3、 90年初頭から同年4月まで
この時期は、救う会による捜査態勢の強化を求める署名運動が開始され、横浜弁護士会が、「坂本弁護士一家事件は、一家ぐるみの拉致事件であり、かつ、坂本弁護士の弁護活動に起因した事件である疑いが濃厚」との調査報告書を発表するなど、警察に対して捜査の強化拡充を求める活動が、組織的かつ全国的に展開され始めた時期である。
そして、県警も、徐々にオウム真理教を対象とした捜査方針へと転換されていった時期である。
しかし、初動捜査、1989年12月末頃までの捜査方針の誤りが影響して、オウム真理教に関する情報は決定的に不足しており、オウム真理教に対する捜査は実質的にはほとんど進展しなかった。
1.捜査の方向の修正−オウム真理教を意識しつつ事件性を認める
一部のマスコミ情報では、90年1月15日頃に警察の本件担当者会議が開催され、「オウム真理教以外への捜査の結果は全て白。灰色なのはオウムのみ。このオウムについて白黒付けないと捜査が進展しない。」という議論がなされた、といわれている。そして、現実に、これ以降、現場付近や知人依頼者などへの聞き込みがあったという報告は少なくなった。
このことは、90年4月26日の栗本県警刑事部長(捜査本部長)就任会見での発言内容からも伺える。
本県警刑事部長は、この就任会見で、坂本弁護士一家事件について、初めて公式に「弁護士業務に関連して何らかの事件に巻き込まれた疑いが強い」と述べて、業務関連性を明らかにした。このような会見が着任後直ちに行われていることから考えると、この会見に現れたような認識は、捜査本部内では、これより前の段階で形成されていたことが明らかである。
2.公然たる弁護士批判が控えられたこと
このころから、弁護士に対する不信感を露にした発言は急速に減少し、署名集めやチラシを配布等事件の風化防止のための運動についても、好意的発言が繰り返されるようになった。
後に90年7月23日に救う会が警察庁に署名44万人分を提出した際、応対した警察庁広報室長は「警察としても事件が風化して情報が来なくなることが一番怖い。短期間で100万人近い署名を集められたことは大変なことで、そのような活動は意義がある。」と評価する発言を行っている。
3.進まないオウム真理教への捜査
しかし、それにも関わらず、オウム真理教に対する捜査が進展していたとは評価しがたい。県警は、オウム真理教の信者の親や脱会者に当たっていないわけではないが、それはあくまでも坂本弁護士が個人的に面識のあった一連の人々の1人という位置づけに過ぎなかった。
オウム真理教とはどのような宗教団体であるのか、オウム真理教の協議・活動内容はどのようなものであるのか、オウム真理教は批判者に対してどのような攻撃的な対応をとっていたのか等々、オウム真理教そのものを解明するための事情聴取が行われていたとは到底評価できない。
90年2月18日の衆議院議員総選挙に関して同年3月8日に弁護士有志が警視庁に対して行った、オウム真理教信者による組織ぐるみの詐欺登録罪の告発も、実際にはほとんど何らの捜査も行われないまま不起訴処分となったのもこの表れといえる。
但し、90年3月の上九一色村の土地の取得や同年4月の熊本県波野村の土地取引などについては警察の情報収集が行われていたようであり、オウム真理教に対する捜査活動が全く停滞していた訳でもないことも確かである。
4.岡崎(佐伯)一明の投書に対する捜査のミス
1990年2月16日付で、長野県大町市に龍彦ちゃんを埋めたという地図入りの手紙が磯子署気付古賀県警本部長(原本)及び横浜法律事務所(コピー)にそれぞれ送付されてきた。
後に判明したところでは、佐伯(岡崎)一明が匿名で投函したものであった。横浜法律事務所は、直ちにその手紙を県警に提出した。
県警は、同月21日、長野県警と協力して同地図をもとに発掘捜索を行ったが、何ら手掛かりは得られなかった。その後の情報では、雪解け後の5月頃にも再捜索を行ったということであるが、やはり何らの手掛かりも得られなかったのであろう。
ところが、95年9月10日、結局この地図とほぼ一致する場所から龍彦ちゃんは遺体で発見された。もし、当初の捜索の際に発見されていたならば、捜査はずっと早期に進展したであろうし、その後の数々のオウム真理教による犠牲者も出さずに済んだであろう。龍彦ちゃんの遺体ももっときれいな形で残っていたであろうと考えると、いたたまれない気持ちである。何ゆえ発掘捜索に失敗したのかという反省だけは十分に行う必要がある。
特にきちんと総括しておかなければならないと思われるのは、この手紙の差出人の問題である。県警は、90年9月の時点で、岡崎(佐伯)一明からしつこく事情聴取し、ポリグラフ検査まで行ったという話である。また、捜査本部の幹部の話によると、この手紙が県警に提出されてからそれほど遅くない時期に、県警はその差出人が岡崎であることを突き止めていたという話である。前記90年9月の岡崎に対する事情聴取も、それを受けてのものである可能性もある。また、90年3月11日には松本智津夫が、3億円を持ち逃げされたとして佐伯一明を被疑者とする被害届を荻窪署に出しておきながら、間違いだったとして後にこれを取下げるという事件が起きている。このように、岡崎を巡っては、当時、手紙の件、オウム真理教からの逃亡の件等、不自然な動きがいくつも明らかになっていたのである。
このような状況を考えると、当時県警が岡崎に関してもっと多面的に捜査を続けれていれば、少なくともその後5年もの年月を費やすことなく、もう少し早期に坂本事件の全容を解明することができたのではないだろうか。初動捜査の誤りから来るオウム真理教に関する情報量の不足など、当時の困難な条件を差し引いても、この点については、県警としても十分総括して欲しい。
他方、県警は、滝本弁護士が91年9月に岡崎本人をはじめその親族などに直接面会していることを聞き付け、その直後に、今後一切岡崎及びその関係者に接触をしないよう強く要請している。それだけでなく、滝本は県警から、岡崎のみならず「その他の脱会者への調査」も今後は止めるよう強い要請を受けた。救う会としてはもっと徹底して岡崎及びその関係者を洗えばずっと早期に事件が解決できたのではないかとの悔いが残る出来事である。
しかも、県警は滝本に直接の調査を止めるよう要請した際、岡崎に対する徹底した捜査は県警が行うと約束した。それにもかかわらず、その後岡崎に対する捜査は進展せず、95年のオウム真理教に対する一連の強制捜査の渦中岡崎本人が出頭して自供するまで、岡崎を通じて全容解明をすることはできないままに終わった。結局、県警は、滝本らの調査を止めておきながら、その後は単に岡崎からの情報がもたらされることを待つだけの対応に終始していたのではないかとの疑念を禁じ得ない。
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