あの忌わしい事件に遭遇して
50代女性
1985年に私は55才であった主人を亡くしました。
仕事に追 われ休日も返上しての出勤で無理が重なり、胆のう癌に冒され逝っ てしまったのです。虎の門病院でのことでした。毎年春分の日に墓 参りするのですが、何故かこの年は早目のお参りを済ませました。 祈ることはいつも同じ「残った3人を守ってね」です。息子2人( 双生児)と私、寄りそって一生懸命生きているのです。 奇しくもその墓参りが事件の前日であったのです。後から思うと この早目の墓参りが私の命を救ってくれたのだと思われてなりませ ん。
因みに主人は霞ケ関で働く役人でした。 1995年3月20日 いつもの月曜日の朝、1週間の始まりだなと思いつつ出勤の途に 就きました。私の通勤コ−スは、日比谷線で草加駅から霞ケ関までの50分間なのですが、殺人的な混雑を避ける為に北千住で一旦下車して始発に乗り換え、決まった席に着いての毎日なのです。
うとうとしていると、「築地駅にて爆発事故が発生云々」という内容のアナウンスがあり、動いたり停ったりの運転が続いていました。そのうちに停車してしまった。そこが上野駅と思い込み、銀座線に乗り換えようと思い、飛び降りたものの、そこは小伝馬町でした。又その電車に乗り動くのを待つことにしました。
が、何だか気分が悪くなり車内にじっと座っていられなくなり、 ホ−ムのベンチに座ろうと歩き始めました。ところが益々気分は悪 くなり、身の置きどころのない苦しさが迫って来ました。
以前、車内で気持ちが悪くなり降りた駅が小伝馬町で、駅員さんにお世話になったことがあるので、又かしらとその時は思いました。でも、この朝の気分の悪さは何だか異なっていました。あまりにもの息苦し さにいたたまれず、手にしているバッグは重く、無意識のうちに首 にかけ、前にぶら下げている状態でした。
苦しくて、息苦しくて外の空気が吸いたくて、手摺を頼りに必死 で地上に這い出しました。吸った息は胸を刺し、吐くこともできな い。そして廻りは曇っている日の夕方のように暗かった。 呼吸困難に陥り立っていることができず、歩道の植え込みに座り 込んでしまった。
その時の歩道での光景は、多くの人が座り込んで いたり、目を開いたまま仰向けに倒れている男の方を数人で声をか けながらさすっていたり、「だれか乗せて」と悲鳴にも聞こえる声 があったり、何か異状であったのですが、あまりにもの気分の悪さ に何も考える余裕などありませんでした。 救急車なども来ておりませんでした。
次第に寒くなり、体は震え 始め、何だか自分が遠のいてゆくように思えました。
「大丈夫です か?」という女性の声が耳元でするが、だんだん意識は薄れていき ました。その後車に乗せられていたことを微かに覚えているのみ。
どの位の時が過ぎたのか判りませんが、「ここは病院ですからも う大丈夫ですよ」という声を耳にしました。
ベッドの上の体には細 い管が沢山巻きついていました。気分は悪く、頭は痛く、目ははっ きりせず、そして熱く、生きた心地ではなかった。事件に巻き込ま れていることなど判っていない。この時は、私の体はこんなに悪く なっているのかと思い一瞬悲しくなった。朦朧としている体は酸素 ボンベを頼りに息をしているのみ。入れ代わりに診廻る医師や看護 婦さんの慌ただしい足音が耳に入る。不安でならぬ。何かにしがみ ついていたい気持ちで、ナ−スコ−ルのスイッチをしっかりと握りしめていた。 あの時バッグを首にぶら下げていたお陰で、家族への連絡も速や かに出来たとのことでした。
「命には別状はありませんが、収容されています」という内容の電話を病院よりもらったと、2人の息子はそれぞれの職場より駆け付けたが、姿はぼんやり、声のみで、ど ちらの子かを判断したのです。
10時を過ぎたとのこと、本当にほ っとしました。 この2人の息子達も事件のあった地下鉄の千代田線と日比谷線を利用しての通勤者なのですが、月曜日の為、少し早目の出勤をして いたので、危うく難を逃れたのでした。3人で被害者になっていた かも知れぬが、昨日のお参りで主人がはからってくれたのかとも思った。
2人の声を耳にしたのか気分も大分落ち着いてきていました。そ して、自分のみが具合悪くなったのではなく、何か事件に巻き込ま れた故、この聖路加国際病院に収容されたことを知ったのです。
多勢の人が収容され、ロビ−はごった返しているとのことでした。事 件として報道され、徐々に事情が判ってきたようです。 重傷者の中に私の名があったと知人、親戚等から病室に連絡が入 ってきました。午後には同僚も見舞に来てくれましたが、誰である かを声によって判断していました。私の状態を目にした方はあまり にもの異状さに驚いたのか、早々に帰られたと後に聞かされました。
夕食が出されましたが、全く口にする気分にはなれませんでした。
病院からのお知らせで、残留している毒物の状態が現在のところ 不明の為、身に着けていた物(衣類、靴、カバン等)をビニ−ルに 入れて保管するようにと、更に心配であれば廃棄するようにとの指 示が出され、本当に恐ろしいことが起きたのだなと改めて思った。
手当をして頂けば帰宅できると安易に考えていましたが、入院となってしまった。絶対安静の形になっている。トイレに行けないの がとてもつらい。看病に来ている妹や息子たちの入るトイレの音に、自由で普通の状態の有り難さをいやという程知らされた。トイレのことを一番気にしていると、「オレがおまるの世話をするよ」と云ってくれた息子の言葉に涙したその夜でした。
朝の苦しさはまだ残って居り、体はほてり寝苦しい。病室の窓を開けてもらえば寒くなり、閉めてもらえば熱くなり、頭は割れるほど痛く、口の中には氷を、頭には氷枕と冷たいタオル、アイスノンでは間に合わず、妹が氷を用意し、タオルで冷やしてくれた。その氷の中でタオルを絞る音が今も耳に残っている。手が冷たいだろうなあと。我が家のふとんに寝たい、一刻も早く帰りたい、それのみを思っていた一夜でした。
ニュ−スもどんどん入り、被害者の症状が長野サリン事件の時と 同様とのこと。「サリンを吸い込んだのだ」とひとり言を。収容者 が多く、病院のロビ−や廊下に、そしてチャペルにも収容されてい る等聞かされ、私はこのような個室に収容されたことを改めて感謝 しました。一晩中寝られず、朝の恐ろしい光景がテレビに写し出さ れ、記者会見等の中継がされている病院での一夜でした。 担当の医師の他神経科・眼科等の医師による朝の回診がある。特 に目を診て居られました。その結果、医師たちの言葉は「今日も様 子をみましょう」とのこと。帰れぬのかとがっかりする。帰りたい 一心に起き上がってみたが、重い頭は上げられなかった。気分も悪 い、つらい、でも帰りたい。 出勤する為に家を出たのに、何故こんな状態になっているのか。 本来なら安心して居られる筈の病院なのに、何となくこの部屋に居 ることが恐怖でならなかった。
今日はお彼岸のお中日、三回忌であ る。母の墓参りに行くことになっていたのに何故? 怒りがこみあ げてくる。 何とかしっかりしようと思い食事に付いているジュ−スを少々口 にしたが受けつけなかった。それでも帰りたくて、内心は不安であ ったが、医師の許可を頂き、いろいろな管を看護婦さんに抜いても らった。巻きついていた管から解放されほっとしました。
病院の衣 から妹の用意してくれた服に着替えた時は、何日も過ぎたかのよう に思えました。
数種類のクスリを手に足元はふらつきながら車の中の毛布にくる まった。妹と息子の会話を耳に横たわっていた。はっきりせぬ目で 動く空を眺めていると、又頭は痛み、気分も悪くなりつらかった。
休日で道路はすいていたのだが、渋滞の中を走っているかのよう に長く遅く感じた。家の近くに来た時、やっと安心した。昨日の朝、この道を自転車で駅に向かったのに、なんだか数カ月も過ぎたか のように思えた。 やっと我家に帰れました。早速仏前にいろいろ報告したのです。
車の中で思い出したことがあります。入院中の主人に一時帰宅の許 可が出され、やはり息子の運転で、この毛布にくるまって後ろの座席で横になり、上空を眺めていました。その日が亡くなる2カ月前の春分の日であったのです。偶然なのか、とても不思議な日なのでした。
家に帰ったものの、身体が自分ではなく、横になるのみでした。 テレビの報道を見るのもつらかった。2、3日すれば出勤できるか と思って居りましたが、回復は遅く気分も晴れず、どんどん落ち込 んでゆく日々でした。
心配した息子は欠勤をして病院へ連れて行ってくれたのです。収 容された時に診察して下さった医師に会い、瞳孔の回復には1週間 以上はかかるとのこと、安静にして待つようにとクスリを頂いて帰 る。 毎晩夢を見るようになり、今迄は夢を朝まで覚えていることはあ まりなかったのだが、現在は、いやな夢ほど覚えている。何故か必 ずこの事件が絡む夢なのです。夢で泣いて、目が膨れている朝もあ り、そんな日は頭も痛く本当に憂鬱になるのです。
夜は恐ろしい夢 を見て昼は一人で寝ているのみで、私は何か精神的な異常者になっ てゆくのではないかと不安が走るのでした。
この様な状態が続き、気分を和らげようと考えたのか、息子たち は妹の紹介で、仔犬を連れて来てくれた。サリンとかオウムとか報 道され、死者も出るような事件に巻き込まれたが、生還したものの、何かおかしい私の気持ちを紛らわそうとの配慮であった。生後2 カ月の茶色の柴犬、可愛い男の子、「ジャジャ丸」と命名、我が家 の一員となる。 生死の境をさ迷って1週間が経った。何とか自分を取り戻しつつ あったというか、自分に戻ろうとそれなりの努力をしていた頃頭に 浮かんだことは、あの朝植え込みに座っていたか、倒れていたか判 らぬが、意識の無かった私を病院に運んで下さった方のことです。
病院で伺ってもあの当時の状態では、どなたか聞くなど不可能であ った。又誰もが協力せざるを得なかったと。その方もきっと出勤途 中であったと思います。とにかくお礼を申し上げ度く、朝日新聞の 「声」の欄に投稿致しましたところ、掲載されました。拙い文章で はありましたが、新聞を通してご挨拶ができました。その方にお読 みいただいて居りますれば幸いに存じます。 ジャジャ丸君の教育にも追われ、大分体もしっかりしてきました ので、近くのかかりつけの病院にて診察を受けるようになりました。
医師も看護婦さんも大変驚き、心配して下さいました。 やはり深い眠りには入れず10日が過ぎ、3月30日の朝、重い 頭は雨の音に起こされました。そしてテレビに写し出されたのは、 「南千住で乱射事件発生」「国松長官撃たれる」でした。又オウム の仕業か? 雨に濡れたレンガの歩道が写り、冷たく、寒く見えた。長官は命に別状は無いとの報道にほっとしました。他人ごとでは ありませんもの。オウムであるとすれば何という無軌道な集団なの かと腹立たしくなる。
3月31日には聖路加国際病院へ行く恐怖感、精神不安定はショ ックからの症状であって、だんだんに治るので心配はないと医師の ことば。頭痛はクスリで治すしかないとのことでした。自分で気持 ちを変えてゆくしかないのだと自分にいいきかせて帰って来る。
「地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件 特別捜査本部」の捜査官 が事情聴取にみえた。あの悪夢の光景をこと細かに尋ねられ、記憶 を辿りながらお話ししました。偶然といおうか、奇遇といおうか、 この捜査官に出会って2つのことが判りました。1つは事情聴取に 同席した息子の会社の営業の車が、一連のオウム事件に借り出され 使用されたこと。もう一つは、息子の差し出した名刺を手にした捜 査官は、ある人物の氏名を名乗った。その人物は息子の上司であっ た。そしてその方は、この捜査官の仲人さんであることが判りまし た。世の中広いようで狭く、又悪い事は出来ないと云う言葉を改め て知りました。
事情聴取の終わりに捜査官より問われました、「麻原彰晃に対し どのような処分を望みますか?」と。「死刑を」と即座に答える。 「八つ裂きにしても被害者にとっては物足りないものね」と捜査官 のひとこと。冷酷無残な事件を起こした者たちを絶対に許すことは できないのです。
4月に入り何とか復帰することができ、「大変だったね」と男性が、「あの時無事で良かったね」と女性が。戻ることが出来てほんとうに良かったと思いました。
クスリ持参の出勤ですが、働くことのできる有り難さも良く判りました。 いざ仕事に入ると、精神的な障害の多いことに気がつきました。 例えば勤務時間を短縮されたこと、それに依って経済的な不安が生 じる。又職場が虎ノ門の為、オウムの裁判の行われる日は朝から数 機のヘリコプタ−が上空を舞う。それを見ながら同僚たちはサリン の話をする。テレビに写ったところだけを中心にそれぞれの考えを 話し合っている。
自分の家族が事件から免れたこと等被害に遭わな かったことを喜んでいるかのように。当然なことであるが、被害者 である私としては、一方的な会話に入ることもできぬ。そんなこと の重なりが、精神的な後遺症となって現れるものと思うのです。
聖路加国際病院では、精神的後遺症の調査のため、3回のアンケ −トを募った。結果、精神的なショックによる苦痛が身体面に現れ ているとのこと。心的(P)外傷後(T)ストレス(S)障害(D)である。
11月には東京大学医学部の依頼により、毒物を吸った後の検査 に協力する。サリンは医師にも経験のない毒物性物質で、被災直後 の身体への影響と回復後の神経の影響を追跡して、今後の治療への 対策を考えるとのことでした。うす暗い室で機材の沢山有る椅子に 座り、約2時間いろいろな検査を受けました。その結果、自律神経 機能の検査の部に異状が有り、聖路加国際病院の精神科医である中 野先生のお世話になることになり現在に至る。 年も代わり平成8年の2月にサントリ−ホ−ルに於てピアノリサ イタルが催された。松本・地下鉄サリン事件の被害者を支援するチ ャリティコンサ−トであった。ピアニストの遠藤郁子さんが、あの 松本のサリン事件に遭った河野さん御夫妻との出会いをきっかけに、被害者の心がなごむ安らかなひとときをとの趣旨で開かれた。 その日2月18日(日)は雪の東京でした。苦しみを共に味わってくれている息子たちに連れられ会場へ向かいました。席に着くと河野さんの奥様の姿が直ぐ目に入りました。その瞬間、あの忌まわしい出来事をありありと思い出し、腹立たしくなりました。コンサ−トはやはり気分を転換してくれました。
1年が過ぎ、いろいろな思いが残り、被害者の会に入り度く思っ ていた時期でした。NHKの浦和支局の記者より電話が入り、オウム側の報道はされているが、被害者側のその後の事情を知りたいのでとのことで協力致しました。精神的ケアに通院している中野クリニックの院長との対話、また自宅での様子等を取材され、放映されました。その記者に被害者の会を教えて頂き、川合弁護士のお世話になることになりました。 オウム関係のニュ−スを見たり聞いたりすると気分は悪くなり、 頭痛は起こるのですが、特にあの麻原の煮え切らない態度を目にす ると、激しい嫌悪感が走ります。その様な時に病院に行くと血圧も 高くなっている。医師はそんな私の様子を見ながら話した、「日比 谷線には他の線よりひとつ多くサリンを撒いたんだね」と同情的に。 事件に遭わない人々は、思い出さない方がいいわよ、なんて慰め ているつもりのようであるが、絶対に一生忘られぬことなのです。 あの集団は許せないのです。
霞ケ関駅では、高橋・菱沼両助役の一周忌に慰霊のレリーフが設けられました。御家族を奪われた方々の無念は計り知れません。通勤の往き帰りには合掌する毎日です。 高学歴である若者たちが何故あのような冷酷無残な人間に引き寄 せられていったのか残念でなりません。
亡くなられた方々の御冥福をお祈り致します。 被害に遭われた方々のご健康をお祈りし、弁護団の先生方の御活 躍をお祈り申し上げます(平成9年2月25日)。
以上
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