藩の者と諍いを起こした。事件そのものは表沙汰にしないで決着をつけたが、報復のおそれがあるので帰国させたい……。奉行の沢村太兵衛は国もとの藩政府に報告している。
 小楠は遊学生の身分を取り消され、水戸藩につづいて奥羽の諸藩を視察するという願いも果たせないまま、三月三日に江戸をはなれた。
 四月初めに帰藩した小楠にくだった藩政府の処分は禁足七〇日だった。遊学するまでは居寮長として米一〇俵を受けていたが、三二歳になって、ふたたび横井家の厄介者にまいもどった。小楠はあのときに味わった砂をかむような苦しみがあったからこそ、現在の自分があるのだとも思う。
 禁足を命じられたかれは水道町にあった兄の屋敷の一室にひきこもった。荒れるにまかせた六畳の間は畳がすりきれ、壁のところどころが剥げ落ちていた。雨戸がわりに軒からつるした藁筵が風にゆらぐたびに、壁土がはらはらと眼のまえにこぼれおちるのを呆然とながめていた。途方もない時間のひろがりのなかに、いきなり投げこまれた小楠は、経書や歴史書を読むことでながい一日をすごした。学問とは何なのか、政治とは何なのか。かれは程明道の「道は用につけば是ならず」という一句を行燈や障子、襖に書いてひたすら思索にふけりつづけた。
 学問は古典の字句を解釈するためだけのものではない。現実の社会のありかたと密接にむすびついていなければならない。林家のながれをくむ朱子学者は、詩文をもてあそぶ俗物になりさがっている。もともと儒者というのは庶民の幸福をまもるという役割がある。ところが藩主に飼いならされて、権力の太鼓持ちになってしまっている。
 儒教はもともと「孝」を中心とした教えである。「親・子」の関係は絶対的なものだから、親がいくら極悪人でも子は見捨てることはできない。ところが「君・臣」の関係はそれほど厳格なものではない。中国と日本とでは四民つまり「士・農・工・商」の位置づけがまるでちがっているからである。儒教でいうところの「士」は武士ではなく。「士大夫」とよばれ、科挙に合格した碩学の人材を指し、日本の武士のように世襲ではない。「士大夫」は君主に仕えて政治的手腕をふるうのだが、あくまで君主と政治的意見が一致したときである。君主が悪政を働いたり、暴君になって理不尽な下命をすれば、服従することなく辞職の道を選択する。「忠」とはあくまでそれだけの関係でしかない。
 ところが……。幕藩体制の「主・従」の関係はまるでちがっている。藩主も世襲なら、藩士も世襲である。藩士は禄をはなれると当人が路頭に迷うだけでなく、「家」そのものが滅びてしまう。俸禄にありつくにはいかなる無能な君主であろうと絶対に服従しなければならなくなる。日本にやってきた儒教はいつしか「忠」を「孝」と同列、あるいは孝をはるかにこえた絶対服従をもとめるように読み替えられ、幕藩の「武士国家」を支えるようになった。だからこそ……。堕落したのだと小楠は考えるようになった。
 かれは王陽明を読み、あらためて程明道を読み、朱熹を読みなおした。朱熹は七一年の生涯を学問にささげた。朱子がそれほどまでに執着した学問とは、いったい何なのか。小楠はひたすら思索にふけった。
 おのれを修め、人を治めることが儒学の思想である。朱子は真理を究めることによって、心をあきらかにしてゆこうとする。なかでも心を正しくすることに重きをおいている。個人の修養や心のありかたが、国を治め、平和な世をつくるという道にもつながると説いている。倫理と政治というものが一体になったものであり、学んで聖人になることをめざす宋代の朱子学に共鳴をおぼえた。
 政治と道徳が別物にならないようにするのが本当の「学」というものではないか。本来の朱子の学にこそ真がある。江戸から帰藩しておよそ三年、ありあまる時間のなかで小楠は俗儒を超え、ようやくにして出口をみつけたのだった。
 襖が音もなくひらいた。妻のゆせが部屋にはいってきたらしい。
「先生、まだお勉強でございますか」
 つせは大振りの銚子と小鉢を盆にのせたまま小楠のかたわらにおいた。
「いや、もうそろそろ休む……」
「ならば、寝酒でございます」
 つせは小楠をちらとみて、ゆっくりほほえんだ。
 小鉢のなかみは好物の焼いた沢蟹と紫蘇で染めた梅の実であった。小楠は蟹をひとつつまんで口にいれ、音をたててかみくだいた。
「越前の客人は、いつまでご逗留でございましょうか?」
 つせは部屋の隅にすわって、遠慮がちに声をかけてきた。
「おう、算段のことか?」
 小楠がたずねると、つせはあわてて首をふった。
 村田巳三郎は越前から二人の従者と小者一人をともなってきている。それに池辺藤左衛門も村田が熊本をはなれるまで逗留することになるだろう。遠来の賓客をもてなす出費に、つせはひとり気をもんでいるらしい。
「遠慮なく申せ」
「いえ、そのことなら、よいのです」
 つせは恥じいるようにつぶやいた。
 一家の暮らしの金は、いまだに母のかずがにぎっている。つせは不意の出費のことを言い出しにくいらしい。また兄の源助たちに無心するつもりにちがいない。門弟たちはよろこんで負担するだろうが、いつもかれらの善意にたよるわけにはゆかない。
「承知した。母さまには、おれからよく言っておく」
 小楠はまるでこどもを諭すように若い嫁に言った。
 つせはきまりわるそうに詫びて立ちあがった。
 五〇にして、いまだ貧なるを知る……か。小楠は手酌の酒を口にふくんだ。熱い燗酒が腹にしみわたるようであった。
 江戸からもどったあのころ、書見のほか何もすることがなかった。閉ざされた日常のなかで、ただひとつの楽しみは幼な友達の下津久馬と語ることだった。天保一〇年(一八三九)に奉行をやめさせられた久馬は、ときおりひっそりと顔を出した。失意のかれは酒におぼれる毎日がつづいていたが、小楠と顔を合わせているうちに眼をさました。かれは『論語』を読み返すうちに小楠の考えと通じるものがあると悟ったらしい。
 小楠のたどりついた思想は、久馬によって是容をはじめ改革派の藩士たちにつたえられた。孤立している小楠にひそかに心をよせる者たちもいた。かつて時習館の居寮生だったころから、塾長の小楠を慕っていた元田八右衛門や荻角兵衛も、藩学の主流である徂徠学にあきたらなく思い、孔子の書によって学問のやりなおそうとしていた。小楠は出口をみつけた思いで勇気づけけられた。けれども相変わらず部屋住みのかれには、本格的になりつつある学問を生かす機会がなかった。
 あのときも、手をさしのべてくれたのは源三郎だった……と小楠は思い返した。燈芯のむこうに、いかにも育ちのよさを思わせる米田是容の笑顔がうかんできた。
 天保一二年(一八四一)の秋だった。小楠は意見書『時務策』を書きあげ、藩政改革のありかたを説いた。
 天保年間は全国的に大飢饉にみまわれ、諸国各地で打ち壊しや一揆がおこった。とくに一揆が多発したのは、大坂で大塩平八郎が挙兵した天保八年(一八三七)だった。もちろん肥後も凶作つづきだったが、畿内や関東、東北にくらべると被害がすくなかった。
 飢饉で大坂の米価は文政のころにくらべておよそ三倍にはねあがった。肥後米の価格は高騰して一時的に藩の財政をうるおした。けれども、その恩恵をうけたのは藩主や一部の高禄藩士だけだった。下級藩士や領民の暮し向きはあいかわらず苦しかった。
 思いがけない天の恵みもながくはつづかない。天保一三年(一八四二)になると米価は暴落、藩庫はふたたび底をついてしまった。そうなると下級武士や農民の暮らしは、ますます逼迫した。かれらは、さらにきびしい倹約をもとめられるようになった。
 小楠は『時務策』のなかで、まず節倹について本当のありかたをのべている。藩のふところが苦しいために、領民だけに倹約をもとめるのは〈聚斂の政〉というものだ。本当の節倹というものは「聊かも官府に利する心を捨て、一国の奢美を抑え士民共に立ちゆく道を付くる」ことだと説いた。
 さらに細川重賢の宝暦改革ではじまった専売政策をはげしく批判した。藩が一部の特権商人に金を貸しつけて生産物を買いあげさせる。そのかわりに運上・冥加金を課して赤字財政をのりきろうとするのは、藩が特権商人と組んで農民や町人から収奪するにひとしい。〈貨殖の利政〉というものだ。藩の財政を富ませるのが富国ではなく、領民が豊かになる道を思案するのがほんとうの富国への道であると力説した。
 是容から有志で会読をはじめようと声をかけられたのは、下津久馬から『時務策』の内容をつたえられた是容も同じ志をもっていたからだろう。当時の是容は文武芸倡方の職を解かれていたが、家老であることに変わりはなかった。
 天保一四(一八四三)年から、二の丸の長岡屋敷ではじまった会読には元田八右衛門、荻角兵衛、さらに下津久馬が加わった。五人はあらためて経学と歴史学の勉強会をはじめたのである。政治と道徳は別物ではない。すべての人が心の誠をつくしてゆけば天下は泰平になる。「智術功名」をはせるのではなく、個人の内面にある道徳を正しくすることが理想政治の実現につながるとかれらは考えた。
 政治を具体的にどのように展開してゆくべきか。どのような政策をとるべきかについて討論(講学)すること、それがかれらの提唱する実学であった。
 小楠はまず熊本一藩で理想とする政治を実現めざした。同志のなかに家老の米田是容がいる。家老をもりたてて藩政改革をすすめ、さらに全国の諸藩に実学運動をひろめようと夢をはせていたのである。
 五人の講学によってもたらされた意見は、家老の米田是容によって藩主に建議された。まず藩主や高禄藩士の奢侈を禁じて、領民の暮らしを豊かにする。田畑を捨てて村をはなれる農民を防止する政策をたてる。藩と特権商人の結びつきを断ちきる。なによりも藩主や上級藩士のためではなく、領民のための政道を主張した。水戸藩とも気脈を通じて、斉昭と藤田虎之助がすすめる水戸の藩政改革に熱いまなざしをそそいでいた。
 実学派は藩内でもひろく支持されるようになり、藩政さえも動かすようになっていった。藩主斉護も実学に関心をもちはじめ、是容をふたたび文武芸倡方にもどした。
 実学派が藩政に影響力をもつようになると、時習館の学風をまもろうとする学校派は筆党家老の松井佐渡を中心にして反撃に出てきた。かれらは小楠たちを実学党とよび、あからさまに敵視しはじめた。松井派と米田派の対立は、藩政の主導権をめぐる党争でもあった。時習館も両派に分裂、内部対立がはげしくなった。
 改革派の先頭にあった是容の足もとがあやうくなったのは、幕府が天保の改革に失敗したのがきっかけだった。さらに弘化元年(一八四四)には、水戸藩の徳川斉昭が幕府に睨まれて失脚、実学派はよりどころを失なった。
 水戸と通じている実学党をそのままにしておいては、かならず幕府の嫌疑をこうむる……。松井派の攻撃がますますはげしくなった。是容を支持してきた藩主の斉護もかばいきれなくなった。藩論を混乱におとしいれた是容の責任を問うかたちで、またしても文武芸倡方を解任したのであった。弘化四年(一八四七)になって、是容はとうとう家老職まで投げだしてしまった。
 あのときに……。実学派は砕け散った。数年のちに会読は復活するのだが、それは最初のものとは別物だと小楠は思っている。
 小楠はひたすら家塾の門弟たちとの講学につとめた。家老の是容を押しあげて、まず一藩の政治を動かし、やがては天下の政治におよぼそうとする思惑ははずれたが、門弟たちはふえつづけ、そのなかで小楠の学問も新しいひろがりをみせはじめた。古代中国の理想政治のありかたを究めるうちに、君臣ともに心をただすことが政治や社会そのものを変えてゆくのだと思い至った。
 天下の政治をいかにすべきか。いかにすれば天下に正義を実現できるか。小楠はそこからすべてを発想するようになった。
 けれども、それが是容とのあいだに埋まらぬ溝をつくってしまったのかもしれないと思い当たる。
 小楠が是容と交わりを絶ったのは、安政二年(一八五五)の春であった。是容の意思ではない。小楠のほうから身をひくかたちで決別した。
 そこにいたる道筋は四年前から兆していた。嘉永六年(一八五三)といえば、アメリカ使節ペリーが浦賀に、ロシアのプチャーチンが長崎にやってきた年である。小楠はその年に二つの意見書を書きあげていた。「文武一途の説」と「夷虜応接大意」である。ともに異国船が渡来したとき、国家としてとるべき態度にふれた論述であった。
 アメリカの東印度艦隊が浦賀にやってくる。時期は来年の夏ごろ……。嘉永五年(一八五二)の秋にオランダ商館からもたらされた通報を幕府はひた隠したが、長崎ではひとりあるきしていた。
 外敵の襲来によって幕府はどういう態度をとるだろうか。小楠は異国船の来航をまえにして、何日も思案にふけった。まず軍艦をつくり、戦にそなえて糧食をたくわえる。民衆には、きびしい節倹をもとめるだろう。きちんと国是を立てないで、ひたすら武力の強化だけを考えるのではないか。軍制改革も必要だが、まず政治のありかたそのものを変えなければ何もはじまらない。〈武〉によって国をおこすのではなくて、身分の上下というものを問わない、ひらかれた討論によって、政治をただすのが天下の急務ではないかと小楠は結論づけた。
 嘉永六年(一八五三)の六月三日、アメリカ使節ペリーは軍艦四隻をひきいて相州浦賀沖にあらわれた。小楠は驚かなかった。アメリカ艦隊は、オランダ商館長が予告したとおりに現れただけにすぎない。夏という時期までも合致していた。
 六月一二日、ペリーの艦隊は、ひとたび江戸湾からはなれたが、幕府の混乱は深まるばかりだった。さらに七月の二五日になって一二代将軍家慶が死んでしまった。ペリーは年明けに国書の返答をもとめて、ふたたびやってくる。新しく将軍についた家定は病弱なうえに器量にとぼしい。小楠は水戸の徳川斉昭に熱い眼をそそいでいた。そのころは斉昭こそが儒教でいう聖人の政治ができる人物だと思っていたからである。斉昭の復権を夢にえがきながら、小楠たち五人を中心にした実学党の会読がふたたび長岡屋敷ではじまった。
 諸外国の出入港はすべて長崎……というのが鎖国政策をとっている日本のきまりである。ペリーはそれを知っていながら無視した。いきなり軍艦で浦賀にやってきただけでなく砲門で恫喝した。あきらかに礼を失した行動ではないか。ペリーの無礼はゆるせないものだ。まずペリーの犯した罪をとがめて、無礼な国とは断交を宣言しなければならない。たとえ戦争になっても、それが信義をつらぬく国のありかたというものである。小楠をはじめ実学党の同志は攘夷の態度をかためた。
 かれらはまず藩論を攘夷にみちびき、諸諸にも同調をもとめようとした。けれども学校派が藩政をにぎっているかぎり、藩内で動きがとれなかった。かれらは攘夷論をとる水戸と越前に希望をつなぎ、外部から腰の重い肥後にゆさぶりをかけようと、ひそかに両藩にはたらきかけた。
 事なかれ主義の藩政に憤る藩士たちがほかにもいた。国学者の林桜園の原道館にまなんだ宮部鼎蔵、永鳥三平らの肥後勤皇党である。小楠はそのころ桜園とも門下生の宮部や永鳥ともきわめて親しい関係にあった。宮部鼎蔵は山鹿流の軍学師範であった。朱子学を志す者は武術の達人でもあらねばならない……と説く小楠は塾生たちをひきいて内坪井町の宮部道場に過っていたのである。
 勤皇党はもともと古代神道の世界を理想にした尊皇論を説いていたが、攘夷という一点で実学党とむすびついた。実学党は勤皇党とともに藩政をゆさぶる工作をはじめたのである。
 さらに七月の一八日になって、ロシアの艦隊が四隻、長崎に入港したという知らせがとどいた。ロシア使節のプチャーチンが交易と国境のとりきめをもとめてやってきたというのである。ペリーとちがって長崎に現れたプチャーチンは礼節というものをわきまえている。さすがは世界一の大国だと小楠は思った。ロシアはアメリカとしめしあわせてやってきたわけではないが、やはり開国をもとめて来航した。諸外国の眼はいっせいに日本にむけられている。開国をもとめてやってくる諸外国を迎えるにあたって、まず外交の国是を立てなければならない。かれはアメリカとロシアとの外交のありかた念頭において、意見書「夷虜応接大意」をまとめあげた。
「我が国の外夷に処するの国是たる有道の国は通信を許し無道の国は拒絶するの二つなり。有道無道を分かたず一切拒絶するは天地公共の実理に暗して遂に信義を万国に失ふに至るもの必然の理なり」
 信義をまもる有道の国とは国交をひらき、無道の国には、はっきり拒絶の姿勢でのぞむ……。それが小楠の立てた外交の原則であった。砲門で開国をせまるアメリカは、とても有道の国とはいえない。必戦を覚悟してでもきっぱり退けるべきである。それが信義をつらぬく国のありかただと説いた。
 外交折衝のやりかたのついても細かくのべている。ペリーが来航してから、幕閣や諸侯のあいだで論議されている外交姿勢をすべて退けた。外国の脅威に屈して和議をとなえるというのは最悪の策というもの。いっさいの外国を拒絶して戦争しようという盲目的な攘夷論も、天地自然の道理に反する策である。とりあえずは和議をむすんでおき、武力をたくわえてから戦おうという策は、いかにも理にかなっているようだが、それでは天下の大義にそむくというのである。
 戦闘になることを覚悟して、幕府と諸藩が総力をあげて政治のありかたを改革する。それが最上の策であると小楠は説いていた。なによりも大義というものを天下にあきらかにしなければ、国ぜんたいの士気も奮い立たないというのであった。
 小楠の意見書はペリーの暴力的な来航をはっきり念頭においていた。アメリカの無道ぶりをゆるさないという姿勢をかためることこそ、国際的にみても正義をつらぬく道だと信じていたのである。
 小楠の「夷虜応接大意」をもとにして、肥後実学党の同志たちは、ペリーがふたたび来航したら、江戸を最後の戦場にして討ち死にする覚悟をきめた。水戸藩と福井藩も同調する気配をみせた。藩内でも実学党に賛同する藩士もあらわれてきた。改革派の米田是容の存在にふたたび熱い眼がそそがれるようになった。長岡監物の登用……の声がたかまるなかで、本人の是容も家老職にもどりたいと藩政府に申し出た。家老復帰の願いはかなえられなかったが、是容には別のかたちで活躍の舞台があたえられた。
 幕府はその年の一一月に江戸湾警固役の分担をあらため、肥後熊本藩は長州とともに相模の警備にあたることになった。藩主の斉護は米田是容を総帥に選んだ。
 三〇〇の藩兵をひきいて江戸にのぼった是容は、年があければ再び来航するペリーの艦隊と一戦まじえる覚悟をかためていた。勤皇党の宮部鼎蔵たちも年末に江戸にのぼった。かれらもまた江戸を背にして最後まで戦う決意をひめていた。ペリーは予告どおりに嘉永七年(一八五四)正月の一一日、ふたたび浦賀にやってきたが、幕府は軍艦八隻という軍事力に威圧されて、最初から和議の方針で交渉にのぞんだ。幕府は一戦もまじえることなく屈してしまったと聞いて、小楠は信じられなかった。外交姿勢としては最悪というほかなかった。
 戦うつもりで江戸にのぼった是容は、腰くだけになった幕府に失望、ただちに総帥を辞退してしまった。是容はそこまで筋書どおりに動いていたが、帰藩してからは小楠の期待を裏切った。
 和議を提唱した張本人は、意外にも水戸老公の斉昭であった。是容はその事実を後のちになるまで明らかにしなかったのである。
 藤田虎之助の父幽谷や会沢正志斎が体系づけた水戸学は、攘夷論でつらぬかれている。けれども斉昭は、あっさり外夷に屈してしまった。斉昭には、もともと天下の大事を救おうとする心構えなどなかった。〈学〉そのものが、ねじまがっている。それが水戸学の実像だと判断するほかはなかった。小楠はすっかり斉昭に失望してしまったが、是容はなおも水戸には期待をつなごうとしていた。小楠はそんな是容が許せなくなったのである。
 あれからまる二年がすぎている。たがいに師であり同志であった関係も、いまは一藩の家老と一藩士の関係にたちもどった。けれども是容は変わることなく、なおも熱いまなざしをそそいでくれている。越前からの招聘について、みずから藩内の根まわし役を申し出たというのが、なによりの証拠ではないか。
 酔いがまわってきた。にわかに眠気が兆して、うっとりしてきた小楠の視界に、角張った顎をゆるめて微笑む米田是容と、泊まり客の酒肴の手当てに心を痛めるつせの顔がうかんでいた。

 村田巳三郎がやってきて三日目の夕刻、小楠は最初の日と同じように村田と池辺藤左衛門を客間に通してみずから茶を煎れた。
「ところで巳三郎どの。ひとつお訊きしたいことがござる」
 小楠は茶をすすめながら、「慶永公は、なぜ、この時期に、それがしを召そうとなされるのか? 忌憚のないところをうかがいたい」
「ご承知のように、わが藩では……」
 すでに開港もやむなしという意見にかたまりつつあります……と、村田は口をきった。
 安政三年(一八五七)七月、下田に着任したアメリカ初代総領事ハリスは、老中堀田正睦に交易の自由化を強くもとめている。通商条約の締結を迫られた幕府は、ハリスの要求書の内容をあきらかにして諸藩に意見をもとめた。ペリーに開国を迫られたときには、福井藩も諸藩とおなじように拒絶すべきであると主張したが、こんどは積極的に開港して、交易をさかんにすべきであるという答申書を提出しようとしている。
「もとより、攘夷がかなわぬゆえに、開国に踏みきるというのではありません」
 村田は自信に口調で言いきり、「平四郎どのは、道理ある国から交易をもとめられたならば、これを拒んではならぬと仰せられましたな」と笑みを浮かべた。
「いかにも」
「さらにメリケンは決して無道の国ではないとも仰せられました」
「さよう。ペリーのふるまいだけを見て、最初は非道このうえない国と思いましたが、よく調べてみるとメリケンでは、かの唐土よりも国民のための政治が行われておる。これは驚くべきことです」
 小楠は前年の暮れに村田にあてた手紙のなかで、かれが『夷虜応接大意』のなかで無道の国ときめつけた西洋諸国のほうが、むしろ有道の国であるとのべていた。
「有道の国か、それとも無道の国かによって処し方きめるという御説、わが藩主はいたく感じ入っておられました」
「さようですか」
 小楠は口もとをゆるめた。
 慶永が水戸の攘夷論に疑問を持ち始めている。かれはペリー来航のとき斉昭の起用を進言して、自らも信頼する老公斉昭をささえてきた。ところがハリスが下田に着任してからも、斉昭は相変わらず攘夷論をふりかざして怒りくるっている。さすがの慶永も呆れはてているという。
 それに……。慶永は最近になって薩摩の島津斉彬や宇和島の伊達宗城と書簡をやりとりして、開港貿易論への転換を決意したという話を村田から聞いて、小楠はこの時期に自分が招聘される理由が判るような気がした。
「わが殿が仰せられるには、天下が乱れ、危急のときであればこそ、思いきって、ご政道を改革せねばならぬ。そのために、まずは諸外国との交易をさかんにして、富国への道を歩まねばならぬ……と」
「さすがは慶永公ですな」
 小楠は自信にみちあふれている村田の口ぶりに眼をみはった。
「されば先生は、かのペリーが二度目にやってきたとき、条約を結んだのは、あれでよかったと…」
 池辺がけげんそうな顔でたずねた。
「いや。結ぶべきではなかった。いまでも、その考えに変わりはない」
 小楠がきびしい口調で言ったので、村田はけげんそうな顔つきになった。
「ペリーのあのやりかたは非道というもの。それは、はっきりと言っておかねばならん。ところが幕府はどうだ。礼節をまもって長崎にやってきたヲロシアのプチャーチンを追い返し、砲門をもって恫喝したペリーに屈した。相手が組みしやすいと見れば居丈高になり、手強いとみれば身を屈する。これでは原理・原則というものがまるでないではないか。
「よろしいかな。メリケンには非道をわびてもらわねばならん。さりながらアメリカという国はけっして無道の国ではござらん。たとえばエゲレスやフランスをごらんなされよ。軍艦をもって多くの国をつぎつぎに属国にした。エゲレスは印度につづいて清国で戦争をはじめた。千島や蝦夷をおびやかすヲロシアもまた同じ穴のむじなでござる。ところがメリケンは属国というものを持たない。このような国との国交、交易をこばんではならぬのです」
 小楠はいつもながら饒舌にことばを重ねたが、ふいにしんみりした口調になって、「かようなことを言うがゆえに、それがしは生命をつけねらわれてもおる」と苦笑した。
 攘夷を捨てて開国に走った変節漢……。かつて盟約を結んでいた肥後勤皇党の宮部鼎蔵、永鳥三平、松田思重助らの配下は、ひそかに小楠を斬殺する機会をねらっていた。
「明日になると、また異なる思案があるかもしれませぬが、まあ、今日のところは、ともかくかように考えます」
 小楠は愉快そうに笑った。
「先生はいつも、このように仰せです。時勢はつねに生き物だと……」
 池辺はあっけにとられている村田をとりなすように口をはさんだ。
「さて巳三郎どの……」
 小楠はやにわに座りなおしたかと思うと、「もはや、お断りする理由がない。慶永さまには、よしなにお伝えくだされ」と、村田の顔をまっすぐにみつめて言った。
「先生……」 
 昂ぶった顔で身をのりだした池辺のかたわらで、村田は深ぶかと頭をさげながら、「それがし、これで、やっと福井にもどれます」と、なんどもうなずいていた。


 安政四年(一八五七)もあと六日で暮れようとするその日の夕刻、柳河の池辺藤左衛門のもとにゆかせた矢島源助が帰ってきた。
 旅姿を解かないまま書斎にはいってきた源助は寒さのせいで赤らんだ顔をあげ、「年が明ければ、ただちにご出立の用意をなさるようにと、池辺さまは仰せでございました」と言った。
「さて、国もとの藩政府は拒絶の腹づもりと聞いておるが……」
 小楠は大きなあくびをした。
 村田巳三郎は沼山津を発つとき、「おそくとも秋には越前においでいただけましょう」と意気ごんでいたが、それから半年がすぎても、福井藩と熊本藩との交渉はいぜん出口さえみえてこなかった。
 江戸を舞台にはしてはじまった両藩の交渉経過は村田巳三郎と柳河藩の池辺藤左衛門からの書状でくわしく知ることができた。
 安政四年(一八五七)は柳河藩主の立花鑑寛にとって参勤出府の年にあたり、家老の立花壹岐も藩主にしたがって江戸にのぼっていた。両藩の仲立役を買って出た壹岐は国許の池辺と連絡をとりながら、小楠の越前北行が一日も早く実現するように、福井藩の用人をつとめる中根靭負や橋本左内と知恵をしぼっていた。
 越前側は藩主の慶永みずからが交渉にのりだしていた。安政四年(一八五七)の八月一二日、慶永は細川斉護あての直書をたずさえて、龍ノ口の熊本藩江戸屋敷まで足をはこび、斉護の内室に面談、小楠の招聘について口ぞえをたのんでいる。さらに翌一三日には、用人の中根靭負を熊本藩屋敷にゆかせ、直書の内容について意見をもとめるという念にいれようであった。驚いた溝口蔵人はさっそく福井藩屋敷に出向き、慶永と中根をまえにして、小楠の悪口をさんざんならべたてたという。慶永は動揺することもなく、「僻物といわれていることは、もとより承知のうえでのこと……」とのべ、あらためて小楠への執心ぶりを明らかにしたというのだが、それがかえって溝口をはじめとする肥後側の重臣たちを依怙地にしてしまったようだった。
 溝口蔵人……。かつて小楠が藩費遊学生として江戸にのぼったあのとき、酒失を理由に帰藩を命じた男である。またしても松井派が分厚い壁となって行く手をはばんでいる。小楠はじっと待つしかないわが身がもどかしくもあった。
 重臣たちの反応については、ひそかに元田八右衛門が知らせてくれた。かれらは最初から越前の申し出をことわる理由だけを探していた。肥後細川家と越前松平家は姻戚関係にあるから、後日めんどうな事件をおこされてはこまる……というのが、かれらの本音であった。
 熊本藩士のひとりであるかぎり、藩政府からの正式な下命がなければ越前北行はかなわない。小楠は両藩の綱引をだまってながめているほかはなかったのである。
「たしかに……。先生の仰せのとおりでございますが……」
 源助は女衆がはこんできた白湯をすすってうなずいた。
 江戸の立花から池辺にとどいた書状によると、慶永から小楠招聘の申し入れをうけた斉護は、一〇月二三日付の返書できっぱり拒絶している……と源助は言った。
「ならば、いずこへ出立せよというのか?」
「池辺さまがおっしゃるには……」
 源助はいわくありげにほほえんで、「肥後が拒絶すればするほど、越前侯はますます先生にほれこんでしまわれたという話でございます。近く越前公は、もういちど直書を送られるようすでございます」と眼をかがやかせた。
「それで、決着がつくというのか」
「江戸の立花さまは、そのようにみておられます。再度のお頼みならば、もはや、わが殿さまもご承知なされるはずだ……と」
「わが殿のご気性までお見通しというわけか」
「越前公はさすが明君でございます」
 源助はもはや師の越前北行が実現したかのように昂ぶり、さっそく朋輩にも知らせようと、塾舎のほうへ走り出した。
 小楠は机に向きなおったが、そのとき奥のほうから赤子の泣き声が聞こえてきた。ひしりあげるような太い泣き声が屋敷中にひびきわたった。
 小楠は書見台から眼をはなすと、やにわに立ちあがった。足音をひそめて廊下をあるき、部屋の襖をそっとあけた。赤子はちいさな両脚で掛け布団をはねあげ、つぶれた熟柿のように顔をひしゃげて泣き叫んでいた。
 元気な赤子だ……。小楠の顔はひとりでにほころんでいた。
 妻のが男児を産んだのは、阿蘇からの吹きおろしが村里の空でうなりをあげはじめたころだった。偶然とはいえ一一月にうまれてきた赤子は、きっと薄幸だった妻と子の生まれかわりにちがいない。小楠は又雄と名づけた赤子をいとおしんでいだ。
 年があらたまれば、いよいよ越前北行は現実のものになりそうである。小楠は赤子の顔をのぞきこみながら、年の瀬までには残してゆく家族のこと、家塾の差配も思案しておかねば……と、考えていた。


「いやはや、ずいぶん気をもみましたが、こたびのことは、まことに胸のすく思いでござります」
 桃の節句の日に祝いにやってきた元田八右衛門はわがことのように喜び、小楠の越前招聘は、池田光政公でいえば熊澤蕃山、上杉治憲公(鷹山)でいえば細井平洲になぞらえられるほどの快挙だと言った。
 熊本藩と福井藩の談判は仲介人ともいうべき立花壱岐や池辺藤左衛門の思惑とは裏腹にことのほか長びいた。安政五年(一八五八)年が明けても、藩政府からはなんの沙汰もなかった。
 あるいは……。夏ごろまでかかるかもしれないと腹をくくっていた。ところが二月二八日、家老の平野九郎右衛門からとつぜん、越前北行を命じる差紙がとどいたのである。
 小楠はその日のうちに出発の日を三月一二日に決めて、越前の村田巳三郎と吉田悌蔵にあてて書状をしたためた。
 翌日から親戚の者や知人、門人たちが、ひっきりなしに祝いにやってきて、屋敷ぜんたいが、にわかに慌ただしさとざわめきのなかにのみこまれた。とくに小楠門下の三鼎足といわれる矢島源助、徳富太多助、竹崎律次郎の三人はわがことのように喜んだ。
 藩学とは異なる学風をもつ小楠塾に学んだたまに肩身のせまい思いをしてきた門弟たちは、降ってわいたような慶事に声をつまらせていた。小楠を兄のように慕っていた元田八右衛門もそのほとりだった。
「天下の動きをみるに、肥後の片田舎の隠者にはちと荷が重すぎるようでな」
 小楠は煤けた天井をあおいで考えあぐねていると元田は、「メリケンとの通商条約のことでございますか」と躰を乗りだしてきた。
 日米修好通商条約の審議は安政四年(一八五七)の暮れからはじまっていた。アメリカ総領事ハリスと幕府に全権をかまされた井上清直、岩瀬忠震とのあいだで会談がかさねられ、安政五年(一八五八)正月の一二日に妥結していた。だが、調印をめぐって政局の混迷が深まる気配がありありと感じられた。
「神奈川条約、それに下田条約のときとは、あきらかに情勢が一変している」
 小楠は深いためいきをついた。
 幕府は和親条約を独断で調印して、力ずくで朝廷をねじふせた。攘夷派の公卿たちはあらかじめ勅許をもとめなかった幕府のやりかたに憤っている。勅許問題をめぐって幕府と朝廷の対立がさけられない情勢だった。国内の紛糾がながびいて、修好条約の調印がおくれれば、こんどはアメリカとの関係がこじれるだろう。
「それに越前公は世子の問題にもご執心でございますな」
「それも、頭がいたい…」
 小楠は首をふりながら顔をくもらせた。
 一三代将軍の家定の世継ぎ選びは、すでに数年前からはじまっていた。御三家・御三卿のなかから世継ぎ候補としてうかびあがってきたのは、水戸の徳川斉昭の七男で一橋家を相続した慶喜と家定のいとこにあたる紀州藩主の徳川慶福であった。越前の松平慶永は、尾張の徳川慶勝、薩摩の島津斉彬、土佐の山内豊信、宇和島の伊達宗城など雄藩の諸侯とともに、幼少の慶福よりも賢明なうえ人望もある慶喜こそが時代にふさわしい将軍であると考えていた。紀伊派の首謀者は彦根藩主の井伊直弼であった。譜代の大名たちは人物よりも血統によって将軍をえらぶべきだという井伊の主張を支持している。一橋派と紀伊派の争いは、幕府内の改革派と守旧派の対立でもあった。条約勅許問題と継嗣問題は、幕府と朝廷の政争だけでなく、幕府内部の派閥争いもからんで、天下の政局をいっそう複雑なものにしていた。
「越前侯は明君だが、まだまだお若い……」
 天下のことはまだ無理だ……と、小楠はいつになく歯ぎれの悪い口ぶりになったのがおかしかったらしく、元田は笑いをかみころしていた。
 祝いの膳をまえにして、ひさしぶりに酒をくみかわしはじめてとき、あわただしく律次郎が廊下をかけてきた。
「先生……、林さまから祝いの品がとどいておりますが……」
 勤皇党の黒幕である林桜園が、酒樽と鯛を使いの者に持たせてきたと律次郎は言った。「まこと桜園先生の使いと申したのか?」
 神道の世界を古典を通じて究め、古代の政治を理想にえがいている林桜園は筋金いりの攘夷論者である。
「持ち帰らせましょうか?」
「待て。それでは、礼というものを失するであろう」
 使いの者にねんごろに礼をのべて帰すように……、小楠は律次郎に言いきかせた。
 小楠の越前招聘について藩内では、〈あれは二君に仕えるものだ〉と陰口する者もいないわけではなかった。たしかに藩主の松平慶永に仕えることになるが、熊本藩士であることに変わりはない。越前北行は藩命によるものだが、儒者としての自分が越前でどれほどの功をあげたとしても、熊本藩士としての家禄が増えるわけではない。自分の栄達などといっさい関わりなく、ひたすら人事をつくして天命を待つ。桜園はそういう門出を祝ってくれるのだろう。いかにも桜園らしいと小楠は思った。
「桜園先生といえば、神との対話に明け暮れる毎日だという噂ですが……」
 元田は薄笑いしながら言った。
 林桜園はペリーが二度目に浦賀にやってきたとき、弟子にあたる宮部鼎蔵を追うようにして江戸にのぼっている。かれもまた攘夷派の水戸に期待をかけていた一人であった。だが幕府の態度が和議ときまると、たちまち熊本にまいもどった。かれは水戸斉昭など天下の器ではないと門弟たちにもらしたという。いちど会っただけで、たちまち斉昭も藤田虎之助も贋物だとみぬいた眼力は、さすがだと小楠は思っている。
「きっと時世に絶望したのだ」
「桜園先生の説く攘夷とは、いかがなものでありましょうか?」
「それは、それは、肝がすわったものだ」
 ペリーが最初に浦賀にやってきたとき、幕府はもちろん諸侯のほとんどが攘夷をとなえていた。かれらは軍艦と大砲で脅されると、現実に立ちかえって、開国もやむなしという説に傾いたが、最初はだれもが攘夷で一致していた。きっと、ことばにつくせない危機を直感したからであろう。その漠然とした危機に桜園はこだわりつづけているのだと小楠は考えている。
「桜園先生は鎖国を解けば、わが国が、わが国でなくなると考えておられる」
「外夷のあのすざましさをご承知のうえでのことでしょうか?」
「そうだ。もとより異国の力がどれほどのものか、よくご承知のうえでのことだ。だからこそ攘夷を説かれるのだ」
「それは、どういうことですか?」
「国をひらいて、異なるものが、どんどんはいってくれば、わが天下の人心までもほろんでしまうということであろう」
「やがて、わが国の古から綿々と継承されてきた良き習わしまでもこわしてしまうと……」
「そのとおり。国を開くというのは、なまやさしいものではない。攘夷がかなわぬから開国だという無節操では、国が滅ぶと言いたいのであろう。桜園先生の説にも一理あるのだ」
「攘夷をつらぬいて、外夷と事をかまえれば、国がほろびましょう」
「むろん永久に攘夷をつらぬけというのではないだろう。ただ軍事力で威圧されて屈服するというのでは、やがて国のありかたも民心も堕落すると言いたいのだ」
「だから、今は攘夷だと……」
「さよう。わが国が自主・独立をつらぬけるかどうか。攘夷を踏絵にして国の将来を問うておるのだ」
「なるほど……」
「あるいは、いちど滅びたうえで、復活をめざすべきだと……。みなはバカにするが、桜園先生はただの神がかりではない」
 小楠の脳裏には祈祷する桜園の姿があらわれていた。とがった頬骨、太い鼻梁、分厚くたれさがる下唇をちいさくふるわせている。見るからにして異形の相をもつ桜園は、低くて重おもしい声をもらしつづけていた。

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