第3 捜査全体の総括
坂本弁護士一家事件については、それぞれの時期に分けて、捜査の問題点について指摘してきたが、本章では、以上の期間全体を見渡した上で、捜査の問題点について指摘したい。その意味では、これまで指摘してきた部分と重なる点も多いが、今後の捜査の糧とするために、改めて、その問題点について指摘したい。
坂本弁護士一家事件においては、これまで関係各所でも指摘されているとおり、初動捜査の失敗と当初の捜査方針の決定的なミスが、その後の捜査を困難ならしめ、本件の解決を遅延させ、揚げ句にオウム真理教によるその後6年間の大罪を許してしまった最大の原因といえる。そこで、まず、初動捜査の失敗に関して指摘し、次に、初期段階での捜査方針の誤りについて指摘することとする。そして最後に、このような消極的な捜査方針を採用させた1つの、かつ大きな原因と思われる宗教の壁についても指摘することとする。
一 初動捜査の失敗
1 事件性の認識の欠如
坂本弁護士一家事件においては、坂本弁護士の同僚弁護士である横浜法律事務所の弁護士たちが、さちよに同行して磯子署に赴き、当初から「坂本弁護士一家が自ら失踪することは考えられない、事件に巻き込まれたことはほぼ間違いない、その犯人はオウム真理教関係者である可能性が極めて高い」旨訴えている。
そしてそれは、憶測による根拠のない訴えではなかった。布団ごと一家が消えているという状況、血痕、遺留品としてのプルシャ、プルシャに関する横浜法律事務所とオウム真理教とのやり取りなど、どれを取っても、89年11月15日の公開捜査前の段階で本件がオウム真理教による事件であるという強い疑いを持ってしかるべき事件であった。
そして現在明らかになっているとおり、「拉致」か「殺害」かを除いて、結果的に見ればその指摘どおりの事件だったわけである。
ところが、県警磯子署はこの家族・同僚らの必死の訴えに何ら呼応しなかった。それどころか、横浜法律事務所への県警のかねてからの反発と、相手がオウム真理教という「うるさい」宗教団体であるということから、「横浜法律事務所の言うことを鵜呑みにはできない」ということを意識しすぎ、「無色透明な気持ちで捜査に臨む」という中立な立場を通り越して「横浜法律事務所の言うこととは違った角度から捜査をしよう」という誤った捜査方針を立ててしまったのではないかと言わざるを得ない。
そのために、横浜法律事務所が「坂本弁護士一家事件は業務に関連した拉致事件である」と強調すればするほど、「事件とは断定できない」「むしろ事件性は薄い」「弁護士に躍らされるな」と、事件性を否定する方向に敢えて踏み込んでしまい、初動捜査において事件性の認識を持つことを避けてしまったのである。
2 最初の現場検証における様々な見落とし
事件性の認識の欠如、そしてそれによる緊張感の欠如が最大の要因と思われるが、磯子署の刑事が一番最初に坂本堤宅に踏み入った89年11月7日夜、様々な重大な事実を見落としてしまったことは、単なる「うっかり」では済まされない、極めて重大なミスと断定せざるを得ない。
このとき、もしプルシャを捜査員が発見していたら、事態はどのように推移したであろうか。
県警は、横浜法律事務所のメンバーには、「バッジ1個で強制捜査に踏み切るのは無理だ」と言っていた。強制捜査が謙抑的に行われなければならないという憲法・刑事訴訟法上の大原則に照らせば、その点はそのとおりかも知れない。
しかし、当時、県警はオウム真理教に対する強制捜査を真剣に検討した形跡すらない。この県警の態度には、捜査員が第一発見者ではなかったということが大きく影響していることは否定できない。
現に県警の幹部は、後にマスコミ関係者に、坂本弁護士の関係者が最初にプルシャを発見したことをことさら強調する発言を行っている。
また、バッジ1個で強制捜査に踏み切るのが無理だとしても、その後の横浜法律事務所とオウム真理教とのやり取りについては、注目の度合いが変わったことは間違いない。オウム真理教は、11月8日に青山がバッジの持主に関する調査を約束した後、交渉担当者が上祐に変わり、その内容も不自然に変遷していった。もちろん、その状況は逐一県警に報告していたし、やり取りはテープにとって提出していたわけであるが、仮に捜査員がバッジを発見していたとすれば、「我々警察は現場の聞き込みをする。オウムとの交渉は先生方にお願いする。」などという対応をしたはずはない。警察がその対応をするか、少なくとも弁護士の交渉経緯を睨みながらタイミングを見たうえで県警自らオウム真理教への事情聴取を行ったことは想像に難くない。あるいは、早川らのアリバイ、オウム真理教の実態などについて、当初から全力を挙げた捜査が行われていたはずである。なぜなら、プルシャが犯人による遺留品として県警に認識されていたとすれば、オウム真理教とのプルシャに関するやり取りこそが捜査の最重要場面と認識されていたはずだからである。逆に言えば、県警はプルシャそのものを重大な遺留品と考えていなかったのである。
しかし、プルシャは、我々が全容解明前度々指摘していたとおり、事件とオウム真理教をつなぐ最大のパイプであったのである。実際、このプルシャは実行犯であった中川智正が落としたものであった。そして中川がプルシャを現場に落としたことで、オウム真理教側は相当に焦り、青山と上祐を使って綱渡りの交渉を行っていたのである。
プルシャだけではない。7日夜に丹念に現場検証をしていれば、襖やカーペット、あるいは壁などに暴力的行為が行われた痕跡が数多く残されていたはずである。これらについてもその時点で発見されていれば、「事件かどうか」が90年4月まではっきりできないという事態にはなっていなかったはずである。
この緊張感に欠ける捜査は、11月7日夜のみではない。寝室襖に鏡台がぶつかった痕跡など暴力的行為の跡は、翌8日朝の磯子署の現場検証、さらには県警による再現場検証でも見つけることができていない。
これらは、事件性の認識が薄いままに緊張感を欠いた見分を行ったために生じた初歩的なミスと言えよう。
3 オウム真理教に対する捜査をほとんど行わなかったこと
県警はいわゆる初動捜査と位置付けられる89年11月7日から同月15日までの間、オウム真理教に対する捜査をほとんど行っていない。
しかし、現場にプルシャが遺留されており、坂本弁護士とオウム真理教が事件直前に厳しい対立状況にあったことからすれば、オウム真理教に対する疑惑が最も大きいことは事件当初から明らかであった。
また、横浜法律事務所は当初から富士山総本部を張ってくれと県警に強く要望した。それは、坂本弁護士一家がオウム真理教に拉致されたのだとすれば、彼らの当時の総本部である富士宮の道場に連れ込む可能性が高いと考えたからである。結果的には、坂本弁護士一家は遺体で富士宮に運び込まれ、その後車で運び出されたものの、実行犯たちは富士宮の松本智津夫と何度も電話連絡を取っており、またその後ほどなくして富士宮に戻っているわけであるから、富士宮を見張っていれば、早川をはじめ実行犯たちが総本部に帰るのを把握できたはずである。
特に横浜法律事務所の弁護士たちは当初から早川が怪しいと県警にも伝え、オウム真理教との交渉でも早川の動向・アリバイについて何度も尋ねていた。したがって、早川らが富士山総本部に帰って来るのをこの時点で県警が把握すればその後の捜査の進展が大きく変わっていた可能性は大きいと言わざるを得ない。
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