Back Numbers : No.17~雑想ノート



天使のキス・蝶々のキス~【バタフライ・キス】に捧ぐ

【バタフライ・キス】という映画を観た。
感動した。
私が映画を見て感動するなんてことはそりゃしょっちゅうなのだが、個人的にはこの映画は、今年の上半期に上映されたマスターピースであるところの【HANA-BI】や【ジャッキー・ブラウン】を通り越して、もっともっと印象深い映画になってしまったのである。
私は何故この映画にここまで魅かれてしまったのか ? 今月はこの映画について書いてみたいと思った。あぁそれなのに……どんなに頑張っても全然歯が立たない。私の拙い文章力は、この映画に全く位負けしてしまっている。しかして、この映画に相応しいエレガントな文章でもってこの壮絶なまでの美しさを何とか捉まえたい、という野望は脆くも崩れ去り、私は自分の才能の無さだけをつくづく痛感することになったのであった……しくしく。
と嘆いてみてもページは埋まらないので、今月は特に、この下手くそな文章を皆様の眼に触れさせることを前もってお詫びしておいて、敢えて恥を晒してみることにする。しかしそうやってよく考えてみると、いつもだってそれほど上手な文章を書いているとはとっても言えない訳なんであって……全く申し訳ないったら……

(注:以下はネタがバレバレの文章になっておりますので、まだ【バタフライ・キス】を御覧になっていない方はどうぞ御注意下さい。)


しかしこれは、決して万人受けするタイプの映画ではないのではないか、というのが私の率直な印象である。それはなにも、主人公の片割れであるユーニス(アマンダ・プラマー)という人物が、自分の衝動の赴くままに、何のためらいもなく行きずりの人間と寝て、手当たり次第に殺して歩くから、といったことに起因するのではない。もっと危険なのは、このユーニスが何か決して癒されない苦しみを抱えていて、死ぬことによってしかその苦しみから解放されないことをはっきり自覚していることの方だ。
物語ではまず、そのユーニスが、ガソリンスタンドからガソリンスタンドへと立ち寄って自分の望みを叶えてくれるはずのジュディスという名前の女を探している、ということが示される。もう一方の主人公であるミリアム(サスキア・リーヴス)は、このユーニスがいつものパターンで立ち寄ったあるガソリンスタンドにたまたま働いていた女性である。ミリアムは、些細な成り行きの積み重ねとユーニスの独特の強引さ(それが彼女の処世術だ)から、ユーニスを自宅へ招き入れることになってしまう。
ミリアムが、過去にも未来にも全く何の希望も持てないような慎ましくもわびしい毎日を送っていることが、次のシークエンスでは示されている。そして、多分ユーニスの全くの気紛れから、二人は関係を持ってしまう。そしてそれは、ミリアムにとっては決定的な意味を持つことになった。今まで自分に触れてくれた人はいないに等しかった、というようなことをミリアムは後で告白するのだが、何の色彩も持たない自分の生活に突然飛び込んできたユーニスは、何か光きらめくようなまばゆい存在に見えたのではないか。ともあれミリアムはそれから後、ユーニスに付き従って行動するようになる。
ほどなくミリアムはユーニスが殺した人の死体を見つけて驚愕する。しかし驚き悲しみつつも、ミリアムはユーニスに従うことを止めず、何とか自分が彼女を救えないかと考え始める。(最初は多分、まっとうな道に戻すことは出来ないか、といったような意味で。)だがユーニスはミリアムの気持ちなど意にも介さず、自分の行動を変えることなど考えもしない。そして、「神は自分のことを忘れているのだから、自分は何をしたって構わないのだ」と言い放つ。
(……でもこれは逆に、いかに彼女が何者かに救いを求めたがっていたかの証左に映る。あるいは、自分の存在をこれでもか、これでもかと指し示したがっている、泣きたいほどのあがきにも見えて、仕方がない。)
ユーニスはついに、あるガソリンスタンドでジュディスという名の女を見つけるが、彼女はユーニスのことを知らないし、当然冷たくあしらわれる。(ユーニスの言うジュディスとは、彼女の混濁した意識が、敵軍の大将の愛人となりついには彼を殺したという神話のユーディットに想を得て創り出した空想の産物ではないのか ? )悲嘆にくれるユーニス。しかしここでミリアムは、自ら、自分がユーニスの運命の女に成り代わることを選び取るのだ。そして無条件に無抵抗に、ユーニスがジュディスなる存在に仮託していた心の底の望みを引き受けることを約束する。その望みこそ-私を殺してくれないか。
ユーニスに“変態行為を働く男”(ユーニスにしてみれば多分いつもの宿賃代わりのセックスに変わりなかったのだろうが)をぶちのめして殺してしまったミリアムは、最後までユーニスのことをよく理解していた訳ではなかったのかもしれない。ユーニスにしたって、ミリアムのことを理解したいという気持ちは最後まで持ち合わせていなかったようにも見える。ミリアムには“天使のキス”でも、ユーニスには“蝶々のキス”だった。それでも、ミリアムが今こそユーニスの運命の女になったことを、二人ともはっきりと意識していた。二人にとって、世界はかつてないほど美しく、優しく映ったのではないか。そしてある瞬間、ユーニスは願い、ミリアムはそれを叶えた。こんな愛の成就の形があったなんて ! ……私は予想だにしていなかった。
リアリティを持つ、キャラクターに根ざしたタイプの社会派ドラマにするのは止めようと思った、とマイケル・ウィンターボトム監督は言っている(キネマ旬報5月下旬号参照)。確かに脚本自体は抽象的なものを意図して書かれたのかもしれないが、しかしそこにはやはり、現実に存在する何かの姿が否応無しに映り込んで来ざるを得ないのではないか。そして、生きている限りどうしようもない何かを抱えるユーニスと、彼女を純粋に愛するが故に自ら望んで彼女を解放する女神となったミリアムというキャラクターは、二人の素晴らしい女優の完璧な演技によって更に血肉を与えられ、画面の上で、例えようもないくらいリアルに息づいて見えたのだ。
いっそ自分に感覚があること自体を終わりにしたい、誰か自分を殺して欲しいと、(本当にやるかどうかはまた別の問題だとしても)人生の中で一度も願ったことがないという人には、その幸運が一生続いていくようにと願うより他にない。しかし、命がある以上は決して終わらない苦しみを背負って生きなければならなくなる可能性もあるのだということを一度知ってしまった人には、存続することをテーゼとしている現状の社会の中では許されていない願望を具現化しているユーニスとミリアムという存在の、毒のような美しさと危険さを、この映画の中に嗅ぎ取ることが出来るのではないか。だからこそ私には、この映画を嫌う人もいるのではないかと感じられてならないのである。

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ちょっとしたお詫び:今月は山本政志監督について書く予定にしていたのですが、急遽予定を変更させて戴くことになり、前回の【JUNK FOOD】の欄に書いていた予告がウソになってしまいました。どうもすみません。山本監督については……う~ん、またいつか機会があったら書いてみたいと思います。


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