90年末から94年秋まで
この時期は、救う会にとっても、県警にとっても、数少ない情報を頼りに、出口の見えない活動を続けた時期であった。しかし、他方でオウム真理教は自らの反社会性の度合いをますます強めて行き、犯罪集団、武装集団と化していった重要な時期である。この時期に県警をはじめ警察全体がオウム真理教に対する監視をしていれば、坂本事件の解決だけでなく、他の多くの犯罪事件を防止できたのではないかと悔やまれる。
1.一向に進展しない捜査
この時期はほとんど目新しい動きはなく、県警も救う会もともに情報提供を必死になって呼びかけた時期であった。
90月12日18日に「坂本弁護士一家救出のための懸賞金広告実行委員会」が結成され、翌91年7月3日には懸賞金が2000万円から5000万円に引き上げられた。これは幅広く市民からの情報を収集したいという思いと同時に、犯人グループ(複数犯であることはほぼ明らかだったので)の仲間割れに期待する面がある運動であった。
他方、県警も同じように、92年9月1日にはフリーダイヤルを設置して幅広く市民からの情報を収集しようと躍起になった。
この時期は事実調査班が何度も捜査本部を訪問し、情報交換などを行った。やり取りの詳細は別表の年表のとおりであるが、県警は数少ない情報にていねいに取り組んでいることをひたすら強調し、救う会が捜査の強化を訴えるのとは逆に弁護士側から情報が流れることに不快感を表明するというやり取りが続いた。しかし、相変わらずオウム真理教の現況に対する捜査は全く進んでいないというのが当時の印象であった。
しかも県警は、オウム真理教が犯人であるという心証を持ちつつも、オウム真理教をあくまでもワンオブゼムとしか位置付けず、事件当時の情報収集にしか興味を持たずに膨大な量の平板な聴取り調査を続けるという態勢を最後まで崩さなかった。特に、93年以降は、一通り聴取り調査を終えた対象に再調査を徹底して行っており、明らかに手詰まり状態であったと思われる。
2.進行するオウム真理教の問題に全く興味を抱かなかったこと
警察が手をこまねいている間に、オウム真理教は着々と武装化への道を歩んでいた。同時に、オウム真理教の周辺で、たくさんの事件が生じつつあった。これを逆から言うと、オウム真理教に対する捜査の可能性は客観的には広がっていたということになる。
しかるに、波野村強制捜査の不発とその後の宗教弾圧キャンペーン以後、警察はオウム真理教に対する監視を怠っており、新たな事件に対する捜査を真剣に検討したとは考えられない。
例えば、91年8月上旬には、長野中央病院からオウム診療所へ患者を移動させる騒動が起き、地域住民との関係でも、従前から問題の絶えなかった上九一色村に加えて、92年1月12日には松本道場建築禁止仮処分決定が出され、同じ頃亀戸道場付近住民との紛争も生じていた。更に、明白な犯罪行為といえる盗聴器設置についても、91年8月には茨城県勝田市のオウム真理教関係者宅で盗聴器が発見され、また93年12月には東京都3鷹市でカウンセリング中のオウム真理教関係者宅でやはり盗聴器が発見され、いずれも有線電気通信法違反で被害届を出しているにも関わらず、さしたる捜査は行われなかった。92年4月17日には、かねて進出中であったロシアから日本向けのラジオ短波放送を行い、この前後から数多くの信者を獲得するとともに旧ソ連軍の軍事情報を収集していた。一方、92年9月には、石川県で鉄工所を乗っ取り、工作機械を取得し、その後の武装化への道を着々と進めた。この間、早川は、波野村刑事事件で保釈中の身であり制限住居が定められていたにも関わらず、数十回もロシアを訪れ教団の武装化の準備をしていたのに、このような事情を警察は全く捉えていなかった。
オウム真理教被害対策弁護団が、日々生起する事件に熱心に取り組み、これらを丹念に民事・刑事の事件として取り上げようとしていたのに対し、県警はオウム真理教について89年11月4日前後の動きにしか注目せず、その後の動きについてもほとんど興味を持たなかった。このような県警の姿勢は弁護団とは全く対照的であり、そのような捜査方法の誤りがオウム真理教を増長させたといっても過言ではない。
これらの中には、犯罪として処罰できるものも数多く含んでいる。坂本事件の問題と離れたとしても、このような全国警察のオウム真理教に対する消極的捜査姿勢はそれ自体大きな問題と言わざるを得ない。そしてそれは、繰り返し述べるとおり、宗教(法人)への捜査の消極性に加え、オウム真理教というやっかいな団体への消極性からくる態度としか考えられない。
3.広域捜査の不存在、管轄の壁
このような警察のオウム監視が不十分であることにより武装化を漫然と許してしまったことの理由の一つとして、管轄の壁の問題がある。
坂本事件発生直後に神奈川県警が富士宮署に行っても何らの協力も得られなかったことや、杉並署への目撃情報が全く神奈川県警に入っていなかったことは先に指摘したが、この状態は、この時期においても一向に改善されなかった。
例えば、前述の茨城県勝田市で盗聴器が発見された件について、92年6月11日に事実調査班が捜査本部を訪問した際、中隊長は、神奈川県警は「勝田における盗聴事件については知っているが、勝田署の問題に過ぎない」と発言した。
さらに、宮崎県資産家拉致事件では、94年4月以降、宮崎県警と警視庁、さらには富士吉田署が互いに管轄のなすり合いをしてどこも取り合おうとせず、宮崎地検でさえ捜査自体を拒否するという態度に出ている。結果として被害者は幸運にも一命を取り留めたものの、5カ月にわたり監禁を受け、死の恐怖と一人で闘わざるを得なかったのである。
4.松本サリン事件
1994年6月27日に松本サリン事件が発生した。 松本智津夫は、93年4月の時点でサリン説法を行い、その後も繰り返し同種の説法を行いつつ、上九一色村でサリン製造を着々と進めていた。そのため、オウム真理教は、93年から、化学兵器サリンなどの原料を購入するためのダミー会社を作っている。しかも、94年4月には、オウム真理教被害対策弁護団は、松本智津夫のサリン説法があったことを神奈川県警に報告していた。それにもかかわらず、警察がその情報を軽視し、全く徹底していなかったからこそ、オウムによる長野地方裁判所松本支部を念頭に置いたサリン襲撃を許し、死者7名を出す惨事を防止できず、それどころかK氏に嫌疑を掛けるというように捜査を誤った方向に導いたのである。これはひとえに警察全体がオウム真理教の動向をまったく把握していなかったことを如実に表している。
しかも、事件以前のみならず、松本サリン事件発生後間もない94年7月には、上九一色村の第7サテイアン付近で異臭騒ぎが起こっているにも関わらず、これを直ちに警察全体としては確知せず、このことと松本サリン事件とを関連づけて考えるという発想自体、長野県警をはじめ警察は持っていなかった。上九一色村の住人や信者の一部の親らはは松本サリン事件発生直後からオウム真理教を疑っていたにもかかわらずである。だからこそ、7月中旬に退院してきた被害者のK氏を被疑者なみに執拗に取調べているのである。
他方、松本サリン事件について、山梨県警や神奈川県警が直ちにオウムと関連づけて追っていたことを示す情報も存在しない。
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