空白の一日
50代男性
私は昭和45年より(26年間)一日も欠かさず日記を書き続け ているが、一日分が空白で埋まっていない。忘れもしない平成7年 3月20日の地下鉄サリン事件があったその日です。
その朝、地下鉄秋葉原に電車が到着した時に築地駅にて「ガス爆 発」事故があったとの車内放送があり、電車が4〜5分止まった。
その後、電車は徐行運転で小伝馬町駅手前で又、止まる、今度は八 丁堀駅にて「ガス爆発」事故ありと車内放送があった。
前の電車が 人形町駅に進んだらこの電車を小伝馬町駅に入れますの放送を聞き、間もなく最徐行で電車は小伝馬町駅に入り、私は様子を見ていたら、まもなくここで運転を打ち切ると車内放送があり、ホ−ムに下りたら男性が倒れていた。私はおもわず病気の人と思い介抱する。全身が痙攣していた。その男性の手足を6〜7分間さすっていた。
ふと、前方を見たら私の所より7〜8メ−トル位先に女性も倒れていた。介抱の途中突然異臭がしてきて、自分も自力で表に逃げだした。表に出て広い通りは危ないと考え、脇の狭い道路に逃げ込み、途中急に眼が暗くなり、眼が見えなくなり倒れこみ気を失う(この時に死を実感した) 。他の事は何も頭に浮かばず、ただただ恐怖が走った。
(知らない人が車で三井記念病院まで運んでくれたとの事)気が付いた時は病院のベッドだった。
サリンの解毒剤が点滴と一緒に身体に入って6時間位経って意識 が戻ったが、依然と眼が見えなく、自宅の電話番号を聞かれたが、 思い出せなくて、家に連絡が付かなくて、家族が来たのは午後3時 頃になってしまう。
身元が分からなかったのは、持ち物とコ−ト、 背広など全部ビニ−ル袋に密封されてしまったからだ(二次感染の 怖れがあるので)。
家族も含めて、見舞いに来てくれた人達は3日間は病室に入るの に、マスク、手袋、白衣を着て、入室が許可になったが、皆ドアの そばの所にいてベッドまで来てくれなかった。
そのくらいサリンの 怖れを分かっていたので… 意識が戻ってから、痙攣、嘔吐、視覚 障害、不眠が続いた。
3日目には早くも刑事さんが事情聴取に来て 色々と聞かれたが、話した内容は覚えてない。入院3日で食事も取 れるようになって、少し元気になっていた。先生より後2日位で退 院出来ると言われて嬉しかった。(眼は縮瞳したまま)
4日目、朝起きたら調子悪くて食欲もなくて食べられず、急に身体が熱くなってきて、動くのも大儀になってしまった。体温を測って貰ったら39度7分位あって、この熱が2日間も続いた。前日に採血した検査で肝機能、コリンエステラ−ゼの数値が普通の人の半分以下に下がって退院どころでないと言われ、ショックだった。この日より悪夢と不眠が続いて、ほとんど寝られなくなってしまう。
6日目にやっと熱も下がってくる。一安心する。食事も少し食べられるようになってくる。夜寝られないので頭が変になってくる。先生に話したら精神安定剤を出しましょうと言われ飲む…今日になって瞳孔があいてくる。
トイレに行く時間が近かったのが、1時間位間が空いたので少し寝られる。会社の仕事が心配で1日3回も電話して色々と指示をする。又、営業の人に病院まで来て貰って話す。
8日目、刑事さんの2回目の事情聴取を受ける。
9日目に営団の区長さん2人栗原さんと野口さんが見舞いに来て、色々と話して行く。又、小伝馬町駅にて私が介抱したT・Kさんのお母さんから、当時の事を話して下さいと頼まれて当日の事を話してあげる。
入院10日目でやっと点滴が外れる、手が自由に動かせる、点滴 も入院以来何本したか数え切れない。手が自由に動かせる事がこん なに喜べるなんて今まで考えた事もなかった。夕方、英字新聞社の インタビュ−を受ける。サリンの怖さとオウム教団に対する怒りを訴える。又、入院の様子を色々と話す。
11日目(3月30日)に警察庁長官國松孝次氏が自宅前にて狙撃され、重症とのニュ−スが伝えられ、精神状態が元に戻ってない時なのでショックだった。
12日目、先生より今日の採血の検査結果の数値が元に戻れば退院の許可を出しますと言われて、明日が待ち遠しかった。
翌日やっと13日目でOKが出る。嬉しかった。T・Kさんのお母さんより息子に会っていって下さいと言われて病室まで行く。ただこんこんと寝ているだけだった。私も一歩間違えば死に至るところだったので、頭を鈍器で殴られたようで言葉が出なかった。お母さんが息子は何も話してくれないと言った言葉が今でも印象に残っている。
13日目で退院出来て自宅に帰ってこられたが、相変わらず悪夢 と不眠が続き、一晩に2〜3回目が覚めてしまう。思考力の低下と 目をつぶると目の裏側に丸い輪が出る、その状態が6ケ月位続いた。 会社の仕事が心配で、自宅療養は先生より3週間位要すると言わ れてきたが、1週間で会社に出勤する。
サリン事件で人生観が変わったというより、変えられてしまう。 大好きだった盆栽も育てる気を失って、全部処分する気持ちになってしまう。取り敢えず大きい鉢を10鉢程、友人に引き取って貰う… 妻に言われて全部処分するのは思い留まる。この事が、後遺症を克服する事につながる。また、体力が落ちて、身体が疲れやすくなってしまう。体力を回復するために、スイミングクラブに入って泳ぎを始める。
後遺症との闘いが始まったが、私は自分なりの考えで事件(サリ ン)の事を忘れる事に努力した。テレビで連日放送していたワイドショ−などは見なかった。
退院して2回通院したが、1回目の時(4月10日)、小伝馬町 駅まで行って自分が当日逃げ出したコ−スを思い出しながら階段を 上って、脇道を見に行ったが、思っていた所より入ってすぐの所で 倒れたようだった。駅に戻って駅員さんと話したら、今帽子を被っ ていない人は、当日サリン事件に遭遇した人達だと聞かされて、改 めてビックリする。
第3回被害者の会に参加して、後遺症の人達の話を聞き、また改 めて後遺症の怖さを実感した。この闘いは、後遺症の人達が全員一 日も早くこの苦しみから抜け出せる事が先決だ。私も視力低下が続 いてくると、今の仕事が出来なくなるかも分からないので、心配は つきない。この怒りをどこにぶっつけてよいやら、早くこの暗い気 持ちから抜け出したい。 早くオウム教団の幹部達に重い十字架を背負わせて13階段に上 げさせたい。
平成7年3月20日の空白の1頁は永遠に埋める事が出来ない。 生と死を分けたのは何だったのだろうか。亡くなられた11人の 人達のご冥福をお祈り致します(平成8年6月)。 合掌。
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