まえがき
「おとぎ話は、子供にお化けの最初の観念を与えるものではない。おとぎ話が子供に与え
るのは、お化けはやっつけられるという最初のはっきりした観念である。赤ん坊は、想像
力を持つようになった時から、龍のことはよく知っている。おとぎ話が教えてくれるのは
、龍を退治する聖ジョージである。・・・子供のベッドの四隅には、ペルセウスとローラ
ンとシーグルトと聖ジョージが立っている。この守護の英雄たちをひっこめれば、子供の
頭を健全にするかというと、そうはならない。子供をひとりぼっちで悪魔と戦わせること
になるばかりである」(G=K=チェスタトン『棒大なる針小』より。別宮貞徳・安西徹
雄訳、春秋社)
最近、ウルトラ・シリーズ関係の話題はふたたびマスコミを賑わせるようになった。た
とえば一九九三年十月十七日、『ウルトラマン』もう一つの最終話ともいうべき「ウルト
ラマンに逢いたい」が『有言実行三姉妹シュシュトリアン』(c石森プロ・東映・フジテ
レビ)の第四十話として放映され、『ウルトラマン』がいまや日本のマスメディア共有の
財産であることを示した。
また、キャラクター輸出による海外での反響もバカにならない。アメリカでは、ハリウ
ッドのスタッフによって『ウルトラマン』がリメイクされ、同一九九三年、日本でもその
ビデオが『ウルトラマン・パワード』のタイトルで発売開始されている。
さらに九四年には、日本テレビで『ウルトラセブン』の新作「太陽エネルギー作戦」「
地球星人の大地」が放映され、九五年にはウルトラマン誕生三〇周年のイベントが全国各
地で開催されるなど、ウルトラ・シリーズのリバイバルはこれからも続きそうである。
このウルトラ・シリーズの生命力は何に由来するのか。単にノスタルジィだけでは新作
は生まれるものではあるまい。
「ウルトラマン世代」という言葉がある。具体的には昭和三十年代前後生まれ、『ウルト
ラQ』(一九六六年一月放送開始)に始まるウルトラ・シリーズを見て育った世代のこと
だ。ビートルズ世代や全共闘世代と同じような語ではあるが、ウルトラマン世代にとって
のウルトラ・シリーズの意味は、ビートルズや全共闘の場合とは異なる。ビートルズや全
共闘が、思春期から青年期、社会的自我を形成するための踏み台としての役割を果たした
のに対して、ウルトラ・シリーズは、ウルトラマン世代の原風景として脳裏に深く刻印さ
れてしまっているのである。私も含め、ウルトラマン世代に属する者にとっては、ウルト
ラマンこそチェスタトンのいう、子供の「守護の英雄」だったのである。
ウルトラQシリーズは娯楽作品としては画期的なものではあったが、当然、芸術や文学
を目指したものではなかった。しかし、そのため、かえってスタッフの無意識が作品に、
表層の意識の検閲を強く受けることなく現れ、それが視聴者たる子供たちの無意識と共振
したのではないか。そして、その子供たちがスタッフと同世代になった時、無意識下の記
憶が表層に現れたようにも思われるのだ。
さらに、その影響は単にウルトラ・シリーズそのもののリバイバルに止まることなく、
現代の文化全般に波及しているようである。たとえば推理小説界の新本格派。『ウルトラ
Q』などが放映された一九六〇年代当時、日本の推理小説界は社会派全盛、本格派受難の
時代だった。本格推理小説というジャンルと作者にも読者にもある種の稚気を求める。と
ころが社会派の席巻は、その稚気を推理小説の世界から追い出そうとしていた。あるいは
、その追われた稚気はウルトラQシリーズに逃げ込み、さらに子供たちの脳裏に潜んで、
再起の秋を待っていたのではないか。最近の新本格派の台頭を思う時、この感は深まる。
その問題について、くわしくは本文に譲りたい。
本書はウルトラマン世代の一人としての著者による私的ノートである。しかし、それは
一つの基本的テーマによって貫かれている。それは『ウルトラQ』『ウルトラマン』が先
行するメディア(TVドラマ、映画、SF小説、推理小説、擬似科学書など)から何を学
びとり、それがいかなる形で後に続く者に継承されたかということである。
十九世紀以降のマスメディア発達で、情報はコマギレの形でも流通するようになった。
そのため、ある作家の作品が、その生涯手にすることのなかった書物の影響を受けるとい
うことも珍しいことではない。大衆的なメディアの場合、特にその傾向が顕著である(た
とえばH=P=ラブクラフトの語彙の出典探しなど)。
したがって、本書では『ウルトラQ』『ウルトラマン』に出てくる用語・概念について
、スタッフが直接、典拠した出典にこだわることなく、その淵源を可能な限りさかのぼる
手法をとった。読者の方には、いきなり聞いたこともない人名が出てきてとまどう向きも
あるだろうが、なにとぞ御寛恕願いたいものである。
なお、本書では『ウルトラQ』『ウルトラマン』を他のウルトラ・シリーズと区別し、
特に「ウルトラQシリーズ」と呼びたい。その理由は次の通りである。
ウルトラ・シリーズには毎回のように怪獣や宇宙人が登場する。その意味では、ウルト
ラ・シリーズに怪獣モノとしてのシリーズの一貫性があることは間違いない。
しかし、『ウルトラQ』で主人公たちが遭遇するもの、『ウルトラマン』で科学特捜隊
が捜査するもの、それはあくまで未知の事件であり、彼らは当初からそれを怪獣のしわざ
と考えているわけではない。実際、『ウルトラQ』には怪獣が登場しない回だってある。
しかし、『ウルトラセブン』以降のウルトラ・シリーズでは、仮想敵としての怪獣や宇宙
人の存在が前提となり、それを滅ぼすという方向で主人公たちの行動が導き出される。そ
こでは「敵」の存在は自明とされているのだ。『帰ってきたウルトラマン』で主人公の属
するチーム名がMAT(怪獣攻撃隊)とされているのは示唆的である。そこでは怪獣は最
初から攻撃対象とみなされているのだ。
世界は謎と神秘に満ちており、その一つとして怪獣があるという世界観と、世界は敵
に満ちており、それが怪獣の姿をとって現れるという世界観。ウルトラQシリーズと後の
ウルトラ・シリーズは世界観そのものが異なっている。
『ウルトラQ』のオープニングは『ウルトラマン』では毎回のオープニングにも継承され
、シリーズの連続性が強調されていた。それはまた世界観そのものの継承をも象徴するも
のだったのである。
それを小説にたとえれば、ウルトラQシリーズは推理小説的であり、後のウルトラ・シ
リーズは戦記小説的だと言い換えることもできよう。本書では、ウルトラQシリーズの推
理モノ的な側面に極力、光を当てていきたい。
『ウルトラQ』放映開始から間もなく三十年。その間には多くの関係者の方々がM78星雲
の彼方へと去っていかれた。特撮の神様こと円谷英二氏、その後を継いで円谷プロをもり
たてた円谷一氏、ウルトラ・シリーズの原案者ともいうべき脚本の金城哲夫氏、シュルレ
アリズムを怪獣造詣に取り入れられた美術の高山良策氏(四次元怪獣ブルトンの造形と命
名はこの人抜きにはありえなかっただろう)、幾多の怪獣図鑑の著者であり、雑誌等への
広報にも活躍されたSF作家の大伴昌司氏、そして今年は円谷プロダクション会長・円谷
皐氏の訃報を聞いた(一九九五年六月十三日没)・・・偉大な先人たちに感謝を込め、慎
んで本書を捧げるものである。
著者
第一章 都市論としての「ウルトラマン」