1989年12月から1990年4月まで
−オウムに関する報道−
横浜法律事務所は、記者会見などにおいて、オウム真理教をあえて名指しはせず、「新興宗教」という表現を使っていた。
他方、オウム真理教は、各マスコミ各社に対し、横浜法律事務所の記者会見に先立ち、 「教団の実名を出して報道をしたときは法的手続きを検討する」 旨の警告書を送りつけていた。
そのため当初の報道は、ほとんどが「オウム真理教」の名前を出していない。
マスコミのオウム真理教実名報道が「解禁」されたのは、オウム真理教の麻原教祖こと松本智津夫が11月30日に西ドイツ(当時)のボンで記者会見を行ってからである。
「身内犯行説」と新聞報道
このとき松本智津夫は、坂本事件とオウム真理教との関わりを否定するとともに、この事件はオウムたたきのための身内による陰謀ではないかなどと、荒唐無稽な主張を行った。 その時の報道は
「『弁護士一家失踪と無関係』オウム真理教教祖が会見(12月1日付読売朝刊)」
「『教団に動機ない』西独・ボンで代表が会見(同日毎日朝刊)」
「弁護士失踪との関わりを否定(同日神奈川)」
等であった。
このとき以後、新聞紙上からオウム真理教関係の報道はほとんどなくなっていく。
そして、坂本事件自体の報道も、年が明けた1990年1月からは新聞紙上からは急激に減っていった。
テレビとオウムショー
他方、テレビの方は、事件直後の報道が一段落していたが、松本智津夫のボンでの記者会見を受けて、横浜法律事務所にワイドショーへの出演依頼が寄せられた。松本智津夫による「身内犯行説」への反論の必要もあって、事務所では各弁護士が手分けをして12月1日のワイドショーに出演した。その中で、岡田尚弁護士が青山弁護士と激しく対決したことが、視聴率の欲しいテレビ局の注目するところとなり、松本智津夫ら一行が帰国した12月4日以降、ワイドショーへの出演依頼が横浜法律事務所にどっと寄せられた。
しかし、「横浜法律事務所VSオウム真理教」などという矮小化したテーマに乗せられるべきではないと判断し、以後、必要なときは救う会の弁護士が手分けして出演することとした。しかし、救う会の弁護士も、オウム真理教が犯人であると断定する発言は行えはずもなく、また、各テレビ局側の勉強不足もあって、これらワイドショーはオウムの弁解をただ一方的に垂れ流す場と化した。
このため、救う会の弁護士も12月中旬からはテレビ出演を断るようになり、以後は、ワイドショーはただオウム真理教を面白おかしく報道するだけとなった。
オウム真理教の方でも、テレビを利用して世論操作をすることができるということを「学習」し、各テレビ局のワイドショー毎に「独占中継」を小出しに提供し、その「教義」の宣伝に勤めた。このオウムの戦術にテレビ各社は軒並み見事に乗せられ、中には松本智津夫と松本知子のなれそめ報道など、松本智津夫を芸能人扱いするワイドショーも現れた。
このような状態は翌90年の2月頃までは続いた。