Back Numbers : No.31&32~雑想ノート



誰のための映画か~【となりの山田くん】のねじれの位置

あるテレビのドキュメンタリー番組で宮崎駿監督が、「高畑さんには、少年時代に戦争の焼け跡をひとり彷徨った原体験がある。彼は本当はぼくなんか及びもつかないような破滅型の人です。」といったようなことをおっしゃっていたのが、印象に残っている。
高畑勲監督は、つらいことも悲しいことも人一倍その身に背負ってきたのであろうか。諸々の思いを乗り越えて至っている今日の姿はまるで仙人のようで、浮き世の下世話な狂騒など、あまり意に介していないかのようにさえ見える。
高畑監督が、この映画に関して引き起こされた諸々の事象に関して全く何の関係もない、などと言い切ってしまうことは勿論できないだろう。が、あまりに多くのことが監督一人の責任に帰せられるのだとしたら、それはあまりにフェアではないと思うのだ。

1.映画を創った人に思うこと

【ホーホケキョ となりの山田くん】がとんでもない野心作だというのは、その通りだと思う。
水墨画などの例を挙げるまでもない。絵というものはぎっしり描き込むのにも多大なエネルギーを必要とするが、バランスの美しさを維持しながらスカスカに抜くのは、はるかに難しいという。ましてやそれを動かそうというのだ、しかも実際の人間を思わせる詳細な動きのエッセンスを取り込んで再現させ、更にそれをデフォルメするなどというアクロバティックな技を駆使しながら。しかも、元来のアニメーションではほとんどありえなかった、透明な水彩画の色調で創ろうというのである。しかも今回は全ての作業をデジタル化するのだという……そんな信じられないくらいの高いハードルを、ジブリはまたも越えてしまった。アニメーション表現の質という点に於いては本作には文句の付けようが無いし、日本のみならず世界のアニメーション技術の地平に前人未踏の側面をまた新しく切り開いてしまったのは、間違いないと思う。
では、映画のテーマとしてはどうなのだろう。
人間はひとりひとりに帰っていける場所が必要だろうし、その場所を家族というものの上に設定するのは、ひとつの方法だと思う。ただ、帰るべき場所としての家族というものを現在の社会状況の中で語るには、たくさんの注釈が必要になってくるのではないだろうか。
親が一方的に押しつける世界観に子供はとりあえずはただ従うべきなのだとするのが伝統的な家族の在り方なのだとすれば、そういった旧来の方法だけでは対処しきれない局面にあまりにも多く遭遇してしまう状況になっているのが現在の社会なのではないだろうか。だとすると、そういった旧来の家族観というものは一旦徹底的に破壊してしまうくらいのつもりで考え、そこから敢えて新しい姿を模索し、再構築を始めるくらいの必要があるのではないかと思う。つまり、古いやり方に回帰するのでは駄目で、新しい何かを創造して付け加えていかなくては最早機能しなくなっているのが、現在の家族なるものの置かれている状況なのではないか。
しかし、破壊することも難しいけれど、そこから構築していくのはそのまた何倍も難しい。そういった構築の過程の大変さ、または大切さを、高畑監督は嫌と言うほど分かっているからこそ、家庭を築く礎となる結婚式という重要なシーンにミヤコ蝶々さんを起用したりして、特に力を入れて描いているのだろう。しかしそれ以外の部分では、ほとんど何の注釈も無しに"既に構築された家族の姿"の描写へ飛んで行ってしまうのだ。それはそれで、そのように呈示する方法も悪くはないかもしれない。とは言え、今の日本の観客を相手にする時には、そこにはもう一歩踏み込んだ何がしかの説明が必要な気もする。
不安だらけで見えない明日を「お楽しみ」と言って笑い飛ばすのも然りである。行く先には及びもつかないような艱難辛苦が待ち受けている可能性もあることを充分知っているであろう高畑監督のセリフだからこそ、敢えてそう言ってしまう勇気に私は涙が出るくらいの感銘を覚える。けれど「なるようになる」という人生訓は、自分に対する責任を安易に放棄してしまういいかげんな態度と混同され、敬遠されてしまう可能性もなきにしもあらずなのではないだろうか。
ごちゃごちゃした説明なんか必要以上に作品を煩雑にするだけだからいいじゃん ! と高畑監督は思うのかもしれない。確かに、作品のまとまりとしてはこれ以上足しても引いてもバランスが壊れ、美しくなくなってしまうかもしれないから、その判断は適切なのかもしれない。しかしそれならば、この映画で表現されているものと観客との接点を正しく測るための工夫が、この映画を流通させていく過程においてもう少し必要になっていたのではなかっただろうか。

2.映画を創らせた人に思うこと

映画と観客との距離や接点を正しく測る、となるとそれはマーケティングのセンスの問題である。
昨今は、映画を創る人にもマーケティングのセンスが必要、ということはよく言われたりする。が、私達は何も、観客に迎合するあまり個性も主張も何も失ってしまった映画の残骸を見物するために、わざわざ貴重な時間を割いてまで映画を見たい訳ではない。だから極論すれば、監督は、今までこの世にありそうでなかった何ものかを表出させることに全力を注いでいればそれでいいのだ。その監督をコントロールして、例えば現実に集められるお金の額と折り合いをつけさせるようにしたり(お金が足りなければ集めてくるとか)、映画の内容が映画を売り込むにはあまりにも不適当になっている(と思われる)場合は軌道修正を図ったりして、映画を現実の世界に着地させるための努力を払うのは、どちらかというとプロデュースサイドの仕事である。
今回の映画で「家族」であるとか「不必要な力は抜いていきましょう ! 」といったことをテーマしたこと自体は特に間違いとは言えないと思うが、それらのテーマを扱うには少し注釈が必要なのではないかということは、前項で述べた通りだ。今回のこの映画の中では、その“注釈"は声高には叫ばれていなかっただろうと思われるが、一旦、プロデュースサイドがそれでよしと判断したのであれば、その段階で、“注釈"を補って流通させるのはそちらの方面の仕事になっていたのではないだろうか。
プロデュースサイドがそういったことを全く意識していなかったとは思えない。が、少し詰めが甘かったのではないかという気がしないでもない。思うに、前回までの成功の経験から、質のいいものを呈示しさえすれば客がついてくる、という観念に少し甘んじていた側面はあったのではないだろうか。質には自信がありますからとりあえず観て下さい、というだけでは、客を呼び込むにも少し限界があろうというものだ。
しかし、宣伝その他がすべてうまくいったとしても、例えば【もののけ姫】みたいな挑発的な作風の作品と較べれば話題になりづらく、動員も落ちるだろうことは、ある程度は目に見えていたはずだ。それでも敢えてこの映画を創ったということ自体は、私は評価したいのだ。何かを為すために必要ならば、金なんか使ってしまえばいいじゃないか。どうせ世の中では、もっと無駄な金がもっと無駄なところへ、湯水のごとくジャブジャブと使われているのだ。(日本の、あるいは世界の)アニメーション界の将来のことを考えれば、今回達成された成果への投資としては、20億なんて安すぎるくらいじゃないのか。そんなことを言ったところで、出資する立場の人は納得しないのだろうが。
大きくなりすぎてしまったプロジェクトというのも、既に小回りが効かなくなってしまった恐竜みたいで、誰かにそれを完全に制御しろと言うのはもはや不可能なことなのかもしれない。しかしプロジェクトがそこまで肥え太り巨大化するのにただ任せてしまったとしたのなら、プロデュースサイドにその責任が全くカケラも無かったとは言い切れないだろう。

3.映画にお金を出した人、ただお金を設けたいとだけ思っていた映画を見せる商売の人、あるいは、他人の尻馬に乗って騒ぐだけの職業の人に思うこと

この映画で何を一番醜悪と感じたかと言えば、過大すぎるジブリブランド信仰そのものである
超大作(大儲け)映画待望症候群とでも言ったらいいのか、誰もが一枚噛もうとして映画の質にそぐわないほど大きくなりすぎてしまったプロジェクトの規模、ことあるごとに不釣り合いなほど大作であることばかりを喧伝しようとする業界の態度、その狂奔ぶりは、傍目には滑稽ですらあった。そんなこんなで観る側は、出来上がった作品そのものを観る以前から、必要以上にしらけてしまったのではないかと思う。
一旦評価を作り上げてしまうとひたすら褒めちぎり、個々の中身を吟味することも無しに闇雲にありがたがるのは、古いタイプの日本社会にはありがちにな悪い癖だ。そのような態度が日本を一流になれない国にもしたし、かつては日本の映画界を駄目にもしたのではないだろうか。
それがビジネスであるというのなら尚更、自分が関わるべきプロジェクトの内容を事前に吟味し、そのリスクをも予め視野に入れておくのは当然のことではないか。それなのに、この作品、というよりこのプロジェクトの成功・失敗を、もし映画を創る側の人々にだけ押しつけようというのなら、そのような態度は無責任極まりないと言わざるを得ないだろう。

4.結語

プロジェクトとしては成功しなかったのかもしれないが、映画の質から言えばこの作品は失敗作ではあり得ないと思う。ただ、この映画で金を儲けそこなった人々の恨み言を始めとする外部の騒音に引き摺られて、この映画の面白さを見逃してしまった人がいるとしたら、実にもったいないことだなと思う。
皆様の一人一人がこの映画を好きでも嫌いでも、それはどちらでも構わないのだが、ただこの映画をどう思うかという評価は、願わくば何かの折りに映画の内容を自分で確かめる機会を得た後に下して戴ければと、私は切に願う。自分の見る目を鍛えて自分の目で判断する態度を志向することだけが、この映画が置かれているようなねじれの位置を少しでも分かりやすいものにするために、私達、見る側の人間が果たすべき唯一の責任だと思うのだ。


※注 : 本来は、映画創りに携わる人を「創る人」「創らせる人」「周辺の人々」などと明確に分けることなど出来なくて、実際はお互いの役割はもっと密接で不可分なものなのだろうと思う。が、それでは多分永遠に文章が書き終わらないので、便宜上、上記のような分け方をさせて戴いたことを御了承下さい。

このクソ長くて読みにくい文章を、もし最後まで読んで下さった方がいらっしゃったとすれば、心より感謝致します。Thanks!

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