Back Numbers : No.76~雑想ノート



【ハウルの動く城】極私的鑑賞ノート


今年の私ことの誕生日に、毎日前を通っていても行く機会がなかったジブリ美術館(近所に住んでいるのです)に妹のと一緒に行こうということになり、折角だからも【ハウルの動く城】を観ておいた方がいいだろうということになったので、同行したはついうっかり2回目を観てしまったんですね。(時間がないせいもありますが、私は通常は、同じ映画を2度観に行くことは滅多にありません。)すると、1度観ただけではよく分からなかったような箇所も、大抵は映画の中に答えが用意されているような気がしてきたのと同時に、本作が今までのどの作品にも引けを取らないとてつもない傑作であるという予感がしてきたのです。そして先日、またついうっかり3回目も観に行ってしまった時、その予感が確信に変わったのと同時に、私にとって本作が、今までの宮崎駿監督作品の中でも一番好きな、特別な作品であるように思えてきたのです。

ということで、【ハウルの動く城】のどこがそんなに面白かったのか、私なりにどうしても書いてみたくなりました。

以下の文章の中は、ストーリーに思い切り言及していてネタバレのかたまりですし、私なりの思い込みや希望的観測も沢山含まれていると思います。でも、皆様には皆様なりのファースト・インプレッションを持って戴きたいですし、皆様なりの考えを大切にして戴きたいので、まだこの映画を御覧になっていない方は、出来ればどうかこの文章はお読みにならないで下さい。映画を観た後にもし気が向いたら、もう一度このサイトを訪れて戴ければ嬉しいです。

ちなみに、本編を書くのにあたって、一応、原作の方も読んでみました。どちらを先に鑑賞したのかという影響も大きいかと思いますが、私は映画の方が好きだったかもしれません。


ソフィーから見たストーリー

このお話は、それぞれの登場キャラクターの視点からストーリーを追うことが出来るくらい、それぞれのキャラクターがしっかり描かれているのではないかと思います。ですがここでは、主人公であるソフィーの視点からお話を追ってみたいと思います。(私の頭の中の整理のためです、悪しからず。)
ただ、今更ストーリーなんていいよ……とおっしゃる方も多かろうと思いますので、そのような皆様はここをクリックして下さい。

帽子屋で働くソフィーは、仕事の合間に他所で働く妹に会いに行く途中、ハウルと出会います。(この出会いのシーンでは、二人の空中散歩が見られます。あぁやっぱり本作でも飛ぶんですよね。)その後の妹との会話のシーンから、ソフィーは実家で意に染まない仕事に縛り付けられているらしいことと、どうやらハウルに一目惚れしてしまったことが判ります。
家に戻ったソフィーは、店にやってきた荒地の魔女に、いきなり、老婆になる呪いを掛けられてしまいます。
若い娘がいきなり老婆にさせられてしまったのですから、彼女は大いに狼狽し、もしかして一晩死ぬほど泣きもしたのではないのでしょうか。ですが彼女は翌朝には冷静になり、「元気そうだし、服も前より似合っているわ」と自分を励まし、ここにはいられないからと、中折れ谷という場所に住むもう一人の妹のところに行こうとします。(もう一人の妹のことは、セリフ一つでしか示されていません。余談ですが、妹達の話がほとんどカットされているのは原作からの大きな変更点の一つでしょう。ソフィーのストーリーに話を集約させたかったという狙いもあったのかもしれません。)

その道行の途中でソフィーは、偶然助けたかかしのカブに導かれてハウルの城に辿り着き、ハウルと再会します。この時のソフィーの、ハウルの一挙手一投足にどぎまぎしている様子が伝わってきますが、ハウルの方は(礼儀正しくはありますが)まるっきり他人行儀です。
城を動かしている火の悪魔カルシファーから持ち掛けられた取引 - ハウルとカルシファーの契約の秘密を見破ればソフィーの呪いを解いてやる - もあって、ソフィーは自ら掃除婦を買って出て城に居つくことにします。(ソフィーが荒地の魔女から掛けられている呪いを人に話せなくさせられているのと同様、カルシファーも契約の内容を自分の口からは話せないらしく、誰か他の人に見破ってもらうことが契約を解く鍵になるらしいです。)ソフィーはハウルの弟子兼使用人の少年マルクルとも仲良くなり、そこに自分の居場所を見つけます(「こんなに穏やかな気持ちになったの初めて……」)。が、ある日、髪の色を染め間違えて「美しくなかったら生きていけない」と思い切り落ち込むハウルを見て、ソフィーは「私なんて美しかったことなんて一度もないわ !! 」と絶望的な気持ちになります。(仕事に明け暮れていた昔も地味に過ごしていましたが、ましてや今はお婆さんになってしまったのですから……。)

それでもハウルに頼みごとをされると断れないソフィーは、王宮からの召喚状に対し、戦争には協力しないとハウルの代わりに伝えるため、王宮に向かいます。(この時の、腰をぴーんと伸ばして歩くソフィーの姿が印象的です。)王宮で待っていたハウルの先生の魔法使いサリマンの言動に対し、「ハウルがなぜここに来たがらないのか分かりました」「あの人は自由に生きたいだけ」と主張するソフィーの顔は、何故だかどんどん若返ってきます。サリマンは、後から駆けつけたハウルを、星の魔法陣を放ってソフィーもろとも捕らえようとしますが、二人は間一髪逃れます。このとき何故か、サリマンの罠にかかって魔法を封じ込められた荒地の魔女と、サリマンの飼い犬のヒンもついてきてしまいます。(余談ですが、サリマンやカブは、原作からの物語の変更に伴い換骨奪胎されて、全く別のキャラクターに作り変えられています。)
ソフィーたちと別れ追っ手を巻いたハウルはボロボロになって帰ってきます。気配を察知したソフィーは、異形の姿に変化したままのハウル(ハウルは魔力を使いすぎるとなかなか戻れなくなってしまうようで、物語中、カルシファーから何度か警告されます)と対峙し、「あたし、あなたを助けたい。あなたを愛しているんだもの」と告げますが、もう遅い ! と叫んだハウルはいずこかへ飛び去ってしまいます。
翌朝、カルシファーは、早く呪いを解かないと時間がないとソフィーに告げます。「ハウルは魔王になってしまうの ? 」「そんなこと、オイラの口からは言えないよ。」ソフィーは「勇気を出さなくちゃね」と決意を新たにします。

皆で食事をしている席に、人の姿で戻ってきたハウルの中で、どれだけの変化があったのでしょう。引っ越ししようと言い出したハウルは、城をソフィーの実家の家に繋げてソフィーの部屋を用意し(ソフィーはあんまり嬉しくなかったみたいですが……)、更に、プレゼントと称して、一面の花畑のある場所に案内します。そこはハウルの伯父さんが幼いハウルに残してくれた場所。「不思議ね、あたしここへ来たことがある気がするの。」そこでソフィーは、ハウルが天涯孤独の身の上であると知らされます。(これも、原作からの重要な変更点の一つでしょう。)知らないうちに若い姿に戻っていたソフィーは、ハウルから「ソフィーはきれいだよ」とまで言われるのに、自信がなかったのか、また自らを元の姿に戻してしまいます。

その後、どこかに向かって飛んでいる大きな戦闘機を見掛けたハウルは、ソフィーを家に帰して鳥の姿で飛んで行きます。街が空襲に遭う間、ソフィーたちは居所を嗅ぎ回るサリマンの手下に付け狙われます(この時、ソフィー達はハウルの言っていたように家で花屋さんを経営しているようで、何ヶ月かの時間が流れているのかもしれないと思わせる節があります)。ハウルはカルシファーに魔法で家を隠させ、自分は外の敵や爆弾を相手にしようとしているようです。「僕はもう充分逃げた。やっと守らなければならないものが出来た。君だ。」恐ろしい姿に変化してもなおも戦い続けようとするハウルを見たソフィーは、(「あたしがここにいる限りあの人は戦う」から)実家の家からの再度の引っ越しを試みて、カルシファーを暖炉から引き離し、皆と共に荒地へと逃れます。
城は崩れて小さくなりましたが、カルシファーは再度何とか動かすことが出来ました。が、カルシファーが隠し持っていたハウルの心臓を見つけた荒地の魔女が(そういえば序盤で、荒地の魔女はハウルの心臓を手に入れる呪いを掛けていました ! ……「流れ星を捕らえる者、心無き者、お前の心臓は私のものだ」)、カルシファーごと握りしめて離そうとしなかったので、魔女の体は燃えてしまいそうになり、ソフィーは思わず水を掛けてしまいます。カルシファーの力は一挙に弱まり、城は瓦解してしまいます。

城が壊れたはずみで皆とはぐれたソフィーとヒンは、壊れた城の扉を見つけます。扉の向こうには、ハウルがいつか教えてくれた花畑が……ただしそこには幼いハウルがいて、あたり一面に流れ星が降り注いでいました。ソフィーの脳裏には一瞬、王宮でサリマンに放たれた星の魔法陣がよぎります。そしてソフィーは見たのです。落ちてきた流れ星の一つに何やら話し掛け、やがて星を飲み込むハウルを。そして、ハウルの心臓の辺りから出てきたカルシファーを……。
過去の世界が崩れ去る間際、ソフィーは二人に「未来で待ってて ! きっと行くから !! 」と叫びます。一瞬こちらを見る二人。あたり一面の暗闇に陥ったソフィーを、ヒンが導きます。(やっぱりサリマン先生の犬、どうやら只者ではありません。)ソフィーは泣きながらも必死で歩き、やっと出口まで辿り着きます。

そこには変わり果てた姿のハウルが待っていました。ソフィーの気配が消えたのを感じ取り、ここまで追いかけてきたのでしょうか。「ごめんね、あたしグズだから。ハウルはずっと待っててくれたのに。」(前にハウルが「もう遅い ! 」と言っていたセリフは、ここに繋がるのでしょうか。)ソフィーはハウルに、カルシファーのところまで運んでくれるように頼みます。
お城は最後の板一枚になりながらもよたよた歩いていました。カルシファーはまだ生きていました。ソフィーは嫌がる魔女にお願いしてカルシファーを手放させ(「仕方ないねェ……」)、ハウルの心臓の部分に戻します。「カルシファーが千年も生き、ハウルが心を取り戻しますように。」契約は解かれ、カルシファーは自由になり、ハウルも無事目を覚まします。さて、もうひと悶着あって、大団円。

ストーリーラインを書いていて思いましたが、本作中ではかなり自由な時間の飛躍が行われており、実際はここでは何日か経ったのだろうなと思われる部分も、時に一瞬にして次の流れに展開してしまったりしているようです。これもいわゆるお話を分かりにくくさせている原因の一つなのかもしれません。その辺り少し気をつけて、自分の中で時計の進み方をいろいろ変化させながら見てみると、多少はスムーズな流れを作り出せるかもしれません。


心臓の話

物語中、心臓を手に入れるのどうのという話がかなり重要なポイントになっていると思われます。

カルシファーは、人間の体の一部を得ることで魔力を増大させることができるようで、中でも心臓や眼といった部分は特に効果が高く、幼いハウルの心臓を得てパワーアップする代わりに、ハウルに協力し魔力も分け与えるという契約を結んだようです。
一般的に、古い民話や民間伝承の中では、相手の心臓を得たり食べたりすることにより相手の肉体や精神の力を我が物にすることができるとされているものがあるようで、それは転じて、相手の存在そのものを手に入れることに通じているようにも思います。荒地の魔女がハウルの心臓を手に入れようとしたのは、そうすることでハウルを我が物にすることにできるという意味合いだったのかとも思いますが、もしかすると彼女は、若い男性の心臓を食べることで妖力を得ていたという考えもあり得るかもしれません ! (そうすると、ハウルが荒地の魔女のことを「恐ろしい人だった……」と回想するのが納得できてしまったりして……。)
ちなみに、英語では、心臓も心も同じ heart という言葉を使います。つまり心臓は心そのものの象徴でもある訳です。そう思いながら見ると合点がいく描写もいくつかあるのではないでしょうか。


悪魔との契約の話

ではそもそも、どうしてハウルとカルシファーは契約を結んだのでしょうか。

原作によると、もともと流れ星であったカルシファーは地面に激突する際に死んでしまう運命にあるか弱い存在で、それを可哀想に思ったハウルがついうっかりカルシファーを拾ってあげたことになっているようです。
が、私は、本作の中では少し違った解釈がなされているように思いました。それは、過去の世界で幼いハウルの周りに落ちてきた流れ星たちと、王宮でサリマンがハウルたちを捕らえようとして放った魔法陣の星たちの姿が、同じであるように見えたからです。3回目に見た時に確認したのですが、過去の世界で流れ星を見たソフィーが、王宮でサリマンが使った魔法陣を思い出すところが、一瞬ですがはっきりと描かれています。
つまり、こんな解釈も成り立つのではないでしょうか。カルシファーもまた、流れ星さえ操れるほどの強大な力を持つサリマンに囚われていた身だった。サリマンが、幼いハウルを捕らえようとして流れ星を放った時、ハウルは、自分を追いかけてきた星たちの一つであったカルシファーに、逆に契約を持ちかけた。お互いに力を強め、そのままではかなうはずのないサリマンの力を破り、二人して自由を得ようと。
ハウルは戦争というものを忌み嫌っていますが(どんな戦争も忌むべきものであることに変わりはないので、それがどんな戦争であるかは、この話の中では語られる必要はありません。ちなみに「オイラ火薬の火は嫌いだ。あいつらには礼儀ってものがないからね」と述べるカルシファーも、ハウルと似たもの同士のようです)、サリマンのもとにいたのでは自分もいずれ戦争の道具として使われることになるということを分かっていたはずです。だからこそ、幼い心に決心をして、カルシファーと手を組み、彼女の手の内から逃れようとした。
そこまではよかったのですが、気のいい奴とはいえカルシファーはやっぱり悪魔なのです。暗黒世界に由来しているはずのその力を長年使っているうちに、ハウルは徐々に暗黒面に侵食されるようになっていったのではないでしょうか。
お城の入り口の黒の扉は、この暗黒の力と何か深い関係があるような気がします。


魔女と魔法使いと悪魔の話

ここでちょっと、魔女と魔法使いと悪魔なるものとの関係について整理してみたいと思います。
(実は昔、シェークスピアの『テンペスト』に出てくる魔術師プロスペローのモデルとなったと言われている人物について卒論を書いたことがありまして、その時のうろ覚えの知識で恐縮なのですが。)

すごく大雑把に分ければ、魔女(witch)というのは、中世以前の地域共同体では世界中どこでも普遍的に見られた巫女的な存在の概念が、ヨーロッパで独自に発展したものと考えることができるようです。もともとのイメージとしては、村外れなどに一人住み、共同体の生活からは一歩身を置いたところで、村人の求めに応じて、薬草を処方したり、お産の手伝いをしたり、おまじないをかけたり(牛の乳がよく出るようにとか、恋人が浮気をしませんようにとか)していた存在。ただし、この魔女たちは、“悪魔崇拝”のような体系化された儀式のようなものを実際に執り行ったりしていたという訳ではなく(そのような概念は後付けで想像され様式化されたもののようです)、術のようなものを使うにしてももっと素朴な形のものであったというのが実態のようです。また、中には、人づき合いが悪いだけの偏屈婆さんがいわれなく魔女と呼ばれていたような場合も含まれていたかもしれません。
このような魔女たちのイメージと重なり易かった、例えば反社会的な行動とか、姦通などの反道徳的行為とか、妖しげな術のようなものを使う行為とか、教会に行かないことなどを、一方的に“悪魔的”であると見なす価値観は、もともと存在していたのでしょう。が、1468年にキリスト教の聖職者によって書かれた『魔女の槌』という本で、「“魔女”とは反キリストである悪魔と契約して魔力を授かっている存在である」という妄想的とも言える決め付けが行われてしまって以来、そのような胡散臭い行為を行う人たちをすべて悪魔そのものと直接結び付ける考え方が広く行き渡り、そのイメージが固まっていってしまうのです。(この時の“魔女”の定義には男性も含まれていることにご注意下さい。)
従来のキリスト教的な価値観が大いに揺らいでいた時代だからこそ、「教会の権威を確保するためには、悪魔の手先である“魔女”を地上から根絶しなければならない」という、ヒステリックなまでの警戒感が教会内に強まっており、この『魔女の槌』を論拠として、それ以前からも行われていた魔女裁判が一層奨励されるようになり、その数が激増するのです。この傾向が行き過ぎてしまい、従来魔女と呼ばれていたような人たちのみならず、一般の人々の間でさえ、ちょっとでも怪しい人や気に入らない人を片端からみんな“魔女”だと告発し(自分と敵対する人間は悪の手先に見えるもののようです)、死刑台に送り込む風潮が吹き荒れたのが、16~17世紀を中心に広がった「魔女狩り」でした。当時、人々は、証拠がなくても告発するだけで誰かを魔女裁判送りにできたし、権力者側は、告発された人を拷問による自白を証拠として死刑にすることができたのです。(ただし、この傾向は国や地域によってかなりの温度差があったようです。)反キリストという罪は最も重い罪とされていたため、“魔女”たちは通常、死ぬ際に最も苦しいとされる火あぶりに掛けられたのだそうです。

ここでちょっと問題になるのが、その悪魔なるものの存在についてなのですが……これがはっきりしない。実は“悪魔”とは、もともとは、神的なもの=善なるものに対置して発想されていた抽象的な観念に過ぎなかったのではないかと思われるのです。そして、もともとが実体のないものであるからこそ、古の時代から幾多の人々がその描写に苦労していた様子がうかがわれ、結局、神様的でないもの(醜いもの、異形のもの、不誠実なもの、恐ろしげなもの、etc....)が何でもかんでもごちゃごちゃと暗闇に放り込まれ、そのイメージが漠然と形成されていったのではないかと考えられるのです。(でも、本作に登場する悪魔のカルシファー君は、随分とキュートに造形されていますけどね。)

さて、ルネサンス期のヨーロッパでは、上記のような魔女たちとは別のところで、魔術師(magusなど)と呼ばれる人々が活躍していました。科学という概念が誕生する近世以前のヨーロッパでは、科学も魔術も哲学も神学もごっちゃにされて考えられており、要するにこれらの魔術師は、今で言う学者さんのような存在だったのです。彼等の知識体系には、いわゆるカバラや錬金術や占星術のような神秘学が独自に発展したものも含まれていましたが、その一部は、後の世の科学の萌芽を形成することになります。彼等は、当時の王侯貴族といった権力者に保護され、その知識を提供していたことが多かったようですが、その卓越した能力がやはり悪魔的と見なされることもあり、中には投獄されたり死刑になったりした人もいるようです。(でも、実在した魔術師のほとんどは、実は熱心なキリスト教徒だったのですが)。

※ただ、アフリカやラテンアメリカなどの一部の前近代的共同体に見られる祈祷師や呪術医が“魔術師”と訳されている場合もあるようなので、ややこしいですよね。この場合、イメージとしては“ある種の知識体系を修得している人”くらいに捉えて戴ければいいのではないかと思います。

後世における魔女や魔術師、また魔法使いの概念は、これらの歴史上の記憶が混ざり合って、イメージが膨らんだものであると考えられます。


荒地の魔女vsサリマンvsソフィー ?

それでは、ちょっと寄り道をしましたが、本論に戻ってみましょう。

荒地の魔女は“魔女”ですが、サリマンは“魔法使い”であるところは、実は重要な点なのではないかと思います。本作での“魔法使い”は、前項で言うところの魔術師の系譜に属する存在であると考えられ、サリマンは、学問体系としてのずっと高度な魔法を修得し、国王に直接仕える大変なエリートであると見ることができます。一方の荒地の魔女は、昔は宮仕えをしていた時代もあったようですが、基本的には在野の存在であり、自分で掛けた呪いを解くことすらできない場合もあるように、その能力は行き当たりばったりで限定的なものだと思われます。
中盤で、ソフィーたちが王宮を訪れるシーンのサリマンの言説によると、彼女はハウルに悪魔と手を切る方法を教えることができるらしい。つまり彼女には、ハウルや荒地の魔女が侵食されてしまった暗黒面の力をも制御することができるほどの力があるらしいのです。また、例えば最後あたりのシーンで「この馬鹿げた戦争を終わらせましょう」などと言っているのですが、これは彼女が、実は戦争の行方をも意のままにすることができるほどの権力や能力を有していることを示しています。彼女はとてつもなく強大な力の持ち主のようです。彼女と較べると、魔法使いとしてはまだまだ全然足元にも及ばないと見受けられるハウルが、「あんな恐ろしいところ(王宮のこと)、一人じゃ恐くて行けなかった」という言うのもよく分かります。

このサリマンが使っている小姓たちが、皆、幼い頃のハウルの姿形に似ているのを見て、げーっ !! と思いました。サリマンがハウルに執着するのは、自分の全てを伝える後継者と思い定めているという理由は勿論大きいでしょうが、それは表向きのこと。ここに全く1%の恋愛感情も存在しないと言い切ってしまうと、それもまた嘘なんじゃないんでしょうか。恋愛感情といってピンと来ないという方は、出来のいい愛弟子に対する度の過ぎた愛情といったらどうでしょう ? それに、私もいい加減おばさんなので、若いきれいな男の子をいーなーと思う気持ち自体、最近では分からなくはなくなってきていたりなんかして……。
彼女がハウルを得るために戦争を起こしたとまでは思いたくありませんが、戦争という状況を利用しようとしたのは確かだと思います。「逃がしませんよ」というセリフ……恐ろしすぎる !! でも宮崎監督は、こんなにもそら恐ろしい人を、気品があり、どこか可愛げもある人(最後にヒンに話し掛けるシーン参照)として描いているのです。

荒地の魔女がソフィーに呪いを掛けたのは、ハウルを追い掛け回している最中に、動物的な勘で、ソフィーがゆくゆくライバルになりそうだと嗅ぎ付けたからではないでしょうか ? この物語は、ハウルと荒地の魔女、サリマン、ソフィーの三人のお婆ちゃんの四角関係の話と取れなくもないのかもしれません……(ただし、ソフィーは急ごしらえの似非(えせ)お婆ちゃんではありますが)。これを性別逆にやったら結構シャレにならないかもしれませんが、お婆ちゃん&美しい青年のお話だからこそ、ギリギリ上品にまとめることができるのかも。ともあれ、こんな話をシレッと描いてしまえる宮崎監督こそが、一番食えない魔法使いに見えてなりません。

余談になりますが、あくまでも自分の欲望だけに忠実に振る舞って、物語を右へ左へと引っ掻き回す、トリックスターとしての荒地の魔女のキャラクターは面白すぎますよね。


「ソフィーはみんな連れてきちゃったな。」

最初はハウルがカルシファーとマルクルだけで住んでいた城に、ソフィーは、いつの間にか、カブ、荒地の魔女、ヒンを呼び寄せてしまいます。ハウルは寛大にも、「我が家族はややこしい者ばかりだ」とその状況を受け入れます。
サリマンに痛めつけられた後、ソフィーから手厚い介護を受けた荒地の魔女は、どうやら最後は多少元に戻っていた節もあるのですが、ソフィーたちの側で楽隠居を決め込むことにしたようです。また、最後にはやはりサリマンのスパイだったと判明するヒンも、ソフィーたちの側でただの犬として暮らすことに決めたようです。自由の身になったカルシファーまで、「オイラ、みんなといたいんだ」と戻ってきてしまいます。元の姿に戻ったカブも、ちょくちょくここを訪ねに来るのでしょう。
映画の中のソフィーは、原作のようにはっきり魔力を持っていると描写されている訳ではないのですが、周りの者たちといつのまにか打ち解け、強固な関係性を構築し育んでいく力を持っているように思われます。
マルクルはソフィーに「行かないで !! 」と乞い、「僕ら家族 ? 」と尋ねます。マルクルが原作よりずっと年少の設定になっているのは、1つには、この城に元から住んでいるマルクルとソフィーとの間に強い絆ができる(ただし恋愛関係では困る)ことが、この城の面々がいつの間にか家族的関係を形成するその根っことして欠かせなかったから、という物語上の要請もあったからかと思いますが、いかがでしょうか。
ハウルを捕らえようとしていたサリマン先生は、最後は一応は引き下がったかに見えますが、完全に諦めた訳ではないのではないでしょうか……。でもハウル・ファミリーの皆で力を併せれば、サリマンの強大な力を打ち破ることができるように思えます。そうさせることができることこそが、ソフィーの偉大なる力なのではないでしょうか。


呪いはどうして解けたのか ?

さて、物語の終盤では、ソフィーはいつの間にか若い姿に戻っており、お話はそのままエンディングを迎えます。ここで、ソフィーの呪いは一体いつ、どうやって解けたのかということがよく話題になっているようです。

一般的に、ソフィーの自信や前向きなエネルギーとリンクしているという見方ができるようで、私も概ね賛成ですが、ソフィーは眠っている間にも若い姿に戻っているらしいことなどを考え併せ、私は、ソフィーが自分を縛りつけているものから自由である度合いと関連しているのかなと思いました。もっと進めて言えば、ありうべき自分の姿に近づいた時に、呪いの解けた姿に近づくのだと。
終盤で、カルシファーが解いてくれるのを待たずに、自分自身で完全に呪いを解いてしまったように見えるのは、自分こそがハウルを開放することができるのだということを悟り、自分がハウルに何かをしてあげるのだということにはっきりと自覚的になったことと密接に繋がっているように思われてなりません。もっと言えば、好きになってもらえるかどうかということより、自分が好きかどうかということの方が重要で、それは与えられるものではなく、自分で選び取るものなのです。こうありたい、と思える自分の在り方を自ら選ぶことができるというのが、自由ということなのではないでしょうか。
実は最初に映画を見た時、いくら体をお婆さんにさせられてしまったからと言ってどうして中身まで一挙に老け込んでしまうのだろうと、少し疑問に感じていたのでした。これは、魔女が呪いを掛けるまでもなく、ソフィー自身が既に人生を諦めてしまっていて、中身が老け込んでしまっていたからだったのですね。(ちなみに原作では「好きで変装してる」と言われるシーンまで出てきます。)そういえば、最初のあたりのシーンで、ソフィーの妹が「お姉ちゃん、自分のことは自分で決めなきゃダメよ !! 」って言ってましたっけ……。
(どこかしらで、それで結局女性を解放させるのは恋愛ってことになる訳 ? みたいな意見を読んだのですが……う~ん、これ、一応ラブ・ストーリーなんですから。そこまで目くじら立てなくても……。)
ハウルの話もそうなのですが、この“自由”というのが実はこのお話の重要なテーマの一つなのではないかといったような気が、段々としてきました。


それでもやっぱりカブが好き♪

といろいろ書いてきましたが、私が本作の中で一番好きなのは、実はかかしのカブなのです。

2回目を観ていた時、荒地の薮に逆さまになって突き刺さっているカブを見て、涙がぶわ~っと溢れてきました。カブはかかしになる呪いを掛けられて、荒地でひとりぽっちで何を思っていたのだろう、どれだけ心細かったのだろう……。あんな気の抜けた笑い顔にさせられているのが、余計に哀愁をそそります。自分を助けてくれたソフィーに少しでも何かしてあげたくてつきまとっていた気持ち、とてもよく分かる気がします。ソフィーが「私なんて美しかったことなんて一度もないわ !! 」とお城を飛び出して雨の中で泣いているシーンで、後ろから追っかけてきてそっと傘を差し掛けるカブ……あぁなんていい奴なの !! カブにしとけよ、ソフィー !! あんな複雑怪奇なハウルよりカブの方がずっと性格いいんじゃないの。(ま、恋ってそんな訳にはいかないのよね……。)
映画の中でのカブは、ソフィーを最初にお城に導く以外は大した役割は果たしていないようにも見えますが、これだけ登場キャラクターが少なくて一人一人が濃いお話だと、カブのような緩衝材的なキャラクターは実は重要なのだと思います。それに、一応ハウルのライバルですから……ソフィーは他の男性から見ても魅力があるんだってはっきり分かるじゃないですか。
ラストのあたりを見る限り、カブはちっとも懲りていないようです(「心変わりは人の世の常と申します」)。行け行けカブ、頑張れ !! ハウルがちょっとでもソフィーを不幸にしそうなものなら、遠慮なく付け込んでやればいいんじゃないんでしょうか(笑)。
ところで気になるセリフが一つあります。中盤で「カブって悪魔の一族じゃないかな、カルシファーが怒らないもの」とマルクルが言っているのですが、これは一体どういうことなのでしょう ? 元の姿に戻ったカブは隣の国の王子だと名乗り、国に帰って戦争を終わらせると述べるのですが……彼の背景には一体どんなストーリーがあったのでしょう。興味は尽きません。



映画の完成前はいろいろ言われていましたが、蓋を開けてみれば、木村拓哉さんの声は物語世界に実にしっくりと溶け込んでいて、最高の出来栄えでしたね。他のキャラクターの声も、ソフィー役の倍賞千恵子さんを始めとして、誰一人文句のつけようがない。テーマ曲の『人生のメリーゴーランド』も、今まで久石譲さんがお創りになった曲の中で、多分最高に好きな曲です。
説明不足という人もいますが、私はこれ以上長くする必要はないと思う。これ以上余計な説明を加えると重たくなってしまう。そんなことをしなくても、この映画を観たそれぞれの人間が、受け取れるだけのものを受け取ればそれで充分なのではないでしょうか。本作はそんな映画であるような気がします。


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