二.都子の生い立ちについて(住所等一部省略)

(一)身上並びに経歴
   昭和三十五年二月二四日 出生
   昭和三十五年四月五日  茨城県那珂郡大宮町に転居。
   昭和三十九年七月四日  茨城県勝田市に転居。
               (現.茨城県ひたちなか市)
   昭和四十年三月二十七日 弟 裕 誕生(都子五才)
   昭和四十一年四月    茨城県勝田市立東石川小学校入学。
   昭和四十七年四月    茨城県勝田市立勝田第一中学校入学。
   自昭和四九年十月二十日 第二十九回国民体育大会(茨城国体)に吹奏楽団の一員と
   至 同 年同月二十五日  して参加する。
   自 同 年十一月 二日 第十回全国身体障害者スポーツ大会(パラリンピック)に
   至 同 年 同月 三日  吹奏楽団の一員としてして参加する 
   昭和五十年四月     茨城県立水戸第二高等学校入学。青少年赤十字(JRC)
                活動に参加する。また、勝田ファミリー(勝田ゆかりの
                高校生有志のボランティアサークル)の設立に参画する。
                これ等がボランティア活動の出発点となる。
   昭和五三年四月     立教大学社会学部社会学科入学、ミッチェル館(同大学女
                子学生寮)に入館。
   昭和五四年三月一日   東京都保谷市に転居。
   昭和五五年三月     インド旅行
   昭和五六年三月七日   東京都足立区千住柳町に転居
   昭和五七年三月     立教大学社会学部社会学科卒業。明舟法律事務所に入所。
   昭和五八年六月四日   千葉県松戸市に転居。
   昭和五九年三月四日   結婚。
   昭和五九年四月     宇都宮法律事務所(現.東京市民法律事務所)入所。
   昭和六十年       堤 司法研修所入所。
   昭和六二年       堤 弁護士登録。
   昭和六三年八月二五日  龍彦出生。
   平成元年十一月三〜四日 事件発生。

 (二)誕生・命名
    都子は、昭和三五年二月二四日の早朝、那珂郡大宮町の病院で産声をあげました。
    当時私が二九才、妻が二五才で、長子としては決して早いほうでは無く、親族や周囲
   の人達は妻の懐妊を知ると「男の子が欲しいだろうね」また「最初は女の子がいいよ」
   等と祝福と励ましの言葉をかけてくれました。
    私たち夫婦は初めて授かる子でもあり、「元気な児であって欲しい。丈夫に育ってく
   れさすれば最高」「ちょっぴり欲を言えば可愛い児であれば良い」等と喜びを語り合い
   ながら誕生の日を待ちわびて居りました。我が子との初対面は産湯が終わった直後でし
   たが、眠っているのかあまり手足は動かさないが息づかいはしっかりしており、体重も
   二千八百とのこと、先ずは無事生まれ安堵の胸をなで下ろしたものの、皺の多いのには
   一寸驚きもしました。時が経つに従って顔もふっくらとし、薄いピンクの透き通る様な
   肌艶となって文字通り「可愛い赤ちゃん」に変身していく生命力に接したとき、我が子
   を授かった喜びに身も震える思いでした。
       「誕生即入籍を」と考え男女それぞれの名前を決めて、その日の来るのを待っていた
      のですが、無心に眠る嬰児の姿は周囲の総てを引き寄せ、総てを受け入れているかの様
      に見え、その大様さ.大らかさに圧倒されました。「山の懐に抱かれた山里の温もりの
      ある大らかさ、また、悲喜こもごも総てを消化し雅びに栄える都の大様さを連想し、こ
      の姿を名前にしたい」と強く感じました。山里に住めば山里の心を都へ伝え、都に住め
      ば都の思いを山里へ運ぶ、そのような働きをする子であることを願って「都子」と名付
      けることにしました。

(三)幼児期
      都子が四才の夏、大宮町より私たちの現住所に転居してまいりました。大宮では近所
     の五人の仲良しと一緒に毎日楽しく遊んで居りました。大宮を立つとき悲し涙を目に一
    杯ためお友達をじっと見つめるのが精一杯、さよおならを言うとどっと泣き出して仕舞
     うのをじっと堪えていたようです。    
       私たちも勝田に行けば近所に住宅が少なく、遊べるような子供たちも居ないことを知
      っているだけに一層不憫に思えて目頭を熱くしたものです。
       五才の時幼稚園に入り、お友達ができるまで絵本と人形が大の仲良しでした。月に一
      回位ですが、日曜日に本を買いにいくのを楽しみにしていました。本屋さんは二キロ程
      離れており、私の実家までバイクに乗せて行き、おばあちゃんに会ったり従兄弟たちと
      遊んだりしてから、待望の本屋さんへ歩いて行くのが通常でした。この前買った絵本の
      話や今日買いたい絵本のことを話したり、また、途中にある東石川小学校の前で「ここ
      が都子の通う小学校よね、教室は何処になるのかな」などと言いながら嬉しそうに眺め
      ていることも有りました。     
       「本屋さんで買う本は一冊だけ、都子が自分で選ぶこと」と約束をしており、その一
      冊を選ぶ姿は真剣そのものであり、また、楽しみでもあったようです。買う本の決まっ
      たとき満面に笑みを浮かべた面影は今も忘れることは出来ません。都子が長い時間を掛
      けて本を選んでいるお蔭で、私自身もじっくりと本を探すことが出来ることは有り難い
      ことでした。
        小学校入学間近になったある日、例により小学校の前を通りかかったとき、不安そう
      に校舎を眺めていたので「この学校に都子の名前を覚えておいて貰おうね」と都子と一
      緒に足を引きずりながら校庭一杯に「さと子」と書いて「もう大丈夫このお庭も校舎も
      都子のことを覚えていて呉れるから心配しないでいいよ」と励ましたことがあります。
      都子が四.五年生の頃「校庭一杯に都子の名前を書いたこと覚えているの、あの時は本
      当に嬉しかった。人って一寸したことで励まされるのよね」と何か意味ありげなことを
      言っていたこともありました。

(四)小学校時代
        都子は五つ年下の弟があり、良く面倒を見ていました。小学校でも苛められっ子を良
      く庇い、あれこれと気遣いをして居たようです。二年生の夏休み前に「おとなしい良い
     子だけど何時も苛められている子が居るの、どうしたらいい?」と相談してきたことが
     あります。都子は苛められないと言うので「都子がその子と遊んであげたら」とアドバ
     イスしたことがあります。     
        それから二.三か月経ってから「今日は学校で男の子と喧嘩をしちゃった」と誇らし
      げに話すので事情を聞いてみると、例の苛められっ子と砂場で遊んで居る所へ、苛めっ
      子が来て悪戯をしたので止めたのが喧嘩の原因だったようです。担任の先生が飛んでき
      て「これは面白い。先生が見て居るから思いっ切りやってごらん」と言われたら苛めっ
      子は逃げていったとのことでした。 
        平成六年十月六日の全国キャラバン水戸集会(日本弁護士連合会・各県の弁護士会の
      全面的協力を得て、坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会が実施した「坂本弁護士一
      家救出のための全国キャラバン」自平成六年九月二七日至同年十月七日実施.十月六日
      水戸到着)で二年生のときの担任の先生が都子の人柄紹介の中で、ひ弱な子の面倒を見
      ている様子を含め数々のエピソードをお話しし、誰にも公平に接していた子、優しさと
      芯の強さを持った子だったと紹介して下さいました。            

(五)中学校時代
       部活動は吹奏楽部に入部し、パートはフルートでした。その打ち込み様は、凄まじい
      と言っても過言では無いと思います。三年のとき行われた茨城国体とパラリンピックに
      吹奏楽団の一員として参加しました。
        パラリンピックに参加したとき肢体不自由者と視力障害者が互いに協力し合う姿に、
      強く心を打たれたようです。夕刻私の帰りを玄関に待ち受けて「お父さん今日はね、パ
   ラリンピックで凄いことがあったのよ、私泣いちゃった」と肢体不自由者の乗る車椅子
   を視力障害者が押してタイムを競う競技の中に、信頼と協力の美を見つけた様相を熱っ
   ぽく話しておりました。
    「国体で持てる力総てを出して競うその迫力は実に凄いし、素晴らしいと思う。でも、
   パラリンピックで人を信頼すること、協力し合うことの大切さを強く心に焼き付けられた。
   私たち健康な者はもっともっと障害者との係わりを持つべきだ」と涙を流しながら語っ
   ていたことを今も忘れることは出来ません。 
       この感動が都子のライフワークとしてのボランティア活動の起点となることは容易に
      推測することが出来、娘の素直な成長を心から喜び「都子」と命名する時の願いが半ば
      叶られたことに暫し酔い、言い知れぬ満足感に浸った次第です。