第3期(91年1月〜92年8月)
この時期の特徴
事件発生後1年を経過しても解決の展望が見えない中で、長期的な活動も展望せざるを得なくなった。そのため、これまでの活動をある程度総括・整理し、1990年12月1日に開催された第3回全国代表者会議で、救う会の取り組むべき3本柱の活動を決定した。
@事件の風化防止
A坂本一家を我々自身の手で救出するための事実調査活動の強化
B坂本事件限らず、弁護士に対する業務妨害を防止するための取り組み
そしてその方針に沿って、@についてはリーフレットの発行、坂本救出月間の取り組みなどを行い、Aについては懸賞金実行委員会の発足、事実調査班の発足などが取り組まれ、Bについてはリーフレットの発行などが取り組まれた。
また、この時期の特徴の一つとしては、全国行脚の成果、1990年4月から発足した日弁連阿部執行部の積極的な姿勢などの反映で、地方発案型の活動が生まれ始めたことが挙げられる。
京都のステッカー、各地での街頭署名の定期化、東京のテレフォンカード、国民救援会の救援美術展での坂本問題の取り組み、滋賀での封筒への情報提供の呼びかけ、町田・茨城での請願・陳情・地方議会決議などがある。
90年の夏以降、署名集めだけでなく集会などでの訴えも行うようになったさちよさんや大山さんなど、坂本一家のご両親の活動はこの時期にはますます市民や弁護士の目に見えるものとなっていった。
事務局の疲れ
一方、救う会事務局会議については、懸賞金実行委員会、事実調査班の発足に伴う力量の分散、1年以上を経過した各人の疲れ等から、事務局会議の開催自体も10日に1回乃至1ヶ月に2回程度になり(91年1月から92年7月までの20ヶ月に44回)、出席人数も10人を切る状態から、後半には6〜7人という状況になった。
総じて、この時期は、各地で自発的な活動の萌芽が現れつつも、日弁連や各地の弁護士会主導の活動が広範に展開されるまでには至らず、かといって、救う会自体も事務局メンバーに疲れが溜まり、「これなら全国的に、大規模に取り組める!」という新鮮な活動方針の提起がなかなか出来ずに苦しんだ時期であった。
そして、救う会事務局は、事務局会議への出席者が減少していく中で、時々もたらされる各地の新鮮な活動に励まされながら、署名やビラ撒きなどのそれまでの活動を何とか継続していった。