三.ボランティア活動について

(一)高校時代
       通常中学生の部活動は夏休み前で終わり受験勉強に入るのですが、国体に備えて練習
      本番.さらにパラリンピックと十一月当初まで部活に専念しました。その遅れを取り戻
      すには並の努力では埋められるものでは無く心配しておりましたが、更なる努力を重ね
      志望の高校に進学することが出来ました。 
    高校入学と同時に休むまもなくJRC活動に参加し、更に勝田ゆかりの高校生に呼び
   かけ勝田ファミリーの結成に参画する等、ボランティア活動に情熱を傾注する高校生活
   三年間のスタートを切ったのです。
       勝田ファミリーの活動の一つに「福祉マップ」の作成があります。市内の視力障害者
      ・肢体障害者の生活範囲内及び、繁華街.市の中心部の道路交通事情、並びに、公共施
      設の構造等を細部に渡り調査し、障害者対策を必要とする箇所、及び、改善を要する箇
      所を記入した所謂「福祉マップ」の作成に当たった経緯があります。この計画は完成直
      前になって「障害者のプライバシー侵害の恐れが有る」として、市の中心部や公共施設
      等を含めマップ作成を中止する様指導され、無念の涙を呑んだこともありました。今で
      も「伝説の福祉マップ」と語り伝えられています。
       都子は、JRC.勝田ファミリーの他、県社協(県の社会福祉協議会)勝田社協等の
      事業に比重の差は在るにしても、積極的に参加して居りました。
       尚、大学進学後も勝田ファミリーのO.B会の中心メンバーの一員として、O.B会
      の機関紙「伝言板」の発行及び、現役の勝田ファミリーのメンバーとO.Bとの交歓会
      等に指導的役割を果たしておりました。
       高校二年生のときに大学進学を決めていたが、専攻学科を決めかねていたようです。
      これまでのボランティア活動の中から「障害者の自立できる社会造り」の必要性を強く
      感じたようです。福祉現場ではまだまだ知識.技術の面に弱い点があり、これらの修得
      を主に学ぶべきか、また、社会の仕組みを学ぶべきか大変迷ったようです。結果として
      「障害者の自立できる社会造りに携わりたい」として社会学専攻の道を選び、立教大学
      を志望校とし受験勉強も真剣に取り組んでいました。   

(二)大学時代
       娘は中学生の時、心に秘めた「障害者との係わりを」また、高校のボランティア活動
      で学び得た「障害者が自立できる社会造り」と大きな目標実現に向かっての基礎を、立
      教大学社会学部で学び育てることの喜びは私たちの想像を遙に凌ぐものでした。ただ、
      門限の厳しいミッチェル館(立教大学の女子学生寮)に入居することが不満だったよう
      です。ボランティア活動が時間的に制約される心配があると思われるからでした。それ
      でも、豊島のボランティア団体に登録し、ミッチェル館の規定の範囲内で車椅子の介助
      を主とした奉仕活動に携わっていたようです。
       また、勉学にも精力的に取り組み、一.二年で修得出来る単位は殆ど取得して、二年
      次に持ち越しは一単位のみでした。翌年行われる車椅子全国市民集会に備え、二年次の
      授業時間を少なくしボランティア活動の時間を取る考えもあったと思います。これとあ
      いまって、ミッチェル館を出る計画も着々と進めていました。
       二年次には、車椅子全国市民集会事務局の一員にボランティアとして参加し、企画の
      段階から最後の締めまで活動しておりました。
       大学の四年間は学業に、ボランティア活動に、また、学内のサークル活動にと燃えに
      燃えた四年間だったと思います。学業に於いては、その年次内に修得できる単位は殆ど
      取得し、四年次になるときには、四年次でなくては修得できない「卒論演習」一科目を
      残すのみで、卒論も徹底したフィールドワークの積み上げを分析し、更に積み上げた論
      文であったと思います。このように、四年間を通し学業にも鋭意努力を重ねておりまし
      た。上の年次の科目を先取りするだけでなく、その成績もかなりのものだったと思いま
      す。二年次のとき前年の成績によって奨学生に推薦され奨学金が支給されましたが、本
      人は「嬉しいことは確かだが、一度受けると後は資格が無くなるのよネー」と寂しそう
      な表情をしてるのを見て、その不敵さに驚きました。 
       サークル活動においても、マンドリンクラブ、北海道大夕張ワークキャンプに参加す
      るなど、こうした分野でも活躍して居りました。特に、四年次には大夕張ワークキャン
      プに参加したメンーバーに呼び掛けて結成した読書会の呼び掛け人になり、読書会の発
      足に力をそそぎ、卒業後も読書会の機関紙「結」の編集に携わっておりました。
       また、「ミッチェル館を出ることによって増えた自由な時間をアルバイトに廻し、小
      遣いは自分で稼ぐから次回の仕送りから小遣い分を減額して欲しい」言ってきたので確
      かめたところ「アルバイトはあくまでも小遣いプラスαを考えている、プラスαはイン
      ド旅行を許可してくれるならそれに当てたい」との意向であり、結果として、インド旅
      行は今後の課題・仕送りはそのままとし、アルバイトを認め、家庭教師、和菓子屋の店
      員、コンビニの店員、法律事務所の事務局員等々のアルバイトにもいそしみました。ア
      ルバイトでは、教室での授業やボランティア活動では見えてこない社会を見、触れるこ
      との出来ない人それぞれのものの見方考え方等に接したことは、都子にとっては大きな
      収穫であり、最大級の喜びであったようです。  
       大学進学と同時に「東南アジアの一人旅」をいつかは実現したいと心に秘めていたよ
      うす。理由は「福祉の原点を究めたい」が総ての様でした。福祉の原点は福祉の先進国
      では見えない、貧しい国・福祉に手をさしのべる余裕のない国の市民生活のなかにその
      原点があるとして、インドを含め幾つかの国名を挙げ、最低で一カ月出来得れば数カ月
      間市民の中で生活したい。と言うのがその理由であり内容でした。
       私としては、考えは是としても治安の点で若い女性の一人旅は無理であり、無責任で
      あるとして、旅行形態・期間等再検討するよう伝えておきました。 
       二年次の半ばにインド旅行の計画を示し、期間は一か月.往復はインドでの生活経験
      の豊かなカメラマンが付くとのことであったが、現地では自由行動の要素が強く同意し
      ませんでした。その後また新たな計画を持ってきました。インド観光庁と日本のK旅行
      会社がタイアップしたモニター旅行(所謂パック旅行)計画でした。「初期の目標との
      隔たりは大きいが、今体験することに意義があると思う」とのことであり、ここまで譲
      歩してさぞかし不満も大きいだろうにと、心のうちで詫びながら同意しました。
       インドから帰ったのち、勝田ファミリーO.Bの機関紙「伝言板」に紀行文を寄せ、
      余りにも悲惨な市民生活の現状に直面し受けた衝撃など記し、最後に当初の目標のほん
      の僅かしか実現できなったが、全く実現できなかったより遙に大きい意義がある、僅か
      でも実現出来たことに感謝している。と言ったような文章があり、この文面を思い出す
      度に希望を叶えてやらなかったことが悔やまれて成りません。
       ちなみに、この旅行の経費は大学から支給された奨学金とアルバイトでの蓄えた資金
      が主で、私どもの負担は予備金程度のものでした。

(三)社会人となって
       都子のライフワークとしてのボランティア活動は、社会に出てからも止まること無く
      精力的に継続していました。法律事務所に勤務する傍ら、中国引揚者に日本語を教え、
      生活指導に力を絞り、さらに、母子施設の児童の遊び相手をするなど、毎週定期的にこ
      れらの施設を訪れておりました。都子が社会に出て最初の正月に帰宅した際、馬鈴薯の
      栽培について詳しく聞くのでその理由を質したところ「夏休みの行事に、母子寮の子達
      と一緒にカレーライスを作ることを企画しようと思う、総て買った材料で賄うのはは簡
      単だけど自分たちの手を汚し種をまき育てたものを収穫しそれを調理して作るカレーの
      味は格別だと思う、是非その感動を経験させたい」とのことであり、私は種薯を提供し
      栽培についてアドバイスをしたに止まりましたが、結果は大成功と聞いております。
       また、この時期居住していた松戸市の市民オーケストラの団員としてフルートの練習
   に励むなど、職場に・家庭に・奉仕活動・文化活動にと熱心に取り組んでいた姿を、当
   時の同僚から伺い、只々驚くのみです。