五.事件発生について

(一)異常の感知
       平成元年十一月二日午後八時過ぎ帰宅すると、妻が「夕方六時頃都子より電話があっ
      た、堤さんが風邪気味だし龍彦も微熱があるので四国旅行はキャンセルした。キャンセ
      ル料を沢山取られたとぼやいていた。堤さんや龍彦の様子を聞いているときに電話が突
      然切れた。何度か電話をしても話し中で通じない」といった話を聞きながら、「電話が
      突然切れた」と言うことに、「また龍彦の悪戯だな」と思い込んでしまい、さほど不審
      に感じなかったことが残念です。本来なら、「会話中に電話が突然切れた」ことを重視
      すべきであったし、また、都子が「キャンセル料云々」等と言う娘で無いことに気付く
      べきであったと後悔しています。翌三日は天気もよく、何十年ぶりかの待望の山歩きを
      楽しみ、日没後帰宅し疲れもあって早めに床に付いてしまいました。 
       四日は勤務で、私の帰宅はやはり八時を過ぎたと思います。妻は私の帰宅早々「都子
      の所に何度電話をしても呼び出しのコールはするが繋がらない」と心配そうに言うのを
      聞いて「楽しみにしていた四国旅行に行けなかったので外食にでも行っているのだろう
      心配ないよ」と軽く受け流してしまいました。五日の日曜日も山歩きで一日を過ごしま
      した。一昨日の疲れが抜けないうちに引き続きの山登りはかなり堪え、帰宅後都子に電
      話もせずに寝てしまいました。     
       六日の夕刻八時すぎに私が帰宅すると、妻が「都子と連絡が取れない、横須賀(堤の
      実家)へ電話をしたら、さちよさんが出て『二日に都子より旅行をキャンセルしたと電
      話をしてきた。その後、なんの連絡もない。夫にアパートの様子を見に行ってもらう』
      と言っており、横須賀へも連絡していないみたい」と怯えながらの妻の話を聞き、故知
      れない不安を感じながらも、「あの都子や堤が非常識な行動を取る筈はない。何かの行
      き違いとしか思えない。必ず都子から連絡あること信じて待とう」と妻に、自分に、何
      度も言い聞かせることが精一杯でした。
       都子の小さいころからの、ものの見方考え方、高校、大学と成長過程での生活態度、
      結婚後の行動等からして、私たちに何の連絡もなく四日間も家を空けることなどあり得
      ないことです。都子は長時間家を空けるときは、行き先と帰りのおおよその時間等は必
   ず連絡をしてきており、全く連絡がないし、こちらからも取れないことに強い不安を感
      じながら諸々の状況を想定してみたが、連絡の出来ない事情、してこない理由など全く
      思い当たる節もなく、只呆然とするのみでした。
       十時を過ぎても横須賀からの電話はなく待ちきれず、さちよさんに電話をし洋光台の
      様子を聞くと「アパートに三人はいない、行方は判らない、いま心当たりを尋ねたが何
      処にも居ない、明日更に尋ねてみる、堤からの連絡を待ちながらもう一日待ってみる」
      とのことであり、私たちとしても成す術もなく只不安に怯えるのみでした。 
       時間が経過するに従い積もる不安に打ちのめされ、妻と言葉をな交わすこともなく、
      次々と浮かんでくる不吉な思いを打ち消すのが精一杯でした。夕食をとる元気もなく床
      に就いたのは十二時を過ぎたころと思います。
       翌日(七日)妻は自宅に待機し都子か横須賀からの連絡を待つこととし、私は事務所
      に出勤はしたものの、機械的に文書をめくり電話を見つめる一日だったようです。夜九
      時過ぎ横須賀へ電話をすると、良雄さんが電話に出て「いま洋光台に弥生(堤の妹)が
      いる、さちよは弁護士と一緒に警察へ行っている、堤かさちよから連絡があれば電話す
      る」との話でした。十一時過ぎても何処からも連絡はなく気を揉みながら妻が洋光台へ
      電話をすると弥生さんが出て「兄ちゃん達に大変なことが起こったみたい、母は警察か
      ら未だ帰ってこない、母が帰ったら連絡する」と言う話でした。   
       十二時過ぎにさちよさんから「誘拐としか思えない、警察にそのへんの事情を弁護士
      さんと一緒に説明したが、結局家出人捜索願いを書かされた」と知らされ、全身の力が
      抜けていく思いでした。「あの子たちが何をしたと言うのか」怒りが炎となって燃え上
      がり、全身が焼き尽くされる思いでした。 
       「都子は中学のころから『人の傷みを、自分の傷みとしてけ止める』『相手の立場に
      立って物事を考える』をモットーとして成長し、その実践に真剣に努力をしていた娘が
      他人に恨まれる様な行動をする筈がない、絶対にあり得ることでない。また、堤も『善
      良故に社会の歪みに呑み込まれていく人が沢山いる、こうした人を守ってやりたい』と
      早くから弁護士になることを心に秘め、やっとその緒に付いたばかりであり、他人を困
      らせ、泣かせるなど全くあり得ない」と心のなかで叫び自分を鼓舞し、また、妻にも繰
      り返しこの事を強調し、二人の意思の強さ、しぶとさを語り合い「どんなに厳しい事情
      にあっても、必ず切り抜けて帰ってくると信じきることが都子たちに贈る最強のエール
      になる」と説いて、眠れぬ一夜を過ごしました。
       明けて八日早朝四時五十分発(寝台特急ゆうずる)で妻を洋光台に向かわせる為に水
      戸駅に送り、勤務先に向かい当日予定していた会議の資料、運営等の引き継ぎをし、勝
      田発九時三十分発の特急で洋光台に向かい付いたのは十二時過ぎて間もない時刻と思い
      ます。この間長男裕(都子の弟)にこの事態を手短に連絡をし、裕は事情を良く理解出
      来ないまま私より三十分程遅れて洋光台に駆けつけました。
       私が洋光台に付いた時点では既に磯子署の鑑識によって、現場検証が行われておりま
      した。磯子署の現場検証が終了した時点(午後二時ごろ)で県警の鑑識が入れ代わりに
      入って更なる検証が続くあいだ、私と長男裕は磯子署の刑事と思われる方によって都子
      達の生活について聴取(内容は明確に覚えていない)されたと記憶しています。
       十一月四日夕刻より様々な事態に直面し、総て考えられない、あり得ないと思い詰め
      て来たが鑑識の現場検証を直視し、事情聴取を受ける時点になって本当に悔しいけど異
      常事態であることを認識せざるを得ないと覚悟した次第です。

(二)公開捜査の同意
       十一月八日早朝より現場検証と平行して周辺の聞き込みはもとより、焦点を絞った実
      質的な捜査活動に入ったと信じておりました。私たちは都子達夫婦の性格並びに生活態
      度の面から見ても、アパートの状況(室内に不自然な形跡があり、さらに、オウムのプ
      ルシャが落ちていた事実)等から「拉致事件」と強く認識しており、また、一度に三人
      も拉致されると言う未曾有の「重大事件」との認識も併せ持っておりました。当然捜査
      の常道である基礎捜査とでも言うのでしょうか、基本的な捜査も行われると承知してい
      たが、三人の生命が掛かっている以上オウム真理教に焦点を絞った、強力且つ極秘に集
      中捜査が行われるものと期待をしておりました。
       しかし、十一月十日と記憶しておりますが、横浜法律事務所の会議室で磯子警察署強
      行中隊の責任者から「公開捜査の同意書の提出」を求められました。この経緯は「双方
      (堤、都子)の両親に相談したいことがある、マスコミの目を避けるには横浜法律事務
      所が適当と思うので同所まで来て欲しい」旨要請され、坂本良雄夫妻と私夫婦の四名が
      横浜法律事務所に出向き、前出の捜査官ほか数名の刑事さんとお会いしました。冒頭に
      「マスコミは感づいていない、もし一部のマスコミが感づいて思惑で報道されたら捜査
      に重大な悪影響が出る、家族の方も困ると思う、捜査は市民の協力が必要であり正しい
      情報の提供は不可欠の条件である、公開捜査でないと情報の公式発表は出来ない、現在
      磯子署の手だけで捜査に当たっている、張り込み中の被疑者が動いても尾行も出来ない
      公開捜査になれば各署から捜査官を動員し、完璧な捜査が出来る」等の見解を示し、公
      開捜査の必要性を強調した後に、「公開捜査の同意書の提出」を要請されました。
       私はあまりの異常さに只々驚くのみでした。一家三人が誘拐されその行方も定かでな
      いこの時点で『公開捜査』とは、この事件を『重大事件』と位置付けたとしても三人の
      生命をどの様に考えているのか全く理解できませんでした。私たち四人は思わず顔を見
      合わせましたが、皆が驚きと不安、そして、悲憤に満ちた顔でした。即時『公開捜査』
      は納得できない、三人を救出するまでは避けてほしいと願いを込めた顔でした。
       私は、このような驚きと悲憤を抑え「公開捜査のメリットは理解できる、しかし、デ
      メリットも有るのでは」と控えめに質問したところ「デメリットもある」との回答のみ
      で、それへの対応には全く触れられません。私は「三人を一日も早く救い出したい、今
      はそれが総てです。今までの誘拐事件の捜査は報道協定を結んで秘密に捜査を行ってい
      る、この事件についても同様な手法をとって欲しい」と、お願いしましたが、「報道協
      定は記者クラブと取り交わす任意の約束であり、記者クラブに入っていないマスコミ、
      例えば週刊誌等には拘束力はない」と言ったことが縷々述べられました。このような話
      し合いが続くなかで、坂本夫妻も公開捜査に対する不安を述べておられました。私たち
      四人が公開捜査に同意しがたいと見たか、磯子署の捜査官は「捜査を公開するかどうか
      は警察の判断で行うもので、必ずしも被害者等の同意は必要としないが後々の為に同意
      書を出して貰いたい」と宣告ともとれる内容の話がありました。 
       私は「捜査に入ってまだ二、三日であり、まして、三人の救出の見通しのない段階で
      の捜査の公開は時期尚早と考えている、報道協定を結び秘密捜査を続けて欲しい」と再
      度お願いしました。妻も坂本夫妻も全く同じ意見で、それぞれ秘密捜査で全力を挙げて
      頂きたいことを強調し、この日の話し合いは終わりました。
       同月十四日午後再度警察の要請で「公開捜査」についての話し合いが前回と同じ場所
      で持たれました。参加者は私たち四人は変わりませんが、警察側は県警のかなり上層部
      の方が加わりました。話し合いの席では改めて紹介等はなく本題に入り、先ず捜査官側
      から「一部のマスコミは事件に気付いたようだ、弁護士の名前も所属する法律事務所も
      判らないが失踪の理由は幾つかの可能性を考えている様だ、例えば、「依頼者の金の遣
      い込み、家庭不和等の可能性がある」と言った例を挙げ、各社それぞれの思惑で報道の
      第一報が乱れた場合、捜査はめちゃめちゃに成ってしまう、この際捜査を公開し正しい
      情報を提供し報道の第一報の乱れを防がなければ事件の解決が難しくなる」と言った主
      旨の説明が成されました。  
       前回秘密捜査を強く希望したのに対し、警察は報道協定など全く省みず、頭から公開
      捜査一本に絞った真意が理解できず、強い不快感を抱きながらも娘たちの救出を考える
      と、警察の意向を強く否定することも出来ませんでした。
       事件の解決の大切さは重々承知はしているし誰よりもそれを望んでいるが、三人の救
      出が何よりも先と考えていることを説明したうえ「前回お願いした報道協定はどうなっ
      いるか」と伺ったところ「報道協定は法的根拠はない、法的根拠のないことに警察(或
      いは神奈川県警と言ったか、ハッキリと記憶しておりません)は手を着けない、警察は
      マスコミを抑えるだけの力はない、弁護士さん達は力があるから弁護士さん達に抑えて
      もらえ」と投げやりな言葉が返ってきました。 
       「日本は世界一治安が良い」と世界各国から称賛される由縁は、日本の警察が一貫し
      て「市民の生命財産を守る」を第一義として「治安維持」に鋭意努力を重ねた結果と信
      じており、警察を信頼しておりました。しかし、「法的根拠はない」の一言で、善意の
      慣例「報道協定」を無視しようとする警察の態度には我慢がならない思いでした。
       しかし、私たちの立場は警察の心証を重視しなければならない立場です。「一晩の余
      裕が欲しい、今晩四人で相談したい」とお願いしたところ「明朝同意書を書いてくれる
      のか」と念を押され、私は当惑しながら「四人の中一人でも『同意出来ない場合』はそ
      うはならない」旨伝えてこの日の話し合いは終了しました。私たちの話し合いが終わる
      のを待って、警察と弁護士さん達が明日(十五日)の公開捜査を前提として記者会見の
      時間、内容などの打合せが行われ、その内容から不本意ながら「同意」も考慮せざるを
      得ないと感じ、頭のなかが空白になる思いでした。         
       沈痛な思いを引きずりながらアパートに帰り、座卓を囲んでからも暫くの間互いに口
      数も少なく、只々思い悩むのみでした。時折それぞれ出される話は「捜査を公開した場
      合のリスクは、その対策は、また、報道協定なしで秘密捜査を行った場合のそれは」等
      で不安を払拭することは出来ませんでした。「公開」「非公開」どちらを選んでも、私
      たちに残るのは「地獄苦しみ」のみです。「何故、私たちにこような判断を迫るのか」
      「拒否出来ないのか」「拒否した場合警察の心証は、捜査は」苦悩のうちに夜もふけ、
      結局、諾否の結論は出せず終いでした。    
       十五日の朝を迎え「選択肢の無い立場」の苦しみに身を悶えながら「諾」とする悲し
      みをどう乗り越えるか、他の三人もこの一点で悩んでいたと思います。瀬戸際の朝を迎
      え「観念せざるを得ない」と言う心境である旨三人に伝えました。坂本夫妻は沈黙のう
      ちにも「それなりに受け止めてくれた」と思います。妻は首を横に振り俯いており、私
      としても同じ思いもあり翻意を促すことも出来ず、時間の流れを待つだけでした。
       八時半にM刑事が「承諾書を頂きに来ました」と当然書いてあると思いこんで来たよ
      うでした。未だ四人の意思はまとまっていない旨伝えると「書いてあるからと言われて
      貰いにきた、今すぐ書いてほしい」と強い口調でした。妻の意向を確かめると、「仕方
      がない」と虚ろな表情で力のない返事が返り、坂本夫妻も致し方なしの意向でした。
       一枚の同意書で我が子の我が孫の生命が左右されると思われる事態のなかで、この決
      断を迫る非情さに精一杯耐えての結論です。この苦渋の中で同意書を書く屈辱感は実に
      耐えがたいものであり自分の住所妻の名前さえ思い出せない混迷のなかの作業でした。
        たとえ、どの様な情勢下であっても娘達の生命を危険にさらす同意書を書いた、私
      自身の非情さに限りない嫌悪感を今も拭い去ることの出来ません。

(三)捜査の公開
       十一月十五日午後、横浜法律事務所から、十二時ちょっと前のテレビのニュースで坂
      本弁護士一家失跡の報道が流された、昼近くからマスコミの取材申込みもあり、対応に
      苦慮していると、予想外の連絡がありました。
       前日横浜法律事務所で警察と弁護士の打合せで、公開捜査当日の日程が確認されてた
      のは承知して居り、警察の記者会見前にこのような報道がされるとは全く予想外のこと
      であり、納得出来ませんでした。
       報道協定も警察公表もないまま流される報道の内容が昨日捜査官の言っていた様な内
      容であったら娘たちの将来はどうなるるだろうか、あれほど誠実に生きてきた家族なの
      にと、こみ上げる不安に耐える術もありませんでした。
       記者会見に出席する前、横浜法律事務所の弁護士に今日のマスコミ対応を伺うと「警
      察との約束もあり取材を断っていたが、或るマスコミから『このような情報を手持ちし
      ているがこれを使っても良いか』と見せられたのが余りにもひどい内容であり、急遽取
      材に応じて、弁護士業務妨害を意とした拉致事件としか考えられないことを力説した」
      と聞き、これで報道の乱れを防げる、警察の捜査に悪影響もなく、また、娘たちの立場
      も守られると安堵の胸をなで下ろした次第です。  
       予定通り警察の記者会見は行われたが、何故か非常に簡単だったと当日伺いました。
      横浜法律事務所の記者会見も予定された五時に行われ、主に堤の弁護士活動を紹介し、
      弁護士業務の妨害を図った「拉致事件」であることを強調していたと記憶しております。
       私たちは、娘夫婦の生活態度、交友関係、奉仕活動の一部等を紹介し「自分から失踪
      する子たちでない」ことを強調したと思います。