朝九時起床。昼食は大丸の中のお好み焼き屋。 午後は膳所にチェロのレッスンに行く。
レッスンに行こうと自宅で仕度をしていると、 ドイツに留学していたT山先生が散歩の途中に立ち寄ってくれ、 話をしながら山科駅まで歩く。 本来ならドイツの話など色々聞くべき所なのだが、 昨夜の睡眠不足のせいかハイになっていたので、 広田作用素がどうとか自分の話ばかりしてしまったことに後で気付き、 ちょっと反省。 結局、僕が聞いたのは 問:「ドイツはいかがでしたか」 答:「天国でした」 だけだったような気がする。 またの機会においおい色々な話を聞かせてもらえるだろう。
昨日今日の「失なわれた時を求めて」。 第五篇「囚われの女」(ちくま文庫版第八巻)の後半。 かってのサロンの帝王シャルリュス氏に対する話者の、 醜く年老いた同性愛者という描写はますます悲惨さを増している。 シャルリュス氏はヴェルデュラン家のサロンから追い出され、 モレルからも捨てられて病に倒れる。 アルベルチーヌの性癖が思わぬ言葉から暴露され、 主人公は彼女を引き止めようと逆に別れ話を持ち出し、 再び仲直りする。 主人公はレズビアンについて、嫉妬について、 過去について、芸術についてなどの考察をしている。 この巻もあと数十頁だが、 アルベルチーヌとの同棲生活が終幕を迎えようとしているようだ。
六世歌右衛門が亡くなった。 僕が院生時代、歌舞伎をよく観ていた時は、 歌右衛門は既に七十台で、 たまに舞台に上がっても動く芝居は出来なかったので、 僕は歌右衛門がそんなにまでも凄かった、 という時を知らない。 確かにその時でも歌右衛門の出る舞台というのは、 全く他とは違う観劇体験ではあったが、 そうは言っても本人が道成寺を踊っていた時代とは違う。 偉大が偉大であった時代を知らないにも関らず、 偉大が消えていった時代として、 その時代を後世に自慢するという、 哀しいことになっていくとしたら嫌だなあ…
大学へ。 大学のスケジュールとしては、 昨日が入学式、今日と明日が新入生ガイダンスで、 4日から新学期で講義開始ということになっている。 大学では、ゼミの打ち合わせの準備などあれこれ。
今日のプルースト。 第五篇「囚われの女」(ちくま文庫版第八巻)、読了。 主人公が今日こそ嫉妬と不毛の同棲生活に幕を引くため、 ヴェネチア旅行の仕度をしようと決心したまさにその直前、 アルベルチーヌが置き手紙をして出ていったことを フランソワーズに告げられる。 第六篇「逃げさる女」(ちくま文庫版第九巻)に入る。 眠る前に寝床で少し読むだけなのであまり進まないが、 九巻、十巻と残すは後二巻と迫ったので、 おそらく四月の間には全体を読み終わるだろう。
しかし眠い…なぜこうも眠いのであろうか。
打つべし打つべし打つべし…
私が英語で書く時に一番困るのは冠詞である。 "a" なのか "the" なのかそれとも無冠詞でいいのか。 前にプレプリントを書いていた時、 Warwick大数学研究所のE教授(イギリス語ネイティブ)にこの違いを尋ねた。 その答は、 「それは簡単だぞ、ケイ。初めて出てきた名詞には "a" で、 次に出てきたら "the" だ」だった。 私が、それは知っているがそれでは判断できない場合があるのだ、 と反論しても、 「じゃあ、こういう例はどうだ。 ある所に猫(a cat)がいました。 その猫(the cat)は長靴を履いていました」 などと当たり前のことを繰り返すばかりである。 じゃあ、こういう場合はどうですか、と色々な例を出すと、 それをぶつぶつと何度か唱えて口調を試してみて、 「それは "a function" だ。それは "the F Conjecture" だ。 それは何もつけずに "G theory" だと思う」 などとそれぞれ個別に答える。 それらを判断する根拠は何なのか、とさらに尋ねても、 「ある猫がいました。その猫は長靴を…」 とやはり長靴を履いた猫理論である。
その時、私が思ったことは、 ネイティブにとって文法は自明であると言うことである。 例えば、日本語ネイティブでない人に助詞の「は」と「が」の 区別の仕方を尋ねられるのと同じ状況であろうか。 その区別は非常にデリケイトに文脈に依存し、 それを完全に区別する法則はないのだが、 ネイティブならば自明に分かってしまうので、 非ネイティブには何の助けにもならない「文法」を信じてしまっている。 数学の場合、"a" と "the" の区別は数学的内容まで左右するので 非常に大事であるが(実際、冠詞で定理の主張する内容が変わってしまう)、 どちらか決めかねることが多く私の悩みの種である。 結局、E教授と半日に及んだ「a か the か」議論は、 「その区別は本人が何を言いたいのかという内容に依存する」 というトリビアルな結論に落ち着いてしまったのであった。
今日のプルースト。 第六篇「逃げさる女」(ちくま文庫版第九巻)。 なんと、アルベルチーヌ、死す。
今日四日から新学期で即講義開始。せちがらい。 生協の本屋に行ってみると、 大学に入学したらいきなり講義が始まって、 あわてて教科書を買い求める新入生で賑わっていた。
午後に数理の卒研の学生達がやってきたので、 スケジュールやテキストなど打ち合わせ。 英語の比較的簡単な確率論の入門書にしてみたが、 どうなることやら。 卒研ゼミを始める日程を相談していたら、 「早く始めたら早く終わるんすか?」と聞く学生がいて、 一瞬、ボクサーが言う所の足が止まった状態になり、 膝から落ちかけたが、なんとか踏み留まって、 「もちろん、そうはいかないよ(微笑)」とか答えておく。 きっと最近の学生らしい切れ味の鋭いジョークだろう。 まだ半年ばかりで慣れていないのだが、 数理の学生と言っても油断はならないようだ。
夕方から今期初の学系会議。 議題が多くて久しぶりの3時間会議炸裂。 終わったのは7時頃だったので、 K川先生、A堀先生、A堀ゼミの学生二名と生協で夕食。 A堀研はこれから夜にゼミだと言っていた。 超関数の知識をサブテキストで補った後で、 いよいよ Sturm-Liouville 理論に入るらしいので、 僕もその辺りからスケジュールをあわせて参加させてもらおう。 と言っても僕の方が、 作用素のスペクトル論などを忘れてしまっていて、 ついていけないかも知れないが…
朝九時頃、チャイムの音で目が覚めた。 インターホンを取っても誰もいないようなので、 郵便受けを見にいくと共同研究をしているI先生からの速達である。 お互いにファックスを持っているので文明の利器を使えば よさそうなものだが、 家に帰ってきたら部屋中に10メートルほどのロール紙が うねっているのも嫌な感じなので、 郵政省のお世話になっている。
家で昼食を取ってから三条でお茶を飲みながら、送られてきたノートをチェックし、 執筆中の論文の構想をまた変更する。
夕方帰宅。打つべし打つべし打つべし…
ずっと執筆作業をしていた。 したがって特筆事項なし。
今まで出来ている部分の原稿を印刷するために 朝から大学に行く。 私は自宅にプリンターを持っていないのだ。 午後から大阪へ。 ホテルのロビーで共同研究者と論文執筆の打ちあわせ。 四時間で相当量の珈琲を消費して、あれこれ相談。 序文を書くための資料として、 CameronとMartinの古典的な論文を5つくらいもらって、 新快速で帰宅。
今日の「失なわれた時を求めて」。 第六篇「逃げさる女」(ちくま版第九巻)後半。 主人公はアルベルチーヌの死から次第に立ち直る (と言っても、ゆうに普通の小説の一冊分はかかったが)。 そんな頃、ジルベルトと再会。 またアンドレからアルベルチーヌについての告白を受けるが、 アルベルチーヌのことが過去となった主人公は、 既に苦しむこともない。
二三日、根を詰めたので、 今日はせめて休日らしく、気を抜くことにする。 テレビのニュースを見ると、 オカルト趣味で軍隊ごっこが好きな某知事の演説が流れてたりして、 やっぱり箱根より東は魔界だなと肝が冷えるので (せめて知事からオカルト首相に昇格しませんように)、 プルーストを読んだり、昼寝したり、町をぶらぶらしたり。 一般的には今日は春休み最後の休日らしく町は賑わっていた。 しかし、眠い。どうしてこんなに眠いのか。
今日のプルースト。 第六篇「逃げさる女」読了。最終篇「見出された時」 (ちくま文庫版第十巻)に入る。 主人公が過去に愛したジルベルトは 主人公のかつての親友サン・ルーと結婚、 しかしサン・ルーは妻を裏切ってモレルと同性愛関係にある。 主人公はジルベルトの館があるタンソンヴィルを訪ね、 過去のジルベルトの行動の真相を知る。 戦時下のパリ。サン・ルーの変化とシャルリュス氏の凋落。
昼食を生協でとって、 12時半から「数理計画法」(中身は線型計画法)。 講義の最初に聞いてみたら、 線型代数には自信がない、高校の時のベクトルや行列もあやしい、 という人が多いようだったので、 しばらく線型代数入門をすることにする。
夕方は「確率・統計」。 この科目は既に情報学科の新カリキュラムにない、 三回生より上の学生の再履修科目である。 そのため例年250名近い聴講者数がその10分の1もいなかった。 例年は確率分布の計算などを中心に実用本位でやっていたのだが、 今回で最後の講義になるだろうこともあって、 方針を完全に変えてみた。 K岡先生の初等的な教科書などに従って、 確率の基本概念の意味など、 まったく初等的な所にこだわってみることにする。 今日は、サンクトペテルブルグ問題、 フェルマー=パスカル書簡、 ベルトランの問題、天才マリリンの三つの扉、 など有名な問題を紹介する。 講義の目的はこのような問題を自分の頭で 考えられるようになることである。
どこかで見たことのある女の子が前の方で聞いているな、と思ったら、 講義の後、挨拶にきて、経済経営の院生とわかった。 偉い。指導教授の指図かも知れないが、偉い。 かのケインズも経済学に進む出発点として、 確率の基礎概念の哲学的追及に心血を注ぎ、 「確率論」と言う大著まで執筆しているのである。 「インドの通貨と金融」の後に出版されたが、 事実上、ケインズ青春の総決算としての処女作である。 金融工学とか数理ファイナンスとか言う前に、 初等確率論をきちんと学ぶことこそ王道、 迷わず王道を歩んでいただきたい。
その後、数理の学生が進路相談にやってきて、 7時過ぎくらいまで色々話していたので、 夕食も生協でとって帰宅。
四月の三分の一が消えてしまった。まずい。
午後一、アクロス方面の会議。 理工からは僕だけしか行ってないんだろうな、 と思って行ったら、果たして僕だけであった。 僕は真面目過ぎるというか、義務感があり過ぎるのだろうか。 とは言え、30分くらいの用件だけですぱっと終わり、 会議はこうでなくてはいかん、と思う。 その後、新学期初の教授会。
これからは大学もIT革命で、グローバルで、 国際的にならなくてはいけなくて、 ぼっとしてるとドッグイヤーだから、 追いていかれちゃって、大変なことになって、 とにかく大問題だからIT革命が急務(笑)
今日のプルースト。 主人公はふと立ち寄ったホテルで、 シャルリュス氏が若い男に自分を鞭打たせて マゾヒズムにふける所を目撃することになってしまう。 プルースト以外の読書。 「確率の哲学的試論」(ラプラス、岩波文庫)。 昨日の講義でちょっと疑問に思ったことがあったので。
この日記は、GNSを使用して作成されています。