列車と洋館


走る密室

日本の本格推理小説に見られる特徴に、二つのものへのこだわりがある。それは列車と洋
館である。『ウルトラQ』の中にも、その二つをそれぞれ扱った作品があることは、非常
に興味深い。列車を扱う作品とは第十話「地底超特急西へ」と再放送第二四話「あけてく
れ!」、洋館を扱う作品とは、第九話「クモ男爵」のことである。

 最高時速四五〇キロ、電子頭脳に操縦され、東京−北九州間をわずか三時間で結ぶ世界
最高の超特急「いなづま号」。「地底超特急西へ」はその公開試運転の顛末を描いたもの
である。試運転に招待された江戸川由利子ら報道関係者の人ごみにまぎれて、三人の招か
れざる客が、いなづま号に乗り込む。一平と靴磨きの少年イタチ、そしてその子分のヘチ
マである。

 その時、一平は自分のカバンとまちがえて、相川教授のカバンを持ち込んでしまった。
その中には、相川教授の開発した人工生命M1号のサンプルが入っている。それは、たい
へん不安定な細胞で、刺激を受けるといかなる形をとるかは誰にもわからないという。

 万城目を通して相川教授の連絡を受けた由利子はとりあえずカバンを保管ロッカーに治
めることにする。だが、はずみでカバンは開き、しかもそれを閉めるまでの間に軽率なカ
メラマンがフラッシュを浴びせてしまった。

 M1号はやがて人間とゴリラの中間のような姿となってロッカーから這い出し、無人の
運転室でイタズラを始める。暴走する地底超特急いなづま号。東京の運転指令室では乗客
の安全のため、運転室と客車を切り離す。しかし、その時、なおも暴走を続ける運転室に
は、M1号と共に、乗務員に追われて逃げ込んだイタチがいた・・・

 現代日本では、新幹線はもはや私たちの生活に欠かせない乗り物の一つである。しかし
、東海道新幹線が開通したのは一九六四年、今からたかだか三十年ほど前の話である。そ
れは東京オリンピック開催にともなう交通・通信改革事業の一貫として計画されたものだ
った。『ウルトラQ』が放映された一九六六年、超特急はいまだ現実の利用よりも夢の方
が先走りする未来の乗り物だったのである。

 イタチとヘチマは学校に行けない(あるいは行かない)子供が巷にあふれていた戦後の
風俗の名ごりともいうべき人物だ。未来への夢あるいは不安をテーマにしたために、かえ
って一九六〇年代という時代の影が色濃く指してしまった。「地底超特急西へ」はそんな
作品である。

 ちょっとした手違いの積み重ねが大事故につながろうとしているのに、保管ロッカー室
や運転室で何が起きているのか、乗客は気付くことができない。ドアの閉まった列車は密
閉度の高い空間である。しかも、それは物凄いスピードを伴っている。列車の一つ一つの
中で何が起きているのか、外からのちょっと見では、なかなか判別することができない。
その意味では列車は走る密室なのだ。この密閉度の高さが、本格推理作家にとっては魅力
の一つとなるのだろう。それは必ずしも日本に限ったことではない。たとえばアガサ=ク
リスティの『オリエント急行殺人事件』はこの列車の密室性を巧みに生かして、サスペン
スを盛り上げている。

 ちなみに、この場合の密室とは、単に密閉された空間のことであり、本格推理の用語と
しての「密室」よりも広義である。本格推理でいう「密室」とは、一見、犯人の脱出が不
可能な状況となった犯行現場のことである(この点、後述)。しかし、広義の密室なくし
て、本格推理でいう「密室」も設定のしようがないのだ。

 となりの車両で何がおきているか判らないというスリル、そしてスピードがもたらす恐
怖、暴走する列車の中では、さしものM1号も単なるピエロにすぎない。「地底超特急西
へ」の真の主役、それは地底超特急いなづま号そのものである。

「あけてくれ!」

 G=K=チェスタトンの幻想的スパイ小説(あるいはスパイ小説のパロディ)『木曜の
男』(一九〇八)の冒頭近くに、次のような言葉がある。

「地下鉄に乗っている会社員や労働者がなぜあんなに疲れて悲しそうな顔をしているか、
君は知っているだろうか。あれは皆、自分たちが行くべき方向にちゃんと行っていて、切
符に書いてある行先に必ず着くことを知っているからなのだ。スローン・スクエア駅を過
ぎたら、次はヴィクトリアで、ヴィクトリア以外の駅ではないことを知っているからなの
だ。もし次の駅がどういうわけかベーカー・ストリートだったりしたら、あの連中も目は
星のように輝いて、魂がもう一度エデンの楽園に帰った気分に浸ることができる」(吉田
健一訳、創元推理文庫)

 もっともこのセリフを言った詩人グレゴリーは、もう一人の詩人サイムにすぐにやり込
められてしまう。

「無秩序というのは退屈なもので、それは無秩序ならばベーカー・ストリートかバグダッ
ドか、どこに行くかわからないからだ。しかし人間は魔法を使って、ヴィクトリアという
と、そのとおりにヴィクトリアに着く。・・・だから車掌が、ヴィクトリア、と叫ぶのは
無意味なことではないので、それは僕にとっては勝どきなんだ。ほんとうにヴィクトリア
、つまり、人間の勝利なんだ」

 なるほど、もしも列車が定められた駅以外のところに着くようなら、その到着地は決し
てロクな所ではないだろう。

 しかし、どこへ着くとも知れない列車に乗りたいという誘惑は、けっこう心そそるもの
がある。「あけてくれ!」はそんな誘惑に抗しえなかった人々の物語である。

 万城目と由利子は夜のドライヴの途中、道端に倒れた男を助けた。その男は踏切待ちの
時、「あけてくれ!降ろしてくれ」と叫んで車から飛び下り、電車に飛び込もうとする。
一の谷博士は錯乱状態の男・沢村を催眠術で治療しようとする。逆行催眠で明らかになる
沢村の体験。

 その夜、沢村は酔っぱらって歩く内、気がつくと電車の中にいた。窓からは町並みがは
るか下方に見える。やがて現れた車掌は沢村に切符の提示を求めた。沢村は切符を持たな
いまま、その空飛ぶ電車に乗っていたのだ。無賃乗車で車掌室に連れていかれる途中、彼
はSF作家の友野健二と称する男と会う。その電車は現実から逃れ、時間と空間を超越し
た世界を目指しているのだという。沢村が窓をのぞくと、そこには妻や娘や会社の上司の
顔が映る。「まだ行きたくない」と絶叫する沢村。

 万城目と由利子は友野の家を訪ねる。友野は一年半前から消息不明だが、原稿はきちん
と郵送されるし、電話も時たまかかってくるという。そして、友野の部屋で不思議がる彼
らの前に、どこからともなく事件の真相を暗示する友野の原稿が現れる・・・

 密室性とともに日本の本格推理作家が列車にこだわるもう一つの理由、それは日本の鉄
道ダイヤの異常なまでの正確さである。なにしろ新幹線「のぞみ」が数分遅れたというだ
けで、翌日の新聞が書きたてるようなお国柄なのだ。

 第二次大戦の終戦前後、大陸から日本内地に引き上げてきた人々の中には、焼け野原の
中でも鉄道がダイヤ通り走っていることに感嘆した者があったという。

 時刻表トリックはもともとイギリスで発祥し、一九二〇年代のクロフツなどが好んでと
りあげたものだが、現在、日本以外の国でこのトリックを用いる作家はいない。なにしろ
洋の東西を問わず、日本以外の国々の鉄道ダイヤでは、何時間という狂いさえ珍しくない
のである。これでは時刻表を信じて、分刻み、秒刻みの計画を立てるような奇特な犯人な
ど現れようもない。

 日本の鉄道は、チェスタトンの国イギリスのそれ以上に、秩序の象徴にふさわしいとい
いうる。その列車が線路を離れ、秩序の外なる世界に向かおうとする、この幻想は日本人
の心の琴線にふれるものがある。宮沢賢治「銀河鉄道の夜」では、天駆ける列車は天上の
至福を目指したが、「開けてくれ!」の異次元列車はいずこに向かうのだろうか(沢村と
友野は「銀河鉄道の夜」におけるジョバンニとカムパネルラの無残なパロディとみなすこ
ともできよう)。

 ちなみに、このドラマの狂言回しとなる友野健二は後年、『仮面ライダー』の死神博士
役などで特撮ファンの人気も高い天本英世氏、沢村は、第十九話でケムール人の最後の被
害者(?)となる宇田川刑事役だった柳谷寛氏が演じている。また、異次元列車の車種は
小田急線のロマンスカー型車両に属していた。「キネマ見ましょか、お茶飲みましょか、
いっそ小田急で逃げましょか」と『東京行進曲』にも歌われた小田急線なら、たしかに現
実から逃げ去る列車にはふさわしいではないか。

 なお、列車・鉄道を舞台とする日本の推理小説については、鮎川哲也氏がアンソロジー
の形にまとめているので、関心のある方はそちらをご覧いただきたい(『『下り「はつか
り」』『急行出雲』『見えない機関車』『無人踏切』以上、光文社文庫、『鮎川哲也と13
の殺人列車』立風書房、他) 。

「クモ男爵」

「クモ男爵」のテーマ、それは洋館での惨劇である。物語は、濃霧警報発令下の灯台から
始まる。異常信号の報告を受け、点検のために点灯部に登った二人の灯台職員、彼らを待
ち受けるものは人間よりも一回りも大きいクモだった。

 その頃、万城目・由利子・一平のトリオは、詩人の葉山(演・滝田裕介)ら三人と連れ
立って、パーティから帰る最中だった。由利子は遠くに見える灯台で何が起きているかも
知らず、「霧と灯台と史蹟、すてきじゃない」と上機嫌だ。

 野宿を決め込んだ六人は車を離れ、民家のある所目指して歩き出す。いつしか、彼らは
深い霧に包まれ、森の奥に誘いこまれてしまった。底無し沼に足をとられ、あやうく溺れ
そうになる一平たち。

 彼らは明かりに導かれ、沼にかかる細い橋を渡って、ようやくたどりついた洋館に一夜
の宿を借りることにした。その館は中に入るとクモの巣だらけ、人が住む気配もない。あ
の明かりは誰が灯したものだろうか?

 葉山は、手にした燭台に火を灯し、クモの巣を払いながら歌うようにつぶやく。「クモ
の館は火事ですぞ」(このセリフはラストへの伏線になる)

 室内には、ガーゴイルや仮面に似た装飾が随所にほどこされ、大広間中央には、葉山に
「ダリ的だね」と評される肖像画がかかっていた。その異形にうながされるかのように、
万城目は明治初期のクモ男爵にまつわる話を語りだす。その人物はクモを愛し、あらゆる
クモを集めて研究していた。ところが、彼の一人娘は結婚式を翌日に控えながら、誤って
毒クモに刺されてしまう。もがき苦しむ娘は底無し沼に落ち、死んでしまった。男爵は気
が狂ってしまう。だが、その男爵の下に娘は帰ってきた。巨大な毒クモに生まれかわって
・・・以来、クモ男爵と娘は今もその館に住み続けているというのだ。一同はこの怪談に
震え上がる。

 万城目と葉山は、薪を求めて館の中を探し回る。見つけたベッドに横になった万城目は
天井に下がる巨大なクモを見た。あわてて大広間に戻る万城目、遅れて現れた葉山は倉庫
で見つけた洋酒を手にしている。

 葉山は酒の補充のため、一人でまた倉庫に入っていった。突然聞こえる葉山の悲鳴。大
クモが、葉山に襲いかかったのだ。そのころ、厨房にいたキョウコ(演ずるは『007は
二度死ぬ』のボンド・ガール若林映子)も白い糸を吐く大クモに襲われていた。

 万城目たちは気を失った葉山を連れて、大広間に戻る。その天井に待ち受けるクモ、手
元にあったナイフで応戦する万城目。何個所も刺されたクモはやがて動かなくなった。

 キョウコを救い、館の外に逃れる万城目たち一行を、もう一匹のクモが追い掛ける。館
と外界をかろうじてつないでいた橋はまさに落ちようとしていた。いそいで渡る六人、水
面を歩いて追い続けるクモ。万城目たちは、自動車にたどりつくや急発進させる。ボンネ
ットにのしかかるクモを振り落とし、轢きつぶす万城目!

 クモが車に轢かれると共に、洋館はくずれ始める。やがてロウソクの火が燃え移ったの
か、館は突然の炎に包まれ、土台もろとも周囲の沼の中に崩れ落ちていった(このラスト
シーンはエドガー=アラン=ポー「アッシャー家の墜落」を連想させる)。

 なお、この話には二匹の大クモ(タランチュラ)ばかりではなく、今までどの怪獣図鑑
にも掲載されたことのない謎の怪獣(?)が登場している。ラスト、洋館が崩れ落ちる場
面で、炎の中、壁を背後から突き崩す巨大な白い手が映っているのだ。

密室と西洋建築

「クモ男爵」、それは洋館の不気味さを最大限に引き出した作品である。ここで推理小説
に目を転ずると、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』をはじめとして、洋館はしばしば惨劇の
舞台として推理小説に現れてきた。横溝正史『迷路荘の殺人』、江戸川乱歩『三角館の恐
怖』等々・・・

 乱歩といえば、彼の生み出した名探偵・明智小五郎は一時期、麻布区竜土町の洋館に住
んでいたことがあるし(『人間豹』)、彼のライバルたる二十面相もしばしば町はずれの
洋館をアジトにしている。

 最近でも、泡坂妻夫氏『乱れからくり』のねじ屋敷、赤川次郎氏「巨人の家」の倍々屋
敷、島田荘二氏『斜め屋敷の犯罪』の斜め屋敷など、日本の推理小説に現れる奇怪な洋館
は枚挙にいとまがない。

 特に綾辻行人氏は一九八七年の『十角館の殺人』を皮切りに、一連の「館シリーズ」を
世に問い、推理小説史上の洋館リストをさらに豊かなものにしようと企てておられる。そ
の舞台となるのは、綾辻氏が生んだ綺想の建築家・中村青司が作った洋館群である。

 洋館のいったい何が日本の推理小説家を魅きつけるのか、その答えの一つは西洋建築の
密閉性にある。実は密室トリックなるものは、もともと西洋建築の強固な構造を前提とし
て生まれたものなのである。

 十九世紀の初頭、パリはマンモルトルのアパートで、ローザ=デラクールという女性の
死体が発見された。その現場はドアにも窓にも鍵がかけられており、何日も姿を見せない
のを不審に思った管理人が、警官と共にドアをこわして入るまで、現場は密室として保た
れていたのである。

 ローザ=デルクール事件はけっきょく未解決に終わったが、それはネタに飢えた作家た
ちに新しい謎を提供した。世界最初の本格推理小説といわれるエドガー=アラン=ポー「
モルグ街の殺人」は、世界最初の密室トリック小説でもある。

 その後、フランスではアレクサンドル=デュマが伝奇小説『パリのモヒカン族』(一八
五四)で密室の謎を取り入れ、さらにユージュヌ=シャベット『犯罪の家』(一八七五)
、ジュール=ヴェルヌ「リヴォニアの悲劇」(一九〇四)を経て、一九〇七年にはガスト
ン=ルルーの傑作『黄色い部屋の秘密』が生まれる。

 また、イギリスではイズレイル=ザングヴィル『ビッグ・ボウ・ミステリー』(一八九
一)やコナン=ドイルによるホームズ譚の一篇「まだらの紐」(一八九二)などが書かれ
、一九三〇年代にはディクスン=カー(カーター=ディクスン)とクレイトン=ロースン
という売れっ子作家が競って数多くの密室トリックを創案した。かくして、アメリカも含
めた英語圏では、密室トリックの花盛りという有り様になったのである。

 日本でも海外の密室ブームの影響で、戦前から、江戸川乱歩「D坂の殺人事件」などで
密室トリックの試みが始められていた。特に、終戦直後の一九四六年、横溝正史が『本陣
殺人事件』を発表してからの一時期は密室トリックが爆発的に流行し、本格推理小説とは
密室トリック小説の別名か、といいたくなるぐらいの隆盛をきわめたのである。

 しかし、そうした戦後日本の作例の中には、密室トリックが出てくる必然性もないもの
も多く、読者の本格推理離れをうながす遠因の一つになったことは否めない。

 逆にいうと、密室の謎を扱うには、作品の構造にそれなりの必然性を準備しておかなけ
ればならない。たとえば犯人が殺人を自殺にみせかけようとした、自殺者が現場を他殺に
見せ掛けようとしてうっかり鍵をかけてしまった、犯人も知らない不可抗力で密室状態に
なった、密室内で死体と共にいる無実の者に罪をきせようとした、等々。トリックを思い
ついたから殺人を犯すというのでは本末転倒だろう(もっとも、その本末転倒を押し通す
ことで成功した希有な例もあるのだが)。

 さて、江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」と横溝正史の『本陣殺人事件』には日本式家屋
における密室に挑むという共通点があった。この事実はかえって日本式家屋での密室トリ
ックの困難さを物語っている。

 一部屋一部屋が堅固な壁に閉ざされ、窓とドアを通してのみ、外界と通じることのでき
る西洋建築、その密閉度は、もろい土壁や木の板、紙製のふすま・障子に囲まれた日本式
家屋とは比較の仕様がない。個別化された部屋、その一つ一つで何が起き、何が潜んでい
るのか、それはドアを開けてみるまでは判らない。密室トリックとは、もともと西洋建築
の構造に、見えないドアを求めるところから始まったのである。

 カーやロースンは屋外での密室という新しい趣向を編み出してはいるが、それは密室ト
リックというジャンルが確立してからの応用編にすぎない(カー『テニス・コートの謎』
他、ロースン「天外消失」他)。

 この壁一つむこうで何が起きているかわからない密室性は、迷宮性にもつながる。個別
化した部屋を長い廊下や階段で結ぶ西洋建築はそれ自体、迷宮的構造を持っている。部屋
数の多い館やホテルで道に迷った経験のある人は少なくあるまい。設計次第では隠し部屋
や秘密の抜け道を作ることだってできよう(たとえばドイル「ノーウッドの建築士」のよ
うに)。

 その種の物理的な仕掛けに頼らずとも、西洋建築内では容易に迷宮を作り出すことがで
きる。たとえば坂口安吾『不連続殺人事件』。この作品を支えるのは、登場人物の乱脈な
男女関係が生み出す心理的迷宮であった。探偵役の巨勢博士は、その相姦図に生じたわず
かな乱れを導きの糸として、迷宮内の犯人を引きずり出す。しかし、『不連続殺人事件』
のトリックは、舞台となる歌川邸の西洋建築を前提として構築されたものでもあった。す
なわち、ここでは錯綜する男女関係が、洋館という大道具を得て、はじめて迷宮としての
役割を果たすことになっているのである。

 なるほど、日本にも加賀の忍者屋敷(金沢市の妙立寺)に見られるように、古くから迷
宮的建築への嗜好はあった。しかし、西洋建築は日本人にとっては異文化の産物だった。
西欧の人々にとっては当たり前の建築様式も、近代の日本人にとっては新鮮な驚きをもた
らすものだったのである。

 そのことを端的に示す事実がある。先述した江戸川乱歩『三角館の恐怖』は、一九五一
年、『面白倶楽部』に連載された作品だが、乱歩は自らそれがロジャー=スカーレット『
エンジェル家の殺人』(一九三二)の翻案であることを明らかにしている。

 スカーレットの原作に現れるエンジェル家は、L字型の今でいう二世帯住宅で、「イタ
リアの宮殿の牢獄のような、陰気で不快な外観を持つ」とは言われているが、特にその形
そのものの奇妙さは語られてはいない(大庭忠男訳、創元推理文庫版による)。ところが
乱歩の翻案では、その形状の異様さが強調されているのである。

 日本の伝統的な迷宮への嗜好と、西洋建築が出会った時、そこには洋館そのものを迷宮
にみたてる発想が生じる。推理小説に現れる洋館の不気味さは、この密室性と迷宮性に起
因しているのだ。そして、その二つの要素の内、特に「クモ男爵」で生かされているのは
迷宮性の方である。

クモの迷宮

クモ男爵の館、それは二匹のクモ(クモ男爵とその娘か)が主宰する迷宮だ。館とその周
辺以外でクモが現れる場所が灯台だというのも重要である。灯台はもともと沖行く船が道
に迷うのを防ぐためのものである。しかし、クモの支配下に置かれた灯台は本来の機能を
果たせない。それどころか、逆に道往く人を惑わせ、迷宮の中心へと導くものになるので
ある(万城目は、洋館に見える明かりを、灯台の光が窓に映ったものと解釈している)。
これはクモの意思による迷宮の拡大に他ならない。

 そこから抜け出すためには、ギリシャ神話の英雄テセウスが迷宮の怪物ミノタウロスを
倒したように、クモを打ち敗るしかない。そして、クモの死滅とともに、洋館を外界から
隔絶していた霧も晴れていくのである。

 なお、洋館内を徘徊する姿なき殺人者というモチーフは、新本格派の旗手・綾辻行人氏
がその館シリーズの中でくり返し巧みに用いているものだ。その綾辻氏が第二章で述べた
ように『ウルトラQ』を自らの原風景の一つに数えているという事実は興味深い。

「館シリーズ」第一作『十角館の殺人』の冒頭には、登場人物たちが、「嵐の山荘」テー
マについて語りあう場面がある。

 警察の無粋な組織力や難解な科学捜査の前では古典的な名探偵の出番がない。そこで現
代において、本格推理の黄金時代(第一次・第二次の世界大戦間時代)さながらの推理小
説を書くにはどうするか、その手っ取り早い手段が、舞台を「嵐の山荘」に限定すること
だというわけである。そして、そんなことを声高に話し合った一同が、やがて訪れる十角
館で「嵐の山荘」型の連続殺人に巻き込まれていくのだ。

 クモ男爵の館も、霧と底無し沼という自然によって外界と遮断されており、その意味で
は「嵐の山荘」の変形ということが可能である(エラリー=クィーンの『シャム双子の謎
』は「嵐の山荘」テーマの代表傑作だが、その作中、山荘を外界から遮断していたのは嵐
ではなく、山火事であった)。

 十角館の設計者にして「館シリーズ」の影の主人公・中村青司と、クモ男爵はどこかで
つながっているのだろうか。

『ウルトラQ』(およびその原形の「アンバランス」)の企画が『ヒッチコック劇場』、
『トワイライトゾーン』(邦題『ミステリーゾーン』)、『アウター・リミッツ』(邦題
『ウルトラゾーン』)など、海外のオムニバス・ホラー・ドラマの影響を受けたという話
は有名である。しかし、『ウルトラQ』は一面では、日本の変格・本格推理小説の流れに
つながる作品群でもあった。列車と洋館、それは日本における広義の推理モノと『ウルト
ラQ』の世界を結ぶ重要な接点である。こうした個々のモチーフの分析からも、社会派推
理全盛の時代、ウルトラQシリーズがかつての本格推理(小説・ドラマ含む)から多くの
ものを受け継ぎ、さらにそれを後世へと伝える架橋となったことがうかがえるのである。



 あとがき