94年秋から全容解明に至るまで
この期間は、オウム真理教の違法行為に関する、オウム被害対策弁護団からの警察に対する度重なる報告・告発等により、警察のオウム真理教に対する対応が変わっていった時期である。
とりわけ、1995年に入ってからは、オウム真理教に対する強制捜査の話題がマスコミの内部でも語られるようになった。
他方、オウム真理教は、これらの動きの中でますます狂暴化の度合いを深めて、仮谷さん拉致・殺人事件、地下鉄サリン事件などを発生させ、崩壊への道を歩んでいった。
そして、この中で、岡崎からの情報提供、逮捕された早川ら実行犯の供述によって、95年5月頃から坂本弁護士一家事件の全容も明らかにされていき、9月6日に始まる遺体捜索を迎えることとなる。
1.警察の対オウム真理教の対応の変化
94年8月21日、宮崎県資産家拉致事件で被害者の老夫婦が親族によりオウム真理教から無事救出され、再びオウム真理教がマスコミに取り沙汰されるようになった。同事件では拉致する際に薬物を使用したことが疑われ、その調査の中からサリンの解毒剤であるPAMをオウム真理教関連会社が大量購入していた事実が発覚した。
それだけでなく、94年9月20日の江川襲撃事件を含め、オウム真理教は強制出家事件や薬物使用事件を多数発生させていた。
サリンの残留物質であるメチルホスホン酸モノイソプロピルが上九一色村の第7サテイアン付近の残土から検出されたのも同年11月(採取は同年10月)である。
さらに、オウム真理教被害対策弁護団は、94年9月には、オウム真理教がLSDらしきものを使ったイニシエーションを始めていることを神奈川県警に報告し、同様に、同年10月末には、内部のリンチ殺人事件まで報告している。このリンチ殺人事件については、極々一部の厳重な秘密とするよう警察から報告した弁護士に対して強く要請された。
また、翌95年1月4日には、被害者の会の永岡会長がVXガスで狙われて瀕死の状態になるという殺人未遂事件が起こった。
これらの事件の多くは警察に被害届または告訴・告発状を提出しているが、その多くは提出時には極めて冷たくあしらわれている。しかし、ちょうどこの94年9月下旬から徐々に警察のそのような態度は変化を見せはじめた。宮崎資産家拉致事件では同年9月26日に告訴告発を受理し、同年10月5日頃からは滝本の自宅及び事務所、江川の自宅などに24時間の警備がつくようになった。しかし一方で、都内に住む「被害者の会」永岡会長宅には警備はつかなかった。このことが後に永岡会長に対する殺人未遂事件の発生につながることとなる。
おそらくその時期に警察庁から全国の都道府県警に何らかの指示がなされたものと推測されるが、同年末から翌95年はじめには、宮崎県資産家拉致事件・元看護婦監禁事件でオウム真理教に一斉強制捜査が入るという情報がマスコミで飛び交うこととなった。
ところが、警察の準備の遅れ、阪神淡路大震災による人手不足、95年4月の選挙対策などでその時期は次第にずれ込み、やがて地下鉄サリン事件発生まで強制捜査は行われずに終わってしまったのである。
2.マスコミへのリークの問題
95年9月6日から10日の坂本弁護士一家の遺体の発掘作業においては、その献身的な仕事ぶりがマスコミに連日映し出された。 しかし、その一方で、坂本・大山の両家族、横浜法律事務所には一切の連絡・報告がないまま95年5月頃からマスコミで盛んに本件の殺害説が流れはじめたことは誠に残念である。マスコミで殺害説が流れ、坂本さちよさんや大山友之さん・やいさんをはじめ家族の心痛は計り知れないものがあった。救う会の全国一斉行動も、これらのマスコミの報道によって「やっても無駄ではないか」という空気が一部に流れ、運動にも相当の支障が来された。
今から振り返って見ると、95年5・6月当時に流れた情報は、一部のガセネタを除きそれなりに正確なものであった。と言うことは、岡崎(佐伯)一明が自ら流した情報もあったとは思われるが、それ以外に、捜査関係者から情報が流れたことはほぼ間違いないものと思われる。県警は当時も「マスコミよりも先に情報を伝える」とは言っていたが、このようなリークを許すようではそのような配慮も全く意味をなさなくなってしまう。
本来、情報を流すかどうかは警察が一体となって判断すべき問題であり、全体としては情報を秘匿しているのに個人の捜査官がマスコミに情報を流すということでは県警が弁護士に「情報を流すな」と言っていたことが何だったのかという疑問すら沸いてくる。マスコミに情報を流すのであれば警察がスポークスマンを立てて流すべきなのであり、リークというやり方はそれ自体問題であると言わざるを得ない。
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