四.結婚について

(一)堤との出会
       都子が大学二年のとき開催された、全国車椅子市民集会のボランティアが二人の出会
      いの場となりました。堤は友人と二人で会場奉仕に参加し、事務局にいた都子とは打合
      せ等で度々顔を会わせる機会があり、また、休憩時間にボランティアのありかたについ
      て話し合う事もあり、互いに好感の持てる相手と感じていたようです。
       集会の後片付けの際、床に残ったガムテープの糊を丁寧に拭き取っている都子の姿に
      強く感動した堤は、友人を介して、「ボランティアについてもっと深く話し合いたい」
      と伝え、都子は今までもこのような誘いを受けたことは何度かあり、会ってもつまらぬ
      話で終止し虚しさを感じた経験もあるが、あの人達なら得るところがあると期待し、三
      人で会うことを約束したそうです。     

(二)二人の交際
       車椅子集会終了後、堤は司法試験の合間に帰国者の会(中国残留孤児の帰国者を支援
      する団体)や母子施設等への奉仕等ボランティア活動に従事し、都子も、世ボ連(世田
      谷区ボランティア連絡協議会)関連でこれらの団体、並びに、施設との係わりも深く、
      二人の出会う機会は以前より多くなっていったと思います。こうしたなかで、互いに連
      絡を取り合い、他のボランティアグループとの交流など一緒に出席する等行動をともに
      していたようです。       
       二人の価値観やライフワークに共通点は多いが、これまでの活動エリアは違っており
      互いの経験を話し論議し合うのには恰好の相手だったと思います。
       また、二人は映画や音楽に深い趣味があり、とくに、音楽は小さいころから親しんで
      おり、東京に出てから日本フ イルの方々との親交も厚く、日本フ イルのサマーキャンプ
      には毎年二人共々参加しておりました。 
       大学四年の春の頃と思うが、「結婚を前提にお付き合いしたい相手がいる、是非会っ
      てほしい」との話があり、相手の人柄をきくと「ものごとをしっかりと見つめる人、何
      をするにも真剣に立ち向かう人、ものに動じない人、」と言ったような説明が有ったと
      記憶しています。この説明の中で「ものに動じない人」について聞いてみると、無頓着
      とも取れる点があり更に聞くと、彼の住んでいるアパートを例にあげ「建屋の傷みが酷
      く、とても人が住んでいるとは思えない程のボロアパートで、立地条件も悪く、よその
      家の屋根から入る感じ、そんな所に平気で長年住んでいるのに驚いた」「身の回りは驚
      く程整理されている。坂本文房具店と言われる理由が判った」と言った話を聞き、「傾
      いた柱、傷んだ壁と畳の部屋、そこに置かれた机の上に整然と積まれた何冊かの本、幾
      種類もの文具が整然と入れてある引出し」と言った光景を思い浮かべ、そこに住む青年
      の人柄がしのばれ、頼もしさを感じました。       

(三)結婚の意思表明
       「私の収入は安いけど一応安定している。堤もさんも司法浪人中であるがアルバイト
      で学習塾の講師をしており収入もある、二人の収入を合わせれば生活は心配ない。結婚
      することによって堤さんは雑用から開放されるし、堤さんの受験に協力したい」と司法
      試験合格前に結婚する考えを話され、経済的には厳しいと思うが、経験しておくのも無
      駄には成らないと思い承諾した次第です。 
       結婚後経済的に厳しい時期もあり、援助する旨伝えても「結婚は精神的・経済的に自
      立することと思う、心配は有り難いが楽しみながら自分たちでの力でやり遂げたい」と
   援助を断られた経緯もあります。一時期「国民健康保健の払込中止の処置も経験した」
      と笑って居たこともあります。こうした状況の中でも、ボランティア活動の手抜きをし
      なかったことは、立派としか言いようが有りません。  
      
(四)龍彦の誕生
       結婚五年目にしてやっと子宝を授かり、娘たちのその喜び様は一通りのものではあり
      ませんでした。私たちは結婚二年目の頃迄は「そう簡単にお爺さんにされてたまるか」
      などど片意地を張っていましたが、三年目に入るころから娘たちの気持ちを思うと、子
      供のことを話題にすることも出来ませんでした。この時期は娘達にとっても、また、私
      達としても只々忍耐の時期であり、都子はその上に、ひたすら努力の時期でもあったの
      です。
       このように、それぞれの願い、忍耐、苦しみ、努力の総てに報いてくれたのが龍彦の
      誕生です。娘夫婦にしても、また、私達も喜びと感謝で一杯でした。
       日に日に伝えられる龍彦の成長ぶりも、私たちにとって大きな喜びであり、また、励
      みでもありました。「うつ伏せにしたら頭を持ち上げた」「今日は昨日より頭を高く挙
      げたのよ」「玩具を取ろうと何度も何度も手を伸ばしたが、取れなくて大泣き」等と他
      愛もないことをこまごまと伝える都子の胸中は、幸せ一杯ぱいだったのでしょう。
       龍彦は私たちの初孫であり、まして、五年もの間待ちに待ってやっと授かった子宝で
      す。一日も早く逢いたい思いがあっても、私にはその機会は巡っては来ませんでした。

(五)龍彦との初対面
      「お宮参りの掛け衣装を贈る時には是非妻と二人で」と心に決め、暦をめくり吉日を見
      ましたが土曜・日曜に吉日はなく妻に任せざるを得ませんでした。この期間(八月下旬
      から十二月上旬)は仕事の繁忙期に当たり、平日の休暇を取れる状態でなく、日曜も持
      ち帰った仕事に追われる始末でした。    
       十二月の半ばに龍彦への御歳暮(破魔弓)を持って、洋光台を訪れたのが龍彦との初
      対面でした。明るい部屋の窓際に置かれたベビーサークルの上に寝かされた龍彦は、ク
      リット見開いた大きな目、長く尾を引いた眉をしており、手足をぱたぱたと動かしてお
      り、声を掛けると一層手足を動かし応えてくれる愛らしさ、抱き上げるのも勿体ないよ
      うに思えてしばらく見とれていました。生まれてから三か月半の間この愛くるしい姿に
      逢えなかったことは、取り返しのつかない損をしたような、なにか、ぽっかりと大きな
      穴が空いたような感じで暫し見つめていたことを今も鮮明に覚えています。
       年内に初客として妻や私の実家に龍彦をつれて行く計画があり、帰りの車に都子と龍
      彦が同乗して帰りましたが、アパートを出る時今にも泣き出しそうな顔をして見送った
      堤の姿が強く印象に残っています。一時でも手放すのが辛くて堪らないようでした。