七.私たちの救出活動について

    拉致されたと知ったとき「晴天の霹れき」と言う言葉以上の強い衝撃を受け、しばし
      のあいだ頭のなかが真っ白になり、怒りの言葉も悔し涙も出ない状態でした。幾人かの
      弁護士さんが「三人を一日も早く救い出し、事件の全貌を明らかにしたい」と、真剣に
      取り組んでいる姿に接しても、また、温かい励ましの言葉や親身も及ばぬ数々のお心遣
      いを戴いても、只呆然としているだけで身の処しようも判らぬ有り様でした。
    事件後一ヵ月半を過ぎた十二月下旬に、救う会(坂本弁護士と家族を救う全国弁護士
      の会)の先生より「一部のマスコミから捜査の長期化予測の声も聞こえてくる、捜査本
      部が縮小されては三人の早期救出は一層難しくなる」として『捜査体制の拡充強化を要
      請する署名』実施の意向を示されました。
       私達としても、この犯罪の「強烈な反社会性」「極度の陰湿性」を強く感じており、
      また、三人の生命についてもかなりの危機感を持っておりましたが、反面、私たちの身
      内の被った災難でもあるわけです。署名により、多くの方々に多大のご迷惑をお懸けし
      ては申し訳ない、出来ることなら避けてほしいと言う思いも強く、即座に同意は出来ま
      せんでした。

(一)捜査体制拡充強化を要請する署名
       翌平成二年一月二十七日横浜で街頭署名が開始されたのを知り「署名が始まった以上
      全力を尽くしてこれに当たろう。都子達にしてやれるのはこれしかない。多くの方にご
      迷惑を掛けることになるが、お詫びは三人が帰ってから考えよう」と固く心に決め、妻
      とともに、親戚・友人・知人・職場並びに労働組合等、知己という知己全てを頼って、
      二月上旬より署名集めに精力的に取り組みました。     

  1.友人等に依頼しての署名
     当初は身近な親戚・友人等を訪ね事情を説明し署名をお願いしておりましたが、当時
      私は茨城食糧事務所に勤務しており、平日は出退勤の途中訪問することとなり、また、
      休日は先方の都合に関係なく訪れるなど、一日も早く失踪事件でなく拉致事件であるこ
      とを知って欲しい、一人でも多くの方に署名をして欲しい、と言う思いにかられ、失礼
      な行動も省みず事件の概要を話し署名用紙をお願いして歩きました。 
       一般の方には慣れない署名をお願いすることは大変迷惑なことだと思いましたが、数
      枚お願いした署名用紙が二十枚三十枚となって返ることもあり、なかには繰り返しコピ
      ーした用紙に署名したものもありました。朝数枚の署名用紙をお願いした人が深夜に電
      話で「署名用紙が足りない明日早朝百枚欲しい」と連絡があるなど、お願いした署名は
      親戚から親戚へ、友人から友人へ、職場から職場へ、その先へと限りない広がりとその
      早さに驚きもし、さらに、見ず知らずの方より励ましの言葉とともに送られてくる尊い
      署名簿を手にし、感涙に咽ぶこともしばしばでした。  
       しかし、幾人かの友人から「この事件を正しく理解されていない節もある」と言った
      連絡を受け、友人とともに相手方を訪ね縷々説明した経緯もあります。こうした方々の
      大半はこの犯罪の強烈な反社会性を理解し署名集めに積極的に協力頂けたが、中には本
      人の署名だけで家族の署名を断る方もありました。    

  2.県内の月例署名行動 
       平成二年春頃より、さがす会が水戸市内で、また、同三年五月より囲む会が勝田駅頭
      にてそれぞれ月例の街頭署名を開始しました。私たちも他に日程のないかぎり参加しま
      した(平成六年六月I八月は左足骨折のため不参加)。街頭でマイクを持って訴えるこ
      とは始めてのことであり苦しみの連続でした。暑い日寒い日雨の日風の日それぞれ苦労
      はありましたが、救出への展望のないなかで、オウム真理教はマスコミをフルに活用し
      堂々と宗教活動を繰り返し行っていることに、異議一つ言えない悔しさに堪える苦しみ
      は何物にも例えようもありませんでした。  
       囲む会の月例署名では、参加者は都子と同年代の方達で、それぞれ職場の中堅であり、
      また、女性の方は子育てに多忙な年代であり大勢の方の参加は最初から考えておりませ
      んでした。しかし、回を重ねるに従い参加者が二人三人と少なくなっていくことに寂し
      さを感じました。ところが、去っていくひとたちは、この事件とオウムとの関連を知る
      につれ凶暴なオウムから愛する我が子を我が家族を守るためには、都子先輩に申し訳な
      いがこれ以上関わることはできないと涙ながらに去ったと知ったとき、オウムに対し限
      りない憎悪の念を抱かざるを得ませんでした。

  3.偕楽園梅祭り・笠間菊祭りでの署名行動 
       平成四年三月に偕楽園で茨城のさがす会と東京豊島のさがす会の合同で救出を訴えた
      のが始まりで、同六年三月迄に偕楽園で四回、笠間で二回署名が行われました。回を重
      ねる毎に品川さがす会・さがす勝田の会・横浜さがす会等の救出団体も加わり、参加人
      員は延べ三百十六名・署名人数九千八百十三名に及ぶ大規模な署名行動でした。 
       私たちもこの署名行動に欠かさず参加し一日も早い救出を訴えましたが、その前日よ
      り署名用具・その他の準備等裏方の一員に加わる等、多くの方のご支援を受ける当事者
      としての懸命にことに当たりました。

  4.独自の署名行動
       知人を通じての署名も一年半余で一巡してしまい、署名用紙の動きも一時期の半分に
      満たない数になってしました。この間独自の署名としては、知人から返ってきた署名簿
      の空欄を埋めるため市内の団地等を廻り署名を頂いておりました。主に夕方各家庭を訪
      れたのですが、訪問販売や宗教の勧誘などと間違えられることも多く、説明するまもな
      く「要らないです」「宗教は嫌いです」と断られ、惨めな思いをすることが幾度もあり
      ました。 
       救う会の先生方も事件の風化を恐れ、創意を巡らして居る時期でした。私たちも一人で
      も多くの方に呼びかける場を求め、人の流れの多い観光地、袋田の滝で観光客に呼びかけ
      ることとしました。袋田は自宅より約六十キロ離れており往復に約三時間を要し一日掛か
      りの署名となるので「あえて応援は求めないが、現地での申し出は有り難く受ける・休日
      で他に予定の無いかぎり妻と二人で救出されるまで続行する」として、平成四年五月十七
      日を最初に同六年十二月十日迄の間に、六十八回の署名を行い、頂いた署名人数は二万八
      千八百五十一名に達しました。配付したチラシは五万枚を下らないと思います。
       この署名活動に入る際「救出されるまで続ける」と決意しましたが、平成六年六月に足
      の骨折をし十月末までの五か月間署名活動を中止し、また、同七年三月にオウム強制捜査
      が開始され「この時期に捜査体制の拡充強化を求める署名は如何なものか」と逡巡し、さ
      らに、「坂本弁護士一家殺害」のリーク情報にうちひしがれ署名を断念したこと等、自身
      の意思の弱さが悔やまれてなりません。
       夏は極暑なか、冬は寒風の吹き抜ける寒空の下で四・五時間立ち通しの署名の辛さは、
      それなりの覚悟はしておりました。また、観光地でもあり酒の余勢で心ない言葉もあるこ
      とは承知していました。しかし、観光客の中には、単なる憶測を確認した事実として縷々
      述べるものもあり、また、宗教の勧誘・占いの勧め等に当惑したこともあります。或ると
      き「署名などしていては三人は浮かばれない。早く帰って三人の供養をしてあげなさい」
      と執拗に言い寄られたときは全身の力が抜けていく思いでした。あまりのせつなさに耐え
      きれず、署名を中止し帰る車中でも、妻との会話は全く無い始末でした。 
       また、袋田の他に親戚の者の応援を受けながら、メーデー会場・笠間の陶炎祭会場、さ
      らに、平成四年三月より四月までの「広報活動強化月間」中、県内一円に情報提供を呼び
      かけるポスター掲示を行った際、行く先々で署名を十一回行ました。

(二)坂本弁護士と家族を救う集会について
       平成二年七月二十一日水戸翔合同法律事務所に於いて集会の相談会が持たれ、勝田で集
      会を開催することが決まり、勝田集会に向けて実質的な活動が開始されました。
       まず、呼び掛け人を募ることから始まり、事務局の構成・呼び掛け人会議の開催等準備
      の進むなかで、私たちは親族共々当事者として事務局の指示に従い、集会の成功に向けて
      全力を尽くしてこれに当たりました。
       集会が企画されてから同年十月十四日集会が開かれるまでの間、呼び掛け人を募る通知
      (五百十三通)発送・呼び掛け人会議二回(延べ二百三十名出席)・事務局会議十二回・
      呼び掛け人依頼状(三百通)発送・チラシ四万五千枚、ポスター二千枚発注・テレビ放映
      通知はがき(三百通)発送・水戸二高(都子母校)卒業生への集会案内(千七十通)発送
      ・街頭広報活動二回・ポスター掲示等々、支援下さる方達の手足となって集会の準備に最
      善を尽くして参りました。 
       結果として、呼び掛け人四百十五名(内代表十名)の方に積極的に協力して頂くことが
      出来、また、呼び掛け人以外に四百十二名の方から賛同金が寄せられるなど市民の関心が
      高まるなかで集会を開くことが出来ました。集会当日は四十人を越えるスタッフがことに
      あたり、千三百名を越える集会参加者を迎え事件の真相を説明し救出を訴えることが出来
      ました。
       三ヵ月に及ぶ長い間、多くの方々の献身的なお力添えがあってこそ、この大集会が持て
      たと思っております。

(三)地方議会への請願陳情について
       前項の勝田集会の基軸となった呼び掛け人会は初期の目的を果たし、会としての組織的
      な活動そのものは一時休止することとし、事務局は今後の活動に備え機能することなって
      いました。平成三年六月の事務局会議で、地方議会に意見書提出の働きかけを検討して欲
      しい旨提案し、今後の検討課題とすることとなりました。
       同年十二月、縁有って隣接する那珂湊市(現.勝田市と合併し、ひたちなか市)議会議
      員の紹介で同市市長・市議会議長に救出支援要請を行い、翌四年一月に同市議会議員三名
      にお会いし市民集会開催をお願いしたところ、「市の慣習から言って無理」とのことであ
      り、集会が無理ならば議会の意見書の提出を、とお願いしたところ「意見書なら次の三月
      議会で必ず採択する」旨確約して頂きました。
       平成四年三月十九日同市議会において「捜査体制の強化を求める意見書」が採択され、
      その通知書を手にしたとき、まさに、闇夜に一条の光を見た思い、こぼれる涙を抑えるこ
      とも出来ませんでした。「一家の救出を促す意見書第一号」だったのです。
       この通知書を持って、救う会茨城連絡責任者の水戸翔合同法律事務所の谷萩弁護士に報
      告し、谷萩先生も残る八十六市町村議会に「厳正且つ迅速な捜査を要請する意見書提出を
      求める陳情書」の提出を約束され、同年五月二十六日付けで八十六市町村議長に陳情書を
      提出して頂きました。その結果、六月議会終了時点で那珂湊市を含め五十四議会で意見書
      が採択されたのは、私たちは百万の味方を得た思いでした。とはいえ、残る三十三議会の
      対策を考えると身の引き締まる思いでした。
       採択を見送った三十三議会について審議の状況を尋ねたところ、「警察は失踪事件とし
      ており、議会審議に馴染まない。」との見解を殆どの議会から示され、愕然としました。
      また、「慣例上陳情は審議の対象としない」とする議会、七月・八月の臨時議会での採択
      を予定している議会等、それぞれの議会の状況を把握しました。
       次回の定例議会(九月)で採択されることを願って、七月下旬より八月末で各議会それ
      ぞれに事件の説明・請願書提出の際の紹介議員の依頼等、県内を走り回った次第です。
       日弁連の作成した事実調査報告書・他二点を提出し事情を説明した結果ご理解頂けた議
      会が大半でしたが、十二・三の議会には二度三度と足を運ばざるを得ませんでした。
       九月議会の終了した時点で二十七議会の採択があったことは私たちの予想を遙に上回る
      ものでり、議会関係者のご配慮あてのことと思います。  
       残る六議会のうち五議会については議長・町村長と再三打合せの結果、平成五年十二月
      九日迄に採択して頂き、残るのは一町議会のみとなり、県弁護士会のお力添えを頂きなが
      らご理解を求めましたが、断念せざるを得ませんでした。
       なお、この間平成五年五月二十六日に、同請願書を住民署名五千四十五名を添付し茨城
      県議会に提出し、同年六月二十三日に採択されております。

(四)全国キャラバンについて
       平成六年九月下旬より十月上旬に掛けて、日弁連・各県の弁護士会支援の基に救う会が
      実施した坂本弁護士一家救出のためのキャラバンの東コース(函館を出発し東北地方の太
      平洋岸の各県を廻り、新潟・長野・埼玉経由し北関東三県・千葉・東京)の全コースに参
      加する考えで居りましたが、主催者側の配慮により途中新潟・長野・埼玉の三県の行動を
      欠席し休養させて頂きました。連日早朝より深夜に至るスケジュールを消化していくのは、
      体力的・精神的負担も大変なものでした。途中台風に遭遇し、橋脚の陥没や土砂崩れ等も
      あり道路事情が悪く、走れば走るほど次の目的地に付く時間が遅れる等フロックもありま
      したが、行く先々で多くの方に温かく迎えられたことは、本当に有り難いことでした。
       とくに、高校生・OLと言った若い方達が三人を心配し、私たちを励まして下さり、救
      出を訴える図案を配した手製のTシャツを着てチラシ配付に署名にと真剣に当たっている
      姿に、また、ステージいっぱいの女子高生が♪おーててつないでみなかえろー♪と歌う姿
      に接したとき、胸が詰まる思いでした。

(五)その他の救出活動について  
       以上私たちの係わった救出活動の主だったものを挙げましたが、それ以外に私たちは救
      出を訴える場を造り活動をしてまいりました。以下これらの一部を列挙します。
       ポスターの掲示  懸賞金実行委員会(弁護士・知識人有志)のポスター六百十八枚を
                ほぼ県内全域に掲示(所用日数十一日間)
       カミニ集会 キ  友人・国民救援会・労働組合等の協力を得て支援を訴える。(国民
                救援会那珂支部他十一箇所)
       カ学校関係 キ  近隣の学校を訪ね救出活動への理解を求める。(勝田第一中学校他
                八校)水戸二高では同窓会名簿にオリジナルのチラシを折り込む。
       カ団体関係 キ  年次総会・役員会等で支援を訴え、または、昼休みに事業所を訪れ
                事件の説明をし署名をお願いする(全農林茨城県北分会他七団体)

(六)救出活動のまとめ 
       私たちの係わった救出活動のなかから茨城県内の行動を中心として申し述べましたが、
      救う会・さがす会・国民救援会・各単位弁護士会・全農林中央本部・その他の全国組織か
      らの要請に基づく活動等については、割愛させて頂きます。
       この六年余の経験から学びえたことは、市民の見る目の正しさ・清らかさ、そして、心
      の暖かさです。また、善良な民衆が護り育てる社会から盛り上がる、世論の力強さをしみ
      じみと感じ取ることが出来た六年余でもありました。得難い宝に触れた思いです。
       しかし、何故オウムの如き野獣集団が発生したのか、存続出来たのか。何故、罪もない
      市民を苦しめ、泣かせ、抹殺したのか。何故、その卑劣な集団を、行為を、ある面では保
      護して来たのか。全く理解が出来ません。こうした怒り、苦しみ、悲しみが骨の髄までし
      み通った六年余でもあります。
       この、感謝と憎しみの葛藤をどう切り抜けるか、余力があるか、不安は残るが都子達の
      名誉を護り、支援頂いた皆様方に応える為にも残る人生を懸ける決意です。