都市論としての「ウルトラマン」


怪獣はなぜ殺される

「ウルトラのころは、東京オリンピックも終わって、日本が経済成長の波にのっているこ
ろだった。新幹線が走りはじめ、土木工事はいたるところで起こり、道路は民家を潰し、
高速道路も街を圧し、超高層ビルが建ちはじめたころである。東京をはじめ、各地で古い
たたずまいは壊され、山は切り崩され、樹々はなぎ倒され、地は掘り返されたころだ。

 その状態の中で、時代の間尺に合わなくなったもの、地に宿る霊、樹々の精、といった
ものが消えゆく運命を背負って“怪獣”というかたちを結んだことは間違いないだろう。
要するに、あのころは、怪獣たちが毎週登場する下地があったわけだ。時代的にも、環境
的にも。これが、怪獣出現の作劇上の支えである。

 だから、感情移入は滅びゆくものへの挽歌という趣になった」(実相寺昭雄「“ウルト
ラ・シリーズ”の怪獣たち」『歴史読本』臨時増刊、一九八九年十二月号)

 この文には、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の名監督として、シリーズ製作の現
場にたずさわった実相寺氏の怪獣観がよく現れている。実相寺氏によるとウルトラ=シリ
ーズが長期にわたって成功した理由は、『ウルトラセブン』で怪獣を自然から切り離した
(外宇宙からの侵入者として位置付けた)ことで、怪獣を滅ぼす後ろめたさを軽減したた
めだという。

「滅びゆくものへの挽歌」、この怪獣観は実相寺氏に限らず、日本の怪獣モノの製作者の
間で広く共有されていたものだった。さらに近年、多くの論者によって、こうした怪獣観
が繰り返し論じられているのも怪獣モノ実作者の感慨が、さまざまな形で伝えられたため
であろう。

 たとえば赤坂憲雄氏は、クマソの故地(阿蘇山中)から現れるラドン、エゾの故地(北
上川上流)から現れるバラン、がいずれも国家(自衛隊)の前に滅ぼされるというストー
リーに、ヤマト王権と戦った古代の異族の影を見るという(赤坂「バランとラドンは、な
ぜ滅ぼされるか?」『別冊宝島・怪獣学入門!』一九九二年)。円谷英二は『ゴジラ』(
一九五四年)以来、特技監督として多くの東宝怪獣映画を手がけており、その中には『空
の大怪獣ラドン』『大怪獣バラン』も含まれている。円谷プロがその創設当時から東宝と
は強いつながりがあった以上、東宝怪獣映画の怪獣像がウルトラ・シリーズに受け継がれ
ていたとしてもおかしくはない。

「あらゆる怪獣映画は悲劇である、なぜならそれは常に主人公の死を以て終わるからだ」
というのは、手塚真氏の明言である。

クマと怪獣

 さて、私は現在、広島の住人だが、最近、この街では毎年のように市街地にクマが入り
込み、人間に追い立てられた末、射殺されるという事件が起きている。中国山地のクマは
絶滅寸前といわれるだけに胸痛む出来事である。それというのも、本来ならばクマが住む
べきテリトリーにまで市街地が拡大したために引き起こされた悲劇なのだ。

 その他にもクマが人里に降りてくるいくつかの要因はあるが、知れば知るほど人間の方
が悪いとしか思えないことばかりである(たとえば材木として高く売れるスギを植林する
ため、クマの住処となる広葉樹林をつぶしてしまうなど)。

 しかし、都市に現れる野性動物はクマだけではない。山中深くにいるはずの野性動物が
街に現れるケースは全般的に増えている。皇居の森はいまや日本でも有数の野鳥の住処だ
という。特にカルガモはいまや風物詩にまでなっている。

 東京郊外ではタヌキが民家周辺に現れ、餌付けされた例もある。私は一九八九年から九
二年まで東京都町田市に住んでいたが、そこでは住宅地においても多くの野性動物が見ら
れた。ヘビや野鳥と出会うのは日常茶飯事だし、一度などは昼日中、路上でばったりタヌ
キと視線を合わせてしまったことがある。都市周辺のタヌキは、住宅地では人間に危害を
加えられないことを覚え、かなり大胆に振る舞うようになっているのである。

 広島でも街で野性動物をみかけることは多い。たとえば我が家の庭にはしばしばイタチ
が出没する。ある夏の夜など、庭の草が茂った一角でイタチが跳びはねていることもあっ
た(これが本当の「いたちごっこ」らしい)。

 我が家は別に山中の一軒家というわけではない。動物研究者の実吉達郎先生にうかがっ
たところ、イタチが街にすみつくというのは、滅多になかったことだという。ところが最
近、広島では我が家の周辺のみならず、もっと市街地の中心に近い所でもイタチが住み着
いたという例がローカル・ニュースを賑わせたりしている。

 それは彼らの本来の安住の地であった山野が失われたせいもあるが、そればかりではな
い。都市が住みよいのは、人間だけとは限らないのだ。都市には生ゴミなどの食物が多い
上に、天敵となるような大型の動物が少ない。そのため、小型の野性動物の中には都市に
新天地を求める例が増えているというわけである。思えば都市では珍しくないネズミやゴ
キブリもそのようにして本来の住処から迷いこみ適応していったのである。

 こうして都市に住み着いた野性動物の多くは黙認され、中には皇居のカルガモや町田の
タヌキのように地元のアイドル的存在になるものもある。ところが同様にして出てきたク
マはあっさりと殺されてしまう。その違いはどこにあるのか。それはたまたまクマの個体
は人間の個体よりも力が強いからにすぎない。クマがたとえ人間への恐怖から相手を傷つ
けたとしても、人間はそれを正当防衛とは認めようとしないのである。

 人間の側の罪のために山を追われたクマが、その人間によって虐殺される。私はそこに
東宝怪獣映画やウルトラQシリーズなどで、その真の主人公たちがたどった運命を重ね合
わせてしまう。クマと同様、怪獣たちはその力ゆえに人間に殺されなければならないのだ
(『ウルトラマン』第三五話「怪獣墓場」で科学特捜隊の面々は「大きすぎ、力がありす
ぎる」だけで殺されていった怪獣への同情と悔悟の念を示している)。

怪獣は「滅びゆくもの」か?

 だが、怪獣とは本当に古き世の遺物であり、ただ滅ぼされるだけの存在なのだろうか。
そうしたイメージを裏切るシーンがある。それは『ウルトラマン』第二六話(「怪獣殿下
 前篇」脚本=金城哲夫・若槻文三/監督=円谷一)の一場面である。

 この作品は『ウルトラマン』の中でも、というよりウルトラ=シリーズ全体の中でもか
なり異彩を放っている。その主な舞台は万国博覧会に備え宅地造成が進む大阪千里丘陵、
時代設定は当然、一九六六年頃のリアルタイムである。

 怪獣は本当にいると信じるオサムは学校で「怪獣殿下」というあだなをつけられ、共た
ちからからかわれている。オサムはテレビの前の子供たち、つまり私たちの代表だった。
オサムは団地の周辺に広がる造成地を見つめる。林を刈り取り、山を崩し、そしてそこに
何が建つのか未だ予想もできない広々とした野っ原、そこに突然、未来都市が現れる、そ
してその町並みを睥睨するのは、アボラスに似た巨大な怪獣・・・・・・

 この未来都市はイラストで合成されたものだが、万国博覧会会場、現在の万博公園が広
大なさら地だった時代のドキュメンタリーとしても、印象深いものがある。

 それはさておき、そのシーンを境としてドラマは本格的に始まる。南海ジョンスン島で
古代怪獣ゴモラの生存が確認され、オサムはその新聞記事の切り抜きを学校で見せびらか
して大いに面目をほどこす。さらに、ゴモラは万博に出品されることになり、科学特捜隊
によって捕獲・空輸されることになる。ところが輸送中にゴモラの麻酔が切れて暴れ出し
、落下した所はオサムの住む団地から目と鼻の先、おかげでオサムはウルトラマン・ゴモ
ラ戦の第一ラウンドをかぶりつきで観戦することができたのである。

 テレビの前の私たちと同じ立場だったはずのオサムが、いつの間にか科学特捜隊が存在
し、怪獣がいるのも当たり前な世界の住人となっている。オサムの日常は、『ウルトラマ
ン』の作品世界における日常とつながっていた。そして、その二つの世界の接点となって
いたのが、千里丘陵に現れたオサムの心象風景というわけである。

 しかし、怪獣が都市によって滅ぼされ、追い払われるだけの存在だったなら、未来都市
には怪獣は不要なはずである。だが、そこにはちゃんと怪獣がいた。

 いや、その中に怪獣がいなければずいぶんと寂しいものになっただろう。富士山に月見
草がよく似合うように、未来都市には怪獣がよく似合うのだ。

 そのイラストは当然、製作者サイドで用意したものだから、このシーンは、製作者の心
情にも怪獣を「滅びゆくもの」と断ずるのとは別のベクトルがあったというのを示してい
るのである。

 そして、私たち当時の子供は決して怪獣を「滅びゆくもの」などとは思っていなかった
。私たちはむしろ怪獣を「来るべきもの」として待望していたように思える。

 私たちはドラマ冒頭のオサムのような日常を生きていたからこそ、怪獣が現れることを
望んでいたのだ。

 その意味では、オサムの心象風景は、オサムにとっての二つの世界の接点であると共に
製作者サイドと視聴者サイドとの接点であったといえよう。

都市の日常としての怪獣

 都市は古典的な怪物の助けなしでも物語を生み出しうる空間である。フランコ=モレッ
ティは次のように述べる。

「すべての語りが未曾有のものを要求する一方で、すべての文化的体系が同じようなやり
方でそれを生み出すわけではない。小説が発展するどの段階においても、物語の未曾有性
(目新しさ)は、道徳的な未曾有性(侵犯)の上に成り立っているのである。換言すれば
、小説はある種の超人的悪人か単なる怪物が登場するからこそ存在し得るストーリーを語
ってきたのだ」「陽気な詐欺師の一団や、本物の托鉢修道僧や淫奔な侯爵夫人や、色事師
の枢機卿や、大聖堂の傴僂男や、気味悪い蝙蝠や、盗賊や、毒殺人や、札付きの不良生徒
や、三本足の食人鬼やらがいなかったなら、民衆文学のおもなジャンルはどれひとつとし
て存在し得なかったろう。ところで、こうしたことすべてと都市がどう関わるかだが、都
市の語りの環境とともに初めて、フリークたちに依存することなく、胸おどる筋書きを創
造することが可能になったという点につきよう。実際、怪物が、そのようなものとして理
解されるのは、分類学を基準としてのみであり、普通なものとそうでないものを明確に峻
別する、厳密な分類を基準としてのみである。しかし、都市が底に秘めている大いなる自
由放任の規則は、分類を絶えずシフトしていくという特性を持っている。とりわけ、金融
・政治・教養といった、形態を異とする力の入り乱れての展開においてそうだ。各人は、
相争うグループに引き裂かれる」「主人公と読者の好奇心を刺激するには、旅に出ること
はもはや不必要になった。都市にとどまるほうがずっとマシなのである。都市においてこ
そ、毎日の生活がそれ自体を冒険へと変じ得るのだし、ある意味において、変じなければ
ならないのだ」(モレッティ『ドラキュラ・ホームズ・ジョイス』新評論、引用の文はい
ずれも橋本順一訳)

 都市はたしかにその表層からは古典的な怪物たちを追い払った。ところがその結果とし
てもたらされたのは、日々の生活における予測不可能性である。そこでは、人々の暮らし
を脅かす力は多くの場合、犯罪という形をとって現れ、さらにその犯人は古典的怪物のよ
うにあからさまな姿をとることはない。また、科学の発展にともなう生活の変化も、他の
地域よりも都市の方が顕著であるこというまでもない。

 探偵小説とSF小説という特異な文学ジャンルが、十九世紀の欧米で興ったのも、この
時代における都市文明の発展と無関係ではないだろう。

 都市に現れる怪獣というのは、この人々の生活を変える力が形象化したものではないか
。むろん、その中には実相寺氏のいう「滅びゆくもの」も含まれているかもしれない。し
かし、その「滅びゆくもの」を偏愛し、郷愁や感慨を抱くのは大人の特権だろう。

 かつて私たちは怪獣を身近に感じていた。都市化が進む一九六〇年代の日本列島におい
て、子供たちは日々、新しい町並みに潜む怪獣たちと出会っていたのである。子供たちに
は、感慨にふけっている余裕などは初めからなかったのだ。

 もちろん、ウルトラQシリーズの怪獣の中には、『ウルトラQ』第七話の岩石怪獣ゴル
ゴスや、『ウルトラマン』第二五話の雪男怪獣ギガスのように、都市とはまったく縁がな
さそうな牧歌的な存在、自然の象徴ともいうべきものもいる。しかし、彼らも人間との対
立を通して滅んでいかなければならない。

 その矛盾を最も強烈な形で示したのは、『ウルトラマン』第三〇話「まぼろしの雪山」
だった。ウー、それは村から疎外された少女「雪ん子」を守るためだけに山から降りてく
る伝説の怪獣である。だが、村の論理はウーと「雪ん子」を決して許してはおけない。

 村の主産業たるスキー場、それは都市の住人に奉仕するための施設であり、ウーの出現
はその経営を危うくさせるものだった。けっきょく、ウーはウルトラマンとの戦いの最中
に姿を消し、「雪ん子」は、ラストの科特隊隊員たちの会話によると、山に帰っていった
(画面上では村人に殺されたようにみえる)。

 村は決して牧歌的な環境ではない。それは都市に従属することによってのみ存在する集
団である。そこでは、都市文明に飼い馴らされない者の生存は許されないのだ。

 もっとも、現代ならば、どこにでもあるようなスキー場よりも、ウーの方がこの村の貴
重な観光資源になりそうな気もするが、それは都市文明による自然の馴化がいっそう進ん
だという状況を示すものでしかない。「雪ん子」にはもはや帰るべき山さえも残されてい
ないのである。金城哲夫の脚本は、私たちに重い問題をつきつけている。

「マンモス・フラワー」

 思えば、『ウルトラQ』第四話(製作順では第一作)の「マンモス・フラワー」におい
て、高さ百メートルの巨大植物ジュランが現れ、その花を咲かせたのが丸ノ内ビル街の中
心でなかったとしたら、その映像はあれほど美しいものになりえただろうか。ためしにジ
ュランが緑の山中に生えているところを想像していただきたい。それは単なる一本の巨木
であって、その大きさに驚くことはあっても恐れることはないだろう。放映当時、このジ
ュランの美しくも恐ろしい姿は、当時の視聴者に新鮮な驚きを与えたらしく、漫画家の水
木しげる氏もその題をとった「マンモスフラワー」という作品で、ジュラン(と同形の巨
木)が林立する東京の情景を描いている。

 ジュランは都心に生えることによって初めて「怪獣」たりえた。余談だが、ジュランの
根が皇居の堀に伸びる場面は光学処理によって合成したものだという。しかし、放送当時
、その映像が余りにもリアルだったために、本当に皇居の堀に根を浮かべて撮影したとい
う噂が流れ、TBSには抗議や問い合わせが相次いだという。この噂にはさらに尾鰭がつ
いた。皇居のシーンを撮影中、突然、堀の内側の方からボートが漕ぎ出してきた。それを
見たスタッフは泡を食って逃げ出したというのである。たしかに本当に皇居の堀に奇妙な
生き物がいるようならば、生物学者だったあの方が見逃すはずはないような気もする。

 それはさておき、ジュランの例は都市こそ、怪獣を怪獣たらしめるものであることを教
えてくれる。さらにいえば、都市は怪獣を召喚するのである。

 夜の都心を駆け抜けるケムール人、科学センター(今様にいえばハイテクビル)を占拠
するバルタン星人、マントに身を包み夜霧の中を歩むザラブ星人、彼らは夜の都市に出没
する影であり、都市に引き寄せられたものたちである。

 彼らは確かに外宇宙からの侵略者として描かれてはいる。しかし、『ウルトラセブン』
以降の宇宙人がいかにも他の惑星の「人間」として比較的合理的に行動しているのに対し
て、『ウルトラQ』『ウルトラマン』の侵略者たちの言動は不条理に満ちている。

 それはむしろ都市に住み着く妖精が宇宙人という姿を借りて、現れたようにも見えてく
るのである。

 こうした連中を「滅びゆくもの」と見なすことは不可能である。彼らはむしろ都市文明
の発展の中で新たに生み出された闇の住人なのだ。実相寺流の怪獣理解では、彼らは傍流
にならざるを得ない。しかし、子供たちの間で彼らが高い人気を誇っていたこともまた事
実なのだ。子供たちは闇を恐れる。しかし、その一方、恐ろしいからこそ近づきたい、い
っそさらわれてしまいたい、という密やかな願望をも育てている。そして、その闇への願
望がケムール人やバルタン星人を人気怪獣におしあげたのだ。

「破壊者ウルトラマン」

 一九七三年、大江健三郎氏は「破壊者ウルトラマン」という一文を発表した(『世界』
連載「状況へ」)。これは論壇におけるほとんど唯一の本格的ウルトラマン批判として特
記すべきものである(もっとも年代からいって、大江氏の直接の批判の対象となっている
のは『ウルトラマン』よりもむしろ『帰ってきたウルトラマン』の方であろう)。

 大江氏はそのなかで怪獣とウルトラマンによる破壊行為について次のように断じる。

「都市破壊が繰り返される光景を見ながら、ついに僕のオブセッションになりおおせたの
は、この大規模な破壊のあと、都市を再建することがいかに困難で厄介な大仕事であろう
か、というもの思いなのであった。広島においても、長崎においても、原爆後の人間の営
為に関して、もっとも感銘深いのは、そこで人々がいかにかれ自身を再建し、都市を再建
していったかのいちいちの現実的細部にほかならない。おなじく文字通りの瓦礫の荒野か
ら、米軍占領のもとに日本政府から見棄てられて、なお都市を村を、学校を墓を、すべて
の人間的環境を回復していった沖縄の人々の営為についてもおなじである」

「他ならぬわれわれが、怪獣映画全盛の時代に生きた日本人として、この時代そのものの
責任を分担せねばならぬように、怪獣映画についてもまたそれをみずから造りみずから熱
狂したものとしての責任をとらねばならぬはずである。未来法廷で、一九七〇年代の日本
人が尋問される。次の世代によって、ほかならぬ現在のテレヴィの前の子供たちによって」

 この大江氏の視点は、当然ながら、実存的レベルにおける破壊と再建の物語を紡ぎ続け
てきた大江氏の文学的営為と重なる。廃墟から出発した大江氏の世代にとって、都市再建
のドラマが原=物語となることは自然なことだったといえよう。

 しかし、『ウルトラマン』に熱中した世代にとって、都市は、あらかじめ与えられたも
の、もしくは迫りくるものであった。都市、少なくとも日本のそれは何もない所に突然現
れるものではない。それは山野を押し潰し、古い町並みや村落をぶち壊し、海や川を埋め
立てながら、拡がっていくものなのである。破壊者は怪獣とウルトラマンだけではない。
都市そのものが巨大な破壊者なのである。したがって都市はその前にあったものの廃墟に
建てられることになる。言い換えると、都市はすでに廃墟を内包している。都市とは躍動
し続ける廃墟なのだ。

 ウルトラQシリーズの怪獣出現シーンにおける都市は妙に生活感を欠いている。そこに
は人の息吹がほとんど感じられない。それは必ずしもミニチュアの限界というわけではな
いようだ。『ウルトラマン』第二三話でジャミラに焼きつくされる山村、その描写は生活
感に満ちていた。手に手に荷物を持って避難する群集、鳩を逃がすために家の方へとかけ
もどる少年、そうした場面を加えただけで、描写は生き生きとしてものになるのである。
むろん、都市でのモブシーンを撮ることは、当時の予算やスケジュールが許さなかったの
であろう。しかし、それは結果として恐るべき効果を生むことになった。

 その生活感のなさゆえに、怪獣が出現した時、すでに都市は廃墟としての様相を呈して
いたのである。廃墟の上に建てられ、廃墟となることが定められた都市、それは怪獣とウ
ルトラマンの戦いというハルマゲドン的状況の舞台にふさわしいものとなった。そして、
その荒涼たる都市像こそ、当時の子供たちの心象風景にマッチするものだったのだ。
 都市そのものへのイメージが、大江氏と「テレヴィの前の子供たち」との間では食い違
っていたのか。いや、大江氏自身、『同時代ゲーム』(一九七八年)の舞台「村=国家=
小宇宙」創造の立役者を「壊す人」と呼ばなければならなかったではないか。

「村=国家=小宇宙」の場所は一応、四国山脈の奥深くに設定されているが、そこはまた
奇怪なノイズに脅かされ、あらゆる空間と時間が交錯する場であるという。その意味では
、この物語の舞台は深い山中にありながら、村落共同体よりも、むしろ都市のアナロジー
として読み込まれるべきなのである。

 ちなみにオウム真理教教祖の麻原彰晃氏は、山岳地帯の中に完全なる都市を建設するこ
とを目標とし、山梨県や熊本県の山村の土地を買収していた(麻原『日出づる国、災い近
し』オウム出版、一九九五年)。かたやノーベル文学賞受賞者、かたや反国家武装カルト
の首領、一見、対極にあるかに見えるこの二人が描き出す夢の都市の類似性はいったい何
を意味するのか。麻原氏は自らの「村=国家=小宇宙」を建設するため、「壊す人」にな
っていったのだろうか。そこには、大江氏が嫌悪してみせた怪獣モノの破壊シーンを、さ
らに殺伐とさせたような心象風景がかいま見える。

「破壊者ウルトラマン」とは、怪獣モノの世界に魅きつけられながら、それを表層の意識
で否定しようとする葛藤の産物として読まれるべきものなのかも知れない(切通理作氏は
大江文学とTV・映画の怪獣モノの表現の類似を指摘し、大江氏の側に、怪獣モノに対す
るライヴァル意識があったのではないかとする。切通『お前がセカイを殺したいなら』フ
ィルムアート社、一九九五年)。

廃墟の美学

 ある美学者によると、戦争を引き起こす原動力は、後に残されるであろう廃墟の魅力に
他ならないという。むろん、あらゆる戦争の原因を廃墟の美にもとめられたのではたまっ
たものではないが、いかに荒涼とした廃墟であろうと、否、廃墟の場合はその荒涼さゆえ
に独特の美しさが生じるという事実は否定できない。廃墟を愛でる感性、それは十八世紀
以降、西欧の絵画・建築・造園・演劇などに広くみられるものであり、ゴシック美術の重
要なモチーフとなっている。

 一九一〇年代、ウィーンにたむろしていた画家の卵の中に、廃墟を描かせればピカ一な
のに、人物を描くと妙に生気がないという青年がいた。彼は画家として挫折した後、政界
に進出し、ついにはドイツの総統にまで成りあがっていった。

 青年の名はアドルフ=ヒトラー。彼は五つの都市改造計画を推進したが、その中でもニ
ュルンベルクでの計画は奇妙なものだった。彼はニュルンベルクをあくまで党大会専用の
都市と考え、最大に機能した時には、一五〇万人の人々が生活できるかわり、ふだんは人
っ子一人住まない無人の街にしておこうとしたのである(『未完の帝国−ナチス・ドイツ
の建築と都市』八束はじめ・小山明著、福武書店)。

 党大会都市ニュルンベルクはその設計の当初から廃墟となることが定められたような建
築群だった。そして、ヒトラー総統の下、全世界を相手に闘ったドイツ軍はヨーロッパに
廃墟を量産したあげく、自らの国土をも焦土と化してしまったのである。

 そして『ウルトラマン』に熱狂した世代もまた、その原風景に廃墟としての都市像がイ
ンプットされてしまっている。都市が廃墟を内在しているとすれば、私たちが廃墟を受け
入れたのも当然だろう。高度経済成長下で生まれ育った日本の子供は好むと好まざるとに
関わらず、「都市の子」であることを余儀なくされてきたのだから・・・

 この原風景は私たちを、はたしてどこに導こうとしているのであろうか。

「未来法廷」の開廷

 一九七〇年代以降、アニメ・特撮享受層の年齢上限は次第に引き上げられていく傾向が
あった。その傾向は、ウルトラマン世代の成長は歩を同じくしている。いいかえれば幼少
時、『ウルトラマン』に熱中した世代は成長してからも、なかなかアニメ、特撮の世界か
ら離れようとしなかったということである。この世代こそ、一九七〇年代半ばから次第に
形成され始める同人誌文化の最初の担い手だった。

 しかし、同人誌文化の形成期、エポックとなった作品群にはいずれも廃墟のイメージが
ついて回っている。まず、アニメ史上初めて自発的なファンジンを生んだ『海のトリトン
』。その中では、少年の自己発見の旅がやがては敵対するポセイドン族の大殺戮という結
末を迎えてしまう。ポセイドン族にとって、主人公トリトンこそ災厄に他ならなかったの
である(古澤由子『「海のトリトン」の彼方へ』風塵社、参照)。

 そして、荒廃した地球を救うはずの旅がいつしか地球とガミラス星のサバイバルレース
の様相を呈する『宇宙戦艦ヤマト』(一九七四)。無人の廃墟と化したガミラスの地下都
市で主人公たちは述懐する。「僕たちは愛しあうべきだったのだ」と。しかし、その言葉
に勝った者の奢りと偽善を読み取ることは難しくはない。

 荒廃へと向かうベクトルは『機動戦士ガンダム』(一九七九)にいたって頂点に達する
。その登場人物たちは、もはや勝利によっても充足を得ることはなく、自らの内面の荒廃
と向き合わなければならない。

 私は一九八〇年代の初頭、あるエコロジー関係の会合に出ていた折、太田龍氏が「ガン
ダムを見ていると戦闘ばかりで気持ちが悪くなった」と述べるのを耳にしている。太田氏
はその当時、エコロジーと自然食普及に力を入れており、最近ではユダヤ陰謀論の論客と
して活躍しているが、もともとは一九七〇年代、過激な暴力革命論を唱えて、ドラゴン将
軍、爆弾教祖などと呼ばれた人物である。

 その太田氏でさえ怖気をふるうほどの戦闘が、当時のアニメでは氾濫していたというこ
とになる。一九八〇年代まで私たちの世代はひたすら破壊と殺戮の映像に飢えていたのだ
。しかし、最近ではまたアニメ界などにも崩壊した世界をいかに再生するかというテーマ
の作品が次第に現れてくるようになった。廃墟を愛でることに飽いた世代が物語の造り手
の側に回った時、ようやく癒しと再建の物語を紡ぎ出される契機が訪れたのだろうか。

 それとも、本格的な再建の物語を語る前に、私たちは現実の廃墟を造り出さなければな
らないのか。そして、それこそが大江氏のいう「未来法廷」そのものではないか。

 私たちの内なる廃墟が、実体として世界に拡がるのが早いか、それとも私たちの世代が
内なる再建を果たすのが早いか、いずれにしろ近未来の世界は壮大な実験場となることで
あろう。

追記

本論考の骨子は一九九四年の夏に書き上げられた。そして御承知の通り、一九九五年の世
相はすでに「未来法廷」の開廷を告げているかのようである。


第二章 SF新世代と新本格