1995年1月から9月まで
−追いつめられ狂暴化するオウム−
1995年1月1日、読売新聞が「上九一色村でサリンの残留物質が検出された」と報道し、前年6月27日に引き起こされた世界で初めての毒ガスによるテロ事件「松本サリン事件」とオウム真理教との関連が一気に注目された。
これに対し、オウム真理教は、上九色村の住民を殺人未遂で告訴するなどして対抗した。
この頃からオウム真理教に対する報道が急速に増えた。
2月28日、目黒公証役場事務長「仮谷さん拉致事件」が発生。
3月20日、「地下鉄サリン事件」発生。
3月22日、オウム真理教に対する強制捜査開始。
この後は、連日どのチャンネルをつけてもオウム一色となっていた。
−再び坂本事件報道の過熱へ−
このような中、坂本弁護士一家事件とオウム真理教の関与についてもあらためて注目されるようになっていった。
4月5日、洋光台第2小学校で龍彦ちゃんの入学式があり、各マスコミが入学式に参加したさちよさんを一斉に報道した。「坂本事件の解決も近いのではないか」という雰囲気が各マスコミに広がっていった。
4月19日、読売新聞が夕刊一面で、「坂本事件について逮捕されたオウムの幹部らが供述開始」との報道を行った。これを追った他の新聞社の記事はなかったが、坂本事件がオウム真理教の犯行であるとする初めての報道であった。
5月19日には朝日新聞が朝刊一面で、「坂本事件に関してオウムの関係者が供述開始」との報道を行ない、さらに22日には毎日新聞が朝刊一面トップで「坂本弁護士一家殺害強まる」との見出しで、坂本弁護士一家殺害についての記事を載せた。同日、読売新聞も坂本事件についてオウム関係者が供述開始との報道を行った。
この頃から坂本事件に関する各マスコミの報道が過熱し、スポーツ新聞や夕刊紙などの中には「坂本一家は駿河湾に沈められた」など、何の根拠もない報道を興味本位で行うところも現れた。
−配慮を欠く取材−
そのころ、さちよさんなど、坂本一家の家族に対する配慮を全く欠いた取材も行われた。
毎日新聞の記者が、5月22日午前2時頃、ホテル宿泊中のさちよさんにいきなり電話をかけ、殺害説の記事についてのコメントを求めるという非常識きわまりないものであった。
さらに同日夜羽田空港に着いたさちよさんに対し、断りなくフラッシュを焚いて写真をとり、取材を強行しようとするなどの事態も起きた。
−リーク情報に振り回された報道−
さらに6月に入ると、24日から25日にかけて、新聞各紙がほとんど一斉に坂本弁護士一家殺害について報じた。
特に、この6月24日からの殺害報道については、「救う会」が6月27日に予定していた全国一斉街頭署名・宣伝行動に甚大な影響を与えた。全国から救う会事務局に「本当に署名行動をするのか」という問い合わせが相次ぎ、現に予定していた行動を中止したり、延期したりする地域も現れた。
しかしこれらの報道は、いずれも警察からのリークにもとづく報道であり、救う会などが捜査本部などに聞いても、これらの記事に関しては全くノーコメントであるとの回答しか得られなかった。
−公式発表− 「絶望」
8月10日、神奈川県警から、横浜法律事務所、オウム弁護団そしてさちよさん、大山さんら家族に対して、「現時点では、坂本事件はオウムの犯行と申し上げてかまわない。生存救出を目指して捜査を続けてきたが、生存救出は厳しいと言わざるを得ない。」との報告がなされた。
坂本事件の犯人、一家の消息に関しては、これが初めての正式な報告であった。
9月6日から坂本弁護士一家の遺体の捜索が開始され、各マスコミは空前の体制を敷いてこの遺体捜索を報道した。また、この間の報道において、さちよさん、大山さんらに対する非常識な取材攻勢が予想されたので、横浜法律事務所は、さちよさん、大山さんらと連絡を取り、事態が落ち着きを取り戻すまで一時他の場所に避難する態勢を取った。